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2015年04月16日

日常の会話は文法的にブロークンなのか?

「“受験英語”を“使える英語”に変える実践的会話術」という記事を見つけた。著者は鈴木寛氏(東京大学・慶応義塾大学教授、文部科学大臣補佐官)。

一番最初の見出しに「東大を出ても話せない」などと書かれているが、何かというと東大を引き合いに出すのはナントカの一つ覚えではないか? まあ、それはさておき…。

書かれている内容をざっと読んだが、特に異論はない。ただ、
私たちの日本語での会話に置き換えても当たり前のことですが、英語のネイティブも日常の会話では文法的には「ブロークン」な形で話しています。英語は日本語と違い、主語を多用しますが、2人と話していると頻繁に省略しています。たとえば「あなたは日本人ですか?」を英訳すると、教科書どおりなら主語と動詞の順番を入れ替えて「Are you Japanese?」と話すところですが、実際の会話では「You are Japanese?」と語尾を上げるだけでいい、という具合です。
という部分は、実践的にはそのとおりだが、文法というものに対する理解の仕方は間違っていると私は考える。なぜか?

「You are Japanese?」のような言い方は、フォーマルな場面では避けられるべきものだろう。しかし、たとえそうだとしても、「日常の会話」においては十分に正しい(適切)とされる言い方なのだ。つまり、これもまた文法に従ったものなのであって、文法を逸脱した「ブロークン」とは根本的に異なるものであると理解する必要がある。フォーマルなものだけが文法ではない、ということだ。

もしフォーマルな場面で「日常の会話」的な話し方をしてしまえば、それは「不自然」「不適切」と評価されるだろう。しかし、それとまったく同様に、「日常の会話」的な場面でフォーマルすぎる話し方をすることもまた、「不自然」「不適切」と評価されるはずだ。後者は失礼ではないから許容度は比較的高いけれども、文法からの逸脱という意味においては、これもまた「ブロークン」と呼ふべきものなのだ。

そういえば、最近は何かにつけて「文法は間違ってもよいから話すべき」と言われることが多くなってきた。たしかに間違いを恐れて話し出せない日本人は少なくないし、そのような人たちのメンタルバリア(?)を取っ払う効果はあろう。

しかし、旅行や買い物以上のレベルを求めて外国語を学ぶのであれば、言語の大きな柱の一つである文法を軽視することは大きな誤りだ。以前にもどこかに書いたと思うが、ここは「文法的に正しく話すことができないのなら、できるように訓練しよう」と考えるべきところだ。こんなことは他の科目(たとえば数学の計算方法や楽器の演奏方法など)では当然のことなのに、なぜか英語だけ例外扱いされてしまっている。言語とは人間の精神と不可分一体のものなのに、はたしてそれでよいのか?

そもそも…と大仰に構えるまでもなく、言葉を大切にすることは、相手を大切にすることだろう。となれば、文法を守ることはその一歩であり、発音にも同様の側面がある。そして適切な語彙選択などの課題がそれに続くのだと私は思う。

posted by 物好鬼 at 23:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

法律的発想と配慮 〜住みやすさは大切〜

BLOGOS に "「ご自由にお取りください」ラーメン屋でネギを大量に食べたら「出禁」こんなのアリ?" という記事があった。書いたのは弁護士ドットコム。これに関して Facebook に私見を書いたので、こちらにも貼っておきたい。

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いかにも法律家的な発想だと思う。私も民法の基礎は学んだことがあるから、契約云々という部分は理解できる。

しかし、「ご自由に」というのは「いちいち許可を取る必要はありませんよ」という意味であって、量が無制限であるということまでは意味しないだろう。店員が「こっちも商売でやってるんで」と言ったのは当然だ。こんなことは立場を逆にして考えれば容易に想像できるはずだ。

たとえ厳密に書かれていなくても、その背後には「分量は常識の範囲内でお願いします」という暗黙の了解があるのだと理解すべきところであり、美味しく食べることが優先されるべき場所にいちいち厳密な記述を求めるのは、それこそ「やぼ」というものだろう。

これはやや日本的な「配慮」の問題なのかもしれない(だから欧米諸国に同じことは期待しない)が、こういった暗黙の了解が読み取れない人が多くなりすぎると、その社会は住みにくくなるのではないか。法律がどんなに大切なものだとしても、日本のよいところは失わない方がよいと思う。

そう考えると、
『ご自由にお取りください』の張り紙は剥がすべきでしょう。できない約束を掲げて客を勧誘するのはアンフェアですし,大食いに対する『理由なき差別』です。
といった一面的な主張をするよりも、
法律的にはこのようなトラブルに発展する可能性があるのでお店側も注意が必要です。しかし、人間社会は法律が全てではありませんから、客側としても店の足元を見るようなことは控えるのが賢明です。お互いのことを思いやる気持ちがないと、住みにくい社会になってしまいますから。
のように言った方がよいはずだ。そして、このようなことは法律を専門とする人間こそが率先して語るべきであると私は思う。

posted by 物好鬼 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

“an egg”は「あんえっぐ」ではない

今回は初歩的な発音の話。

日本語の「ん」はローマ字では n と書くことが多い。しかし、少なくともヘボン式では「乾杯(かんぱい)」は kampai と書かれる。もう少し正確に言うと、直後が b p m のいずれかである場合に、n のかわりに m が使われる。

ヘボン式ローマ字にそういうルールがあるのは、それは実際の発音がそうだからだ。もっとも、「実際の発音」としては、他にも区別すべきものがある。

実は日本語の場合、「ん」で表される音にはだいたい次の4種類がある。
(※あくまでも「だいたい」であって音声学的に正確な説明ではない。)

 [n] … 直後が [t] [d] [n]  例:音読(おんどく)
 [ŋ] … 直後が [k] [g]  例:音楽(おんがく)
 [m] … 直後が [b] [p] [m]  例:音波(おんぱ)
 [ɴ] … その他(語末も)  例:音域(おんいき)

ヘボン式ローマ字では、[m] のみが発音どおり m と書かれ、その他の場合はすべて n と書かれていることになる。

さて、ここからは英語の発音。

英語の発音に不慣れな人(大半の中高生はそうであろう)に an egg を発音させるとしよう。これは "「ん」の直後に母音" というパターンになっているから、たいていの人は日本語の発音ルールに従って上記ルール最後の [ɴ] を使おうとする。その結果、「あんえっぐ」のような発音になる。

もちろんこれは英語的な発音ではない。実は日本語でよく使われる [ɴ] は英語には存在せず、英米人はかわりに [n] を使う。そのため、an egg は「あねっぐ」に近い発音になる。

つまり、[ɴ] のかわりに [n] を使うようにしないと英語らしい発音にはならない、ということになる。

posted by 物好鬼 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 英語論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

基本や形(かた)の重要性について(ツイート集)

ここ最近のツイート(いずれも140字ちょうど)の中に「基本や形(かた)の重要性」に関するものがいくつかあったので、新しいものから順に並べてみたい。特に整理されたものではないが、何らかの food for thought になればと思う。

発音をよくしたいのは、半分は他人(聞き手)のため、残り半分は自分のため。私みたいな性格だと、「自分のため」に力点を置いた方がうまくいく気がする。「自己満足」とも言うが、他人迷惑ではない以上、遠慮する必要はあるまい。僻むような手合いは遠慮なく放置。文法も同じだ。残るはボキャビルか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585256364462608384
上達のための最大のカギは、自分の弱点を明確にして克服することだ。仮に文法が弱い人であれば、文法を学ぶことで飛躍しうるだろう。しかし、たとえ自分がそうであっても、文法が他の人にも特効薬として機能するとは言えない。弱点には個人差があるからだ。それを無視して安易に一般化すると失敗する。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585012415173042176
This is a pen. という例文について「こんなの実際には使わない」と言ってる人たちは、小学校の算数の教科書に 2+3=5 とあっても「実際の足し算はもっといろんな組み合わせで行われるのだ」と文句を言うのだろうか。例は例なのだ。それを踏まえて各自が自分用に改造すればよい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584638854721708033
スラッシュに限らず構造解析系の作業というのは、@結果より方法を知ること、A自力でたくさんやること、B正確さを維持しつつスピードアップすること(同時に書く量は減ってくる)に注意することが大切だろう。その結果として書く必要性がなくなるのだ。数学の式変形などにも同じことが言えると思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584574379842867200
世の中には異様なほど頭の回転が速い人がいるが、中身の正しさは別の問題。長期的観点からは、少しくらい時間がかかっても的確な判断を下せるほうがよい。スピードは後からつければ足りる。これは言うほど簡単ではないが、スピードに慣れたあとで緻密さを高めるのは、多くの人が想像するよりも大変だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/583408321299816449
ディクテーションは時間がかかるが、相応の意義がある。書き出すことで一つひとつの文字・音と向き合うことができるからだ。これと同じことが英文和訳についても言える。助動詞の意味などは特にそうだが、母語で実際に書いてみることでニュアンスと向き合うことができる。内容面のディクテーションだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580865875324080128
「中高で6年やっても話せるようにならない」から「中高の英語は役に立たない」と帰結するのは短絡的だ。「中高の英語すらできていない」という可能性を忘れているからだ。実際のところ、まともなやりとりには中学英語の全体と高校英語の大半が必要だろう。ただ、それらをどう学ぶかはまた別の問題だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580394566752157696
かつてコンビニ店員などが「マニュアル人間」と呼ばれ揶揄された。これは本来なら「あらかじめ決められたことすら高々表面的にしか習得していない」と考えるべきところなのに、「決められたことをする=悪」と考える人もいた。知識を軽視する現在の風潮も同じだ。「守破離」の智恵はどこに行ったのか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/578331286944677889
私は「知識も思考力も」という考えだ。もし答えを自力で見出す努力を避けて他人の手になる答えに頼るような学び方ばかりしていたらどうなるか? その意味で、知識の集積を一時的に制限して思考力の訓練に集中する時期はあってよい。だが、最終的には膨大な知識を習得しないと文化遺産は継承できない。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577436690060472321
野球の練習は、ウェアに着替え、道具を持ってグラウンドに出て体をほぐすだけでなく、お手本を理解して真似るところまでが準備だろう。そこから後が練習だ。語学なら、辞書を引くのはもちろん、テキストの内容や音声などを押さえるまでが準備となる。だから、そこでやめたらほとんど何も残らないのだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577244841555292160
書店に行って学参をパラパラめくることが多いのだが、非常にわかりやすく書かれたものがたくさんある。こういうのを一通り買い揃えて本棚にさりげなく並べておくだけでも、そこそこの教育的効果があるのではないか。もちろん勉強以外でも同じだ。人間だけでなく、書物の交際範囲もとても大切だと思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/576245467111038977
「英語がうまくならないのはネイティブが使うような本物の言い回しを知らないからだ」というのは、「武道がうまくならないのは達人の師匠から秘伝の技を習ってないからだ」というのに似ている。そして多くの英語学習者が「秘伝の技」を求める。しかし、両者の本当の共通点は、基本訓練の重要性だろう。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/570183042553094145
形式より内容が大事とよく言われるが、内容が大切であればこそ、その内容に見合った形式を与えることも大切であるはずだ。それがまた内容への更なる切込みを可能にしたりもする。武道にしても数学にしてもそうやって発展してきた面があると思う。語学なら、内容に逃げず、文法・発音なども学ぶべきだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568943233545342976
知識については、@どんな知識を持っているか、A持っている知識をどれだけ使えるか、B持ってない知識をどうやって獲得するか、の3点を考慮する必要があろう。出題範囲が決まっている試験ではBの評価は難しいが、学者になりたい人は注意すべきだ。一方、大半の受験生は@とAの差がわかれば足りる。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568213805706014720
英語学習中なのに文法書を読んでないとおぼしき人が少なくない。どうせ文法と無縁ではいられないのだし、学ぶのであれば手元に本があった方が便利だ。あと、「文法や文法用語が使えるのはカッコイイ」と思えることも結構大事だと思う。必要性には個人差があるとしても、少なくともポジティブでいたい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/566014405830115329

posted by 物好鬼 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

言語の本質は音声ではない

今日のニュースで「手話法の制定求め意見書可決 全都道府県議会」という記事があった。そしてそこには
手話を言語として認め、使用しやすい環境整備を目指す「日本手話言語法」の制定を求める意見書が全ての都道府県議会で可決された
と書かれていた。私自身も中学時代に手話の勉強をしたことがあるから思うのだが、手話法の制定を求めることは聴覚障害者らのために望ましいことであるし、また、当然のことでもあろう。
※なお、「障害者の権利に関する条約」第2条には「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」とあり、「障害者基本法」第3条三号には「言語(手話を含む。)」という文言がある点をここで指摘しておきたい。

ところで、Wikipedia で「音声言語」の項を見ると、
ヨーロッパで成立した近代言語学では人類の言語の発生、並びに本質は音声言語であるとされる。これを「音声言語中心主義」という。
と書かれている。音声言語が「人類の言語の発生」だけでなく「(人類の言語の)本質」でもあると言っているところに注目していただきたい。似たような主張は昨今の英語教育改革論の中でも見かけるが、それは「話す」を4技能の中心ないし基礎と考えるにあたって、音声言語中心主義的発想が(意図的か否かはともかく)その根拠として使われているからかもしれない。

これは一見したところ正しいように見える主張ではある(何せ近代言語学で言われていることなのだ)が、この立場に立つと音声を媒介にしない表現(論理的には手話に限定されない)を言語であると認めることができなくなってしまう。本当にそれでよいのだろうか。

最初から結論的に言うならば、私見では
「言語」とは、人間が「規範に従って感性的な形式を運用することで自らの認識を表現し、同じ規範を裏返し(逆向き)に使うことで他者の表現を鑑賞する」という過程的構造を使用するときの、その<表現>(行為ではなく物質的に外化された成果物)のことである
とでも考えるべきものだ。(ここでは詳しい論証まではしないが、この考えが三浦つとむに多くを負うものであることだけは記しておきたい。)

さて、ここに登場する「感性的な形式」というのは、本来的には、当事者双方が操作および認識できるような形態であれば何でもよい。しかし、目・耳・口に大きな問題がない場合には、まず間違いなく「人の口から発せられた音声」がその人にとっての「感性的な形式」となるだろう。逆に、生まれつき耳が聞こえない人が手話使用者に囲まれて育った場合には、手話の形式が「感性的な形式」となる可能性が高い、ということでもある。

「言語」一般をこのように捉えれば、手話のようなものも言語であると容易に認めることができる。それがこの考え方の決定的なメリットと言えるかもしれない。その一方で、具体的なレベルで見ると、大半の人(より正確には目・耳・口に大きな問題がない人)にとって音声言語が母語となりやすいということも否定されない。つまり、現状との関係では、何の問題も発生しない。

言い方を変えるならば、ここには2階建ての構造があるということでもある。そこを誤って平屋(ひらや)的に理解すると「言語の本質は音声言語である」となってしまう。しかし、特に専門家たる者は、このような論理的ミスをしていてはならない。

もちろんこういう考え方の相違というのは、「大半の人」に対する教育ではほとんど問題にならないであろう。しかし、実践だけでなく理論にも関心がある人にとっては、決して無視すべきではない、大切な区別であると私は考える。ぜひ food for thought にしていただきたい。

posted by 物好鬼 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月27日

通じればよい?

(Facebook に書いたもの)

まずは引用を一つ。

単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。 (種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』pp.187-188)

言葉を学ぶときに「通じればよい」とのみ考えるのは、相手の人間性を軽視するものだ。基本はあくまでも「通じなくてはならない」(通じることは十分条件ではなく必要条件)であり、そこから先の部分で学習者自身の人間性を問われることになるのだろう。これはもちろん母語についてはなおさらである。

人間性に関してここでもう一つ(かなり長いが)引用する。

本来、直接に必要がないと思える<学校教育>の本質は、人間を一時<生産>から解放することによって、その期間に<全人類の歴史性>、すなわち文化遺産を受継ぐ基盤を築かせるのに存する。これなくしては、その社会における<歴史性>をもった人間にはなれないからなのである。
(中略)
だから、現在の学校教育の欠陥を、単に<落ちこぼれ救済>のレベルで考えるなどはナンセンスであり、全体系を<人類の歴史性>の観点から把えなおすべきであり、それ以外ではないのである。現場での一例をあげるならば、教師は、数学を通して<人間>を教えるのであり、歴史を通して<人間>を教えるのであって、けっして、<数学>・<歴史>を個として教えるのではないという自覚が出発点なのである。
(中略)
人間が情熱燃やして学ぶすべてのことに<歴史性をふまえた人間論>が必ず要求されるべきなのである。
(中略)
人間にとっては、単なる<強さ>といえども、かかる歴史性をふまえて把えなければならないものであり、結果さえよければよいというのは、あまりにも人間の動物化であろう。もっといえば、<強さ>もそのなかに含まれる<人間性>の、<歴史性をふまえた人間性>の<強さ>でなければならず、別言すれば、文化遺産としての<技>を正統にひきつげる、そして<歴史性をもった技>をより<見事なる歴史性>へと転化できる技での<強さ>でなければならず、そうでなければ人間の価値は、<ゴリラ>以下となってしまうであろう。
(南郷継正『武道とは何か』pp.81-83)

何を学ぶにしても、その目的・対象・方法は人間論の中に位置づけて問い直す必要があるということだろう。30年前の私は上記引用のようなものを熱心に読んでいたものだが、ここ最近はどうもその「志」を忘れつつあったようだ。引用文を入力しながらそのことを強く感じた。

英語にしろ数学にしろ「使えてなんぼ」であることは事実なのだが、その側面に流されすぎて<ゴリラ的な強さ>ばかりを習得してしまうことのないように心掛けたい。「言うは易く」であることは知っている。しかし、学びは日々の積み重ねであり、その積み重ねこそが人間としての己を創るものだ。

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2015年03月26日

「無断引用」という言い方

ほぼ1年前、毎日新聞・校閲グループが次のようなツイートをしている(2014年3月17日 19:10、論評のため全文引用させていただく)。

【直したい表現】「無断引用」→○「無断転載」 ◆「無断引用」は誤り。著作権法でいう「引用」は、同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること。「転載」は「引用」範囲を超えた行為で、許可を得るなどの手続きが必要。無許諾の複製による利用は「無断転載」「盗用」「不適切引用」

はたしてそうなのか。以下にの私の考えを記す。

まず、著作権法では「引用」という語は定義されてはいない。第32条1項において
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
(強調は筆者)
のように使われているだけだ。他の条文にも登場しない。

では、この「引用」という語は、@法32条に示された条件を満たしたものに限定して使うべきなのか、それともAそうでないものをも含んだ一般的な意味で使うべきなのか?

法解釈の最大のよりどころは条文であるから、ここであらためて条文を見てみよう。上記のとおり「引用」は3回登場する。

まず1つ目は、「公表された著作物は」というかたちで対象を限定し、「目的上正当な範囲内で」というかたちで目的を限定している。このようにして意味範囲を限定しているということは、この「引用」はもともとA(一般的)の考えに立ったものであると理解できる。

2つ目と3つ目はわかりにくいが、1つ目がA(一般的)である以上、2つ目と3つ目も同じくAであると判断するのが自然であろう。少なくとも、いずれについても@(限定的)であると断言するに足りる根拠はないと私には思われる。

さて、上記ツイートを見ると、「著作権法でいう『引用』は同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること」とある。これは明確に@(限定的)の考えに立っている。
(この断定が何を根拠としたものなのかはよくわからない。書店に行って著作権法の専門書を何冊か見てみたが、それらしいものは見つからなかった。逆に、A(一般的)の立場で書かれたものはあったと記憶している。)

ところが、最後に登場する「不適切引用」はというと、「不適切」という限定が可能であるところからして、この「引用」がA(一般的)の考えに立つものであることは明らかだ。となると、一つのツイートの内部で「引用」の意味が矛盾していることになる。これはA(一般的)に統一すべきものであろう。

さて、ここでようやく本題。肝心の「無断引用」については、やはり適切な呼び方とは言えない。いくつかの条件を満たしてさえいれば無断で引用することが許される以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ(このように理由を明示することが大切である)。その意味からは、違法なものだけを示すときには、毎日新聞・校閲グループの言うように「盗用」「不適切引用」などの呼び方をするのがよいだろう。

ただし、「無断転載」には疑問が残る。というのは、転載もまたいくつかの状況(32条2項、39条1項、40条1項)においては無断での実施が許されている以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ。そのため、私としては代案のリストからはずしておきたい。

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2015年03月05日

掛け算の順序問題について

あくまでも思いつきの私見ではあるが、忘れないうちに記しておきたい。

参考:Wikipedia 記事 。足し算についても同様の議論があるので、ここではまとめて論じる。


まず基本的な事実として、掛け算にしろ足し算にしろ、具体的なあり方としてはさまざまなタイプのものがあり、中には2つのオペランド(演算の対象となる値や変数、「被演算子」)の順序ないし役割を区別すべき場合もある。そのこと自体は別に間違ってはいない。

しかし、2つのオペランドのどちらを先に置いても演算結果が同じになるということも事実であり、それゆえに「×」や「+」は可換な演算子(オペコード)として定義ないし理解されている。(「そのように定義されてはいない」という立場でも交換法則は認めるであろうし、「×」「+」という記号自体に順序を指示する部分がないことも否定はできないであろう。)

つまり、「×」「+」という演算子の機能は、オペランドの順序や役割の違いを捨象したものなのである。ゆえに、演算子について指導する際にそのような特殊性を強制的に含めてしまう(特殊性を一般性として扱う)ことは矛盾であり、論理的な指導とは言い難いであろう。

もちろん、冒頭にも書いたように、オペランドの順序ないし役割の区別を理解させたい場合はあるであろうし、そのこと自体に問題はない。しかし、そのような場合には、「×」「+」という演算子を使わずに自然言語で説明させるべきであろうし、それで足りるであろう。なお、この目的のために新たな演算子を導入することも不可能ではないが、小学生に対する教育内容としては適切とは言えまい。

ここで、記事中に「乗数を右に書くと、四則演算のすべてが 操作される数、操作する数 の順に統一でき合理的である」とある点に一言しておきたい。このようにすれば確かに「統一」はできる。しかしそれは、"足し算や掛け算のように交換法則が成り立つもの" と "引き算や割り算のように交換法則が成り立たないもの" との間にある違いを捨象してしまう点に問題がある。そもそも算数・数学の教育としては、生徒たちにその「違い」をも認識させる必要性があるはずである。もちろん小学生にいきなり理解させるのは難しいであろうが、その方向で教育を進める必要性はあろう。となれば、"四則演算全部の共通性" ばかりを強調しすぎず、"交換法則の有無による特殊性" をも取り上げるのが必須かつ妥当な方法と言えるであろう。

ここまでが、この問題に対する私の現時点での考えである。
 

リンク先の記事を読んで思うのは、賛成・反対どちらの主張も一面的なのではないかということだ。私もこれまでに政治や学問も含めたさまざまな問題について考えてきたが、その経験から「意見が2つの陣営に大きく分かれて対立しているテーマの場合、たいていはどちらの陣営にも見落としている側面ないし事実がある」と考えるようになっているのだが、それはこの「掛け算の順序問題」にも当てはまるように私には思われる。

端的に言うと、賛成論は「×」「+」という演算子が持つ「オペランドの順序・役割による違いを捨象する」という性質を無視して(つまり、特殊性にすぎないはずの「違い」にこだわって)おり、反対論は掛け算や足し算における具体的なあり方にさまざまなタイプのものがある(オペランドの順序・役割による違いを理解することも大切である)という点を無視している。もちろんこれらは両極端であり、実際には中間的な主張もいろいろあるであろう。それに対する私の考えは上に述べたとおりであり、演算子と自然言語とを併用することによって問題解決を図ろうとするものである。
 

以下、まったくの蛇足ではあるが、これと似たことが<分数>についても言えるので、ついでに紹介しておきたい。問題の論理構造としては掛け算の順序問題とは異なるものであるが、これ自体がとても興味深い論点であるので、あえて本記事内でとりあげることにする。
 

まず、通常の分数においては、たとえば 1/4 + 1/3 は 7/12 に等しいとされる。では、これに対して教え子の小学生が「でも、4打数1安打と3打数1安打を足したら7打数2安打ですよ」と反論してきたらどうするか、という問題がある。これは大学生が家庭教師で小学生に教える際などに悩まされることがあると聞いたことがある。

ここで大切なのは、この子の考え方(それなりにしっかりした根拠がある)を頭ごなしに否定するのではなく、それ自体の妥当性を肯定したうえで、「算数で習う分数というのはそれとは違ったパターンの場合に使うのだ」ということを具体例を挙げて示すこと、であろう。

参考のため、その「具体例」を1つ挙げておく。

「ここに夫婦と子供2人の4人家族がいます。お父さんは毎日ケーキを買って帰ります。そのケーキはいつも同じ種類・大きさのもので、それを家族で平等に分けて食べます。ただし、誰かが出掛けていたりして家にいないときは、家にいる人だけで分け、いない人のために残すようなことはしません。
 さて、昨日は家族全員が家にいたので4人で分けました。お父さんが食べたのは 1/4 個です。ところが今日はお母さんが実家に帰ってしまったので3人で分けました。お父さんが食べたのは 1/3 個です。さて、昨日と今日の分を合わせると、お父さんはケーキを何個食べたことになるでしょうか」

この場合には 1/4 + 1/3 = 7/12 という通常の分数計算が適用できることは容易に見て取れる。ではその基礎は何なのであろうかと考えてみると、それはどうやらすべての日に共通している「ケーキ1個」が一種の単位(=1)となっている点にあるようである。

それに対し、野球の「○打数○安打」の場合にはそのような単位が存在しない。そして、通常の分数計算は使えない(上に紹介した小学生の発言どおりになる)。もちろんこのような場合に対して通常の分数とは異なる演算子を導入することも可能ではあろうが、そのことにどのくらいの利益があるか私は知らない。

以上。

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2015年02月22日

わが卒論より「母語の習得と思考力の発展」

これも24年前に提出した卒論の一部。先月投稿した「言語と〈言語規範〉」の2つ後の項目。注意事項も同じ。

母語の習得と思考力の発展

 表現とは一般的には認識の逆反映である以上、「ワケも分からずに……」というのを除けば、人間は自身の認識のレベルに応じてしか表現できないはずである。
 であるから特に母語の場合は、元々ゼロに等しかった認識が複雑化していくのに並行して、言語表現も複雑化していくことになる(ただし機械的に対応しているわけではない)のであり、また、そうならざるをえないわけである。

  (図1つ割愛)

 参考までに述べておけば、日常生活における体の動きの習得について、「……これとても、初めはやはり力強くやることで創ったものではなく、幼児から成年になる過程で、つまり、力を入れようにも力がないレベルで形をとることから始まったものです」(南郷継正『武道への道』p.122)と言われているのであるが、これと同様のことが言語についても言えるのである。
 そして、それなりの言語能力が身に付くと、今度は逆に(音声)言語表象を使って概念の運用が積極的に行われるようになる(二重ラセン状)。もちろん、他人の言語表現をとおして他人の思想について学ぶ(文化遺産などの習得)、ということも並行して行われることになる。
 ところが、そのようにして発展した認識能力の持ち主が他の言語(規範)を習得しようとする場合、大いなるジレンマにぶつかることとなるのである。つまり、表現したいことはあるのに、それにふさわしい表現形式が(少なくとも即座には)思い浮かばない、というジレンマである。これは、母語習得の場合には、認識能力と表現能力とのギャップが小さい関係上あまり問題にならないのであるが、大人(中学生でも同様)の場合には、いわゆるブロークンへの道を進む最大のキッカケになるものである。
 そこで、「外国語で考える」実力を付けるためにも、初めのうち(といっても発音の基礎は習得した上でのことである)は、内容面にはあまりとらわれすぎずに形式的な訓練をシッカリと行わなければならない。その意味では、外人とのオシャベリなどは、余程注意しない限りは危険なものである。
 なおここで「外国語で考える」とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である。
 ちなみに、後述の速読理論における「視読」の場合は、単語の文字表象から直接(音声表象を介さずに)概念構成し、更に追体験していくのであり、認識の論理構造は同じである。

オマケ:最後の段落に関しては、この卒論よりも少し早い1988年に「2重アクセスモデル」というものが門田修平氏によって発表されているらしい。

以上、何らかの参考になれば…。

posted by 物好鬼 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月07日

語学にはやはりウォークマンがあると便利だ・2

4年前に書いた「語学にはやはりウォークマンがあると便利だ」の続編(?)。

4年前に購入したものは今でも一応問題なく動く。幸いなことにいわゆるソニータイマーも発動してはいない。それに、今月はあまりお金を使わないつもりでいた、というのもある。

しかし、4年も使っているとさすがにバッテリーの持ちが悪くなってきた。3〜4時間は動くのだが、半日とかの外出では少し不便に感じてしまう。私は大書店に長居することが多いが、そんなときはウォークマンがないと耳が淋しい。ここ数日で急に不満が大きくなってきた。

そんな出来心ゆえに、一昨日の仕事帰りに秋葉原に寄った。カタログは家に置きっぱなしだったから購入機種は決めていなかったが、大ざっぱに

 ・スペックは前回と同じ程度か少し上
 ・価格は前回と同じくらい(もちろん安い方がありがたい)

とは考えていた。(高級な ZX シリーズは価格ゆえにこの時点でボツ。)

店に到着するなりカタログを1冊手に取り、めぼしそうな機種に店頭価格を書き込んでから機能を細かく比較していった。もっとも、現時点ではハイレゾ(CD の数倍の情報量を持つ高音質音源)にはあまり興味がないので、語学関連機能とメモリ容量以外はほとんど無視することになった。

つまり、語学関連機能を搭載しているAシリーズSシリーズEシリーズに絞られたわけだ。

このうちAシリーズはややハイスペックであるが、SシリーズとEシリーズは4年前に買ったもの(Sシリーズの一つ)にかなり似ている。ただ、Eシリーズはメモリ容量が 4GB しかないうえ、動画が扱えない。私の手元には語学・音楽などあわせて 26GB くらいのデータ(写真と動画も少しずつ)があり、そのうち 20GB くらいを持ち歩いているから、さすがに 4GB では話にならない。動画も扱えた方がよい。

ここでEシリーズが脱落し、AシリーズとSシリーズが残った。両者の違いはいくつかあるが、ハイレゾ関連以外だと、主にメモリ容量と価格が違う。

 Aシリーズ:64GB(36,180円)、32GB(26,460円)
 Sシリーズ:16GB(18,900円)、8GB(15,500円)

 ちなみに4年前のものは 32GB(19,800円)だった。Aの 32GB のものは(機能も上なのだろうが)価格も上がっており、逆にSはメモリ容量が 2/1 や 1/4 になっているのに価格はそれほど違わないのがわかる。そのことに気付いた私は「何てこったい!」と思ったが、これはおそらく「せっかくならハイスペックな機種を買え!」という天の声なのだろう(違)。

というわけで、Sシリーズがボツった。残るはAシリーズの2つ(メモリ容量のみ違う)だ。

手持ちのデータが 26GBくらいあると上に書いたが、これは今後増える可能性もあるから、その意味で 64GB は魅力的だ。一方の 32GB は現状維持ということになるが、それでも満タンになるにはまだしばらくかかるだろう。でもなあ…、と考えていたときに気が付いたことが一つ。このAシリーズには microSD カードを使うことができるのだ(ただし、内部メモリとの切換に一手間かかるらしい)。ならば、それは必要になったときに買い足せばよい。つまり、32GB タイプでよい。

以上のようなプロセスを経て、最終的に NW-A16 という機種に決定した。色については今回はシルバーを選択した。

蛇足だが、現在のウォークマン(「語学学習モード」があるもの)には「ダンスモード」というのが追加されている。これは「語学学習モード」と違って「クイックリプレイ」はないが、かわりに「スピードコントロール」が使える。それも「語学学習モード」のときよりもかなり扱いやすく、かつ5%刻みになっている。つまり、「A-Bリピート」を使わないのであれば、「語学学習モード」よりも「ダンスモード」にしておいた方が便利ということだ。

蛇足の蛇足。さらに「再生範囲」という設定もある。普通、ある曲を選択すると、その曲の後にすぐ次の曲、そのまた次の曲…と進み、そのフォルダ内の最後の曲まで片付くとそこで終了するか先頭に戻る(詳細はプレイモードによる)。ところが「再生範囲」を「全範囲を再生」に設定しておくと、次のフォルダの先頭に進む(以下同様に片っ端から再生していく)。これはこれで面白い機能だと思う。

具体的な使い方については現在試行錯誤中。結果は近日中に書きたいと思う。


以下、検討した機種(スピーカー付属タイプは割愛)。色も適当に選んだ。
※購入に際しては、リンク先のレビューなども参照されたい。

  
  


posted by 物好鬼 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ツールたち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする