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2015年12月22日

英語にはスピーキングより暗唱のテストはいかが?

ニュースをチェックしていたら、「大学入試改革 新テスト 記述式をまず国語と数学で」という記事を見つけた(英語にも触れられている)。

ざっと見たところ、国立大学協会の「数十万人が受験する規模のテストで、物理的に実現可能かどうかが最大のポイントになる」に尽きると思った。理想は理解できるとしても、何でもかんでもテストに盛り込もうとしすぎなのだ。

以下、入試に関する私見(試験だけに)。

国語は現状(センター試験+2次試験)のままでよい。それ以上の測定が必要ならその範囲でやればよいのであって、全員に高度なテストを受けさせる必要はない。

数学もほぼ同様だが、マークであれ筆記であれ、公式・定理の証明を扱うとよいと思う(この方法はおそらく物理でヨリ有効)。

英語については、現状のものに加うるに

 @英語の音声(100語程度の未知のパラグラフ)を
  30分で答案用紙に書き取る

 A書き取ったものを
  30分で暗記する

 B暗記したものを
  20分で別の答案用紙に書き出す
  (@の答案用紙は見ないで行う)

というテストを課してはどうか(時間や語数は仮のもの)。課題のパラグラフは、文法・語法・語彙・音声などに関する知識や能力によって聞き取りやすさや覚えやすさが違ってくるように作成しておく。

この方式には

 ・受験者の英語力が多面的に測定できる
  (Bを口頭で行えば更に総合性が高まる)
 ・創造性を問わないので
   ・採点の手間が比較的小さくてすむ
   ・採点結果のバラツキも少ない
 ・試験対策がそのまま英語力向上につながる

といったメリットがあろう。

これで散々な結果に終わる受験生は英語の基礎力が不足しているはずだから、スピーキングテストなどを課してもあまり意味があるとは思えない(基礎力不足のまま無理に対策してもブロークンを加速するのみであろう)。つまり、パラグラフ書き取り・暗記・書き出しのテストはスピーキングテストなどへの足切りとしても有用であると考えられる。

蛇足:センター英語のリスニングについては、@スピードを5割くらい上げる(内容が易しいのだからスピードを落とす必要はない)、A1度しか聞かせない、の2点を提案したい。リーディングは制限時間を短くするとよい。完璧にはほど遠いとは思うが、これだけでもかなり実戦的になるはずだ。

posted by 物好鬼 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月01日

脳科学的に専門家とは何?

今度は "中野信子氏「日本人は、脳科学的に英語が下手」" という記事。

脳科学者さん曰く、
大まかには、プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています。だからIT系の人はそれほど抵抗をもたずに、語学の学習ができると考えられます。

 「ユニバーサルグラマー(普遍文法)」という概念があって、日本語、英語、どの言語であっても、言葉による認知の方法は、大きく違わないといわれています。たとえば「話す」とか「取る」といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもありますよね。それらを概念化して認知し、単語を組み合わせて文章を構築するという基本的な流れは、どの言語でも違わないだろうという考え方です。プログラミング言語も同様です。
との由。せっかくなので私なりにツッコミを入れておきたい。

まず、「『話す』とか『取る』といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもあります」という部分だが、これは人間が生活している現実世界に基礎を持つものであって、普遍文法を云々するまでもない問題だ。人間は対象から得た像をもとにさまざまな認識を創りだすのだから、自然言語の語彙や構造を扱うときにはその点を無視してはうまくいかないのだ。

それから、「プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています」という部分。自然言語にもプログラミング言語にも人間が扱う「言語」としての共通点は多々あるし「習得に共通の基盤があると考えるのが自然だろう」もある程度までは正しいとは思う。

しかし、日本人が特に苦手としていると言われるスピーキングがプログラミング言語には存在していない点は特に注意が必要だ。また、プログラミング言語の内部にもアセンブラから手続型、関数型などさまざまな種類があり、自然言語との距離にもかなり大きな幅があるということも忘れてはならない。この脳科学者さんはこういった事情をまったく認識していないと見える(東大工学部出身らしいのだが)。

次に、終わりの方(現在は登録しないと読めなくなっている)にある「失敗しても心の痛みを感じにくい環境を工夫して作り、積極的に話せる機会を持つことが最善の方法だと思います」という部分。積極的に話すことは大事ではあるが、この点ばかりに注目するのは正しくあるまい。球技におけるドリブル練習や壁打ちテニスなどと同様、文法ドリルや独り言といった一人練習も大いに役立つのだ。むしろ、試合や乱捕りばかりでは高いレベルには到達しづらいということは上達論の世界では何十年も前から指摘されていることであり、すでに常識でなくてはならないことだ。

それに、一人練習にはもう一つの利点がある。それは「人に見られなければ恥をかく心配もない」ということだ。指導者によるフィードバックはもちろん大切ではあるが、語学については文法などの助けが借りられる強みがある。また、語学にしろ他の分野にしろ「ある程度できるようになると、人前でやってみせたくなることが多い」ということも言える。

そもそもだが、セロトニントランスポーターの有無が学習に対してそれほど大きな意味を持つのであれば、多くの日本人は英語以外にもいろいろなこと(特に人前でやるようなこと)を苦手にしていそうなものだが、実際はどうなのだろうか。そのあたりを含めて「風が吹けば桶屋が儲かる」的という印象を受けたし、「専門家とは何?」とも思わされた。脳科学は英語で no science と言うに違いない!などと言ったら真面目な専門家に叱られるかもしれないが、専門家同士での相互批判がもっと必要なのではないかとは思う。

posted by 物好鬼 at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月29日

解答用紙の体裁が創造性を邪魔する?

たまたま "東大卒はなぜノーベル賞で苦戦するか?「東大入試問題の『解答用紙』から考える」" という記事を読んだ。たいした記事ではないのだが、私の母校に関することなので少し書いてみたい。


まず、東大入試の解答用紙がどのくらい特殊なのかについては、私はよく知らない。しかし、仮にかなり特殊なものなのだとしても、それに対処するくらいで芽を摘まれてしまうような貧弱な「創造性」「頭の良さ」「発想力」ならば、それはどこの世界でもあまり役立たないのではないか。ちなみにだが、学者が書く学術論文にしても、決められたルールに従うことを求められるのだ。

そもそも受験生としては試験問題のクセへの対処は必須であろう。もちろんその中には、解答用紙の特殊性というのも含まれる。そして、その対処法を見出すには、それなりの「創造性」「頭の良さ」「発想力」が必要とされるだろう。

となると、「その対処法を<自分で>考え出すのかそれとも予備校などに教えてもらうのか」ということの方が、当人の知的発達に対する影響が大きいはずだ。一般化して言うと、予備校などの意義・役割にも言及する必要があるということだ。もちろん、受験に関するありとあらゆる対処法(解法なども含む)がここで問われることになる。

なお、東大生と創造力の関係というテーマを取り上げるのであれば、進学振り分けの存在を忘れるわけにはいかない。すでに大昔からよく知られた問題ではあるが、なぜか記事中では一言も触れられていない。

posted by 物好鬼 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

指導について少々

※今朝、連続でツイートしたもの。

語学でも武道でも同じだろうが、いわゆる「できる」人たちは「できない」人たちの苦労が理解できない場合が少なくない。苦労した過去を持っている指導者でも、昔の記憶は薄れてしまいがちだ。それをカバーするには、身近にいる「できない」人たちを指導しながら事実を論理化していく積み重ねが必要だ。

そこから派生する問題として、基礎の扱いが挙げられる。多くの指導者は「基礎は大切」と言うが、実際には形式的にできただけで安易に次に進んでしまうケースをよく見かける。しかし、基礎は一生ものであり、それは一流バッターが毎日の素振りを欠かさないのと同じだ。その重要性を甘く見てはならない。

とはいえ、それはいつまでも基礎しかやらないという意味ではない。基礎はそれ自体としては基礎ではなく、応用への道筋ができることによって基礎に転化するものだ。しかし、見事なる応用を実現するためにこそ、それに見合った見事なる基礎が要求されるのであり、指導者には急がない勇気も必要とされる。

最初の点に似た問題として、タイプの違いというのもある。たとえ同じ分野を学んでいても、個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない。それゆえ、もし個々の方法ではなく方法「論」を構築したいなら、自身を含むさまざまなタイプの学習者を検討する必要がある。

ついでに述べると、目標とするものの違いにも配慮する必要がある。実用性を重んじるのも、試験や試合での結果を求めるのも、学びの過程を楽しむのも、あるいは教材のコレクションに励むのも、基本的に各自の自由であり、他者がとやかく言うことではない。ただし、目的と方法との齟齬には気を付けたい。

(すべて140字)

翌日の追記(いずれも140字)。

先に「個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない」と書いたが、それは「短所は気にせず長所を伸ばせ」という意味ではない。なぜならば、たとえ苦手でも必要なものは必要だからだ。そういった苦手を克服することで壁を突破できることも少なくないのではないか。

「基礎」というのは「何ができるようになりたいか」という目的に応じて設定されるものだが、そこで反復されるもの自体が直接「実戦的」であるとは限らない。バッターの素振りはボールが飛んでこない環境で行われる点で実戦とは異なるが、練習としての意味は大きい。このことはさまざまな分野で言える。


参考:冒頭部分は南郷継正『武道への道』(三一新書)所収の次の文章(p.95)に触発されたものである。
 秀才的人間の忘れっぽさ
 そもそも人間は、そのなかでもとくに秀才的人間は、一に<忘れっぽく>できており、二に<自負心>の塊であるからです。一の忘れっぽいというのは記憶力云々という一般的なことではなく、自分がその道での<初心者>であった頃、何についてどれほどの心配をし苦労をしそして悩んだかという事実を、<具体的>なかたちではほとんど憶えていないということです。それを生々しいかたちでは忘れてしまっているものだから、現在の弟子たちの苦労・悩みを前にしても、それほどのものとは思えずともかく努力しさえすれば何とかなるものという信念で支えてやろうとするだけなのです。しかし、問題はそれだけではないのです。現在ある自分は、仮に同じ苦労、同じ悩みをも過去にもったにせよ。それは<秀才>レベルのものでしかなかったということを考えにいれないのです。つまり、自分は素材的に恵まれていたのであり、それゆえにいささかの論理を無視した練習であっても何とかやってこれたのだという反省がでてこないのであり、結果として自分の過去と同じものを押しつけたりすることになるのです。ここまでだったらまだよいのですが、もっとまずいことが現実には起きるのです。それは、自分の秀才であった過去にすら必要とされた<つらい苦労と悩みの事実>をも忘却の彼方へ追いやってしまいかねないのです。自分のともかくも駄目だった昔を<きれいさっぱり>と忘れてしまって、「ほら、こうやって使えばいいんですよ、簡単でしょう。悩むことなどありませんよ」といとも気軽に受け止めてしまいがちなのです。
(本当はもっと引用したいが、長くなりすぎるのでここまでとする。)

posted by 物好鬼 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

試験対策だけが試験対策ではない

来年5月から TOEIC テストの出題形式が変わるという話が英語学習者の間を駆けめぐっている。試験の出題形式・傾向といったものは、受験生にとっては非常に気になるものなのだろう。しかし、考え方はいろいろある。

少し長いが引用から入りたい。
もし、習ったことのない新傾向の問題が出たらという不安は、受験生の脳裏から片時も離れることはないでしょう。しかし、私はそれではいけないと思うのです。どんな問題が出題されても、本当に英語を理解していたら、解けて当たりまえです。そのような応用のきく文法力は、通り一遍の勉強では身につくものではありません。本書の目的の1つは、英文法の知識と、理解を一段深く掘りさげることです。数学の得意な学生が、初めて見る問題を、楽しみながら解けるように、英語力も出題傾向を超越した域まで持っていってほしいと願うのです。また、それは実に簡単な道なのです。本書は、皆さんの英語の理解力を、かならず高めることを確信します。

これは私が高校時代に読んだ(そして今でも愛読している)長崎玄弥『奇跡の英文法』の序章に書かれている言葉だ。この主張を真に受けた私は、ほとんどこのままの姿勢で受験生活を乗り切った。そうしたのは英文法だけではなかったから、私に対する氏の影響は極めて大きかったということなのだろう。

正確に言うと、数学だけは2浪目の最後に赤本『東大の数学』をやったし、それはとても大きな効果があった。しかし、その他の科目は赤本をやらず、特に英語と国語については(英語は赤本『東大の英語』を持っていたのに)、たま〜に受ける模擬試験の機会を除いて、問題演習と呼ばれるものをまったくと言ってよいほどやらなかった。正直に言うと、数学と物理以外で問題演習をするのが面倒臭かったというのが最大の理由であって、それが許されてしまったのはまさに自宅浪人なればこそではあった。

それでも何とか合格できたのだから、「出題傾向を超越した域まで持ってい(く)」ことにはそれなりに成功したと言ってよいのだろう(実際、東大の出題傾向は今でもよく知らない)。他人のペースで勉強することが苦手だった(お金もなかった)私は塾や予備校に行かない道を選択したが、それだけに「自分の力でやりたい」という気持ちは人一倍強かったし、合格後の「自分ひとりでやったぞ!」という感慨もひとしおだった。多分に僥倖(棚ぼた)だったという可能性を考慮しても、だ。

もちろんこんなやり方をすべての人に勧めようとは思わない。しかし、試験と言えば「傾向と対策」だという風潮に対する一つのアンチテーゼとしてであれば、こんな前例にも存在価値があるのではないかと考えている。自分なりのジンテーゼを見つける参考にしてもらえばよい。


これは蛇足だが、TOEIC に限らずどんな試験でも、プロパーな対策をすればするほどそのスコアは「実力」から遠ざかるものだ。もちろん現在の TOEIC などは小手先で何とかなるような試験ではないと思うが、ルールを設けて公平・公正に実施しようとするかぎり対策の余地があるのであり、この種のギャップはゼロにはならないだろう。

だからこそ、個別の試験にプロパーな対策はできるだけ少なくすませたい(特に試験以外で役立たない「テクニック」なるものは皆無にしたい)と私は考えてしまう。それは「問題演習が面倒臭い」という私の個性(?)に根ざすものではあるが、その背後には「基礎を重視してそれを最大限に活用したい」という大義名分(?)もある。だから、多くの受験指導者がそういう考え方を私と共有するようになったら面白いと思うし、そのとき受験産業はどう変わるのか?…などと妄想することもある。

posted by 物好鬼 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月31日

勉強机には会議テーブルがオススメ

浪人時代の私は自分の部屋に置かれた4人がけのダイニングテーブルを勉強机にしていた。それはちょうど図書館のテーブルみたいでなかなか使い心地もよかったし、私などが宅浪で東大合格できた理由の一つだったかも知れないとすら思っている。

しかし、大学在学中は学生寮で貧乏生活をしていたため、テーブルを置くスペースも予算もなかった(勉強もしなかったが)。卒業後には座卓やコタツを買ったものの、座椅子を使っても腰が痛くなりがちだった。母校の総合図書館は環境としては悪くないのだが、往復に時間がかかるし、開館日・開館時間にも限りがある。わがままな人間はいつも不満だらけなのだ(笑)。

さて、上京して30年目の今年、ようやくにしてダイニングテーブルの購入を再検討するようになった。ただし、デパートで売られているダイニングテーブルは私にはちょっと高価すぎたので、購入対象を会議テーブルまで広げてネットであれこれ検索してみた。結局、価格とサイズを基準にして数日がかりで絞り込み、最終的にコタツ板2枚分の大きさの4人用会議テーブル(↓)を選択した。

ミーティングテーブル TKシャープタイプ(W1500×D750×H700)

幸い注文品の到着まで何日かあったので、部屋に並べてあるスチール本棚のうちの1つとカラーボックス3つの位置を交換してみた。その結果、スチール本棚は3つ全部が横並びになると同時に、カラーボックスは計4つ(10段分)が寝床の枕元に集約されることとなった。

そして今朝、待ちに待ったテーブルが届いた。組み立て作業には30分近くかかっただろうか。せっかくなので、設置完了直後に正面から撮ってみたのが下の写真だ(テーブルの向こうに椅子があるのだがノートパソコンの陰になっていて見えない)。

実際に座ってみた感じでは、天板サイズの選択も今回のものでベストだったようだ。端まで手が届かないほど大きくてもしかたがないし、何よりも部屋の残りスペースが狭くなりすぎるからだ。

テーブル.jpg

写真に戻ると、テーブルの左端(この写真では右側)には小さな本立てが置いてあって、ここには最も頻繁に使用する本を並べておくことにした。一方、右側(写真では左側です、はい)の4割くらいはフリースペースにしてあり、使用途中の本(広げたままでも)やバインダーなどを無造作に置いたりするのに使う。

ノートパソコンの両側にある黒い物体はもちろんスピーカーで、パソコンに入れてあるアニソン……じゃなくて英語のリスニング素材などをマメに聴くつもりだ。しばらく前に購入したラジカセも近くにあるから、ラジオとカセットテープについてはそちらを使う。

見てのとおり私の背中側には3つのスチール本棚があって、そこに並んでいる本の半分以上は座ったままでも手が届く。今後は参照頻度を考慮しながら本の配置を徐々に変更していこうと思っている。

ここまできて痛感したのは、「こういう買い物はもっと早くしておけばよかった」ということだ。テーブルを導入したおかげで浪人時代の恵まれた環境が戻ってきたし、むしろ蔵書が増えた分だけパワーアップしたとも考えられる。今後はわざわざ母校の図書館まで足を運ぶ必要はないのだ。今回の出費はたかだか15000円程度だから、見込まれる効果の大きさを考えれば非常に安い買い物だったと言えそうだ。

本の配置などはまだまだ変更する可能性があるものの、これをもってとりあえずの報告としたい。室内に多少のスペースがある人には、いわゆる勉強机や座卓の類より会議テーブルを強くオススメしたいと思う。これで環境は万全、あとは本人が勉強するだけだ(汗)。

posted by 物好鬼 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習記録、日記、雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

英語の偏り?

※昨日、連続でツイートしたもの。

「大学入試の英語は偏っている」「TOEIC の英語は偏っている」と言う人がいたら、「それはタイム誌の英語でも医療英語でも観光英語でも同じでしょ?」と言い返せば足りる。どうせ全部をやっている人などいない。試験対策の是非は自身が掲げる目的との関係次第であり、方法単独での批判は難しい。

というわけで、偏りは本質的に不可避だ。とはいえ、基礎的な部分(だいたい高校レベルまでの範囲)については万遍なく学んでおいた方がよいと思う。もちろんこれも各自の目的次第ではあるのだが、基礎的な部分に穴があると持ちうる目的も自ずと狭まってしまう。それが基礎の基礎たる所以というものだ。

蛇足ながら、「偏り」も多義的である点には注意が必要だろう。私がここで書いているのは「全面的ではない」ということであり、英語のように巨大な対象を扱うときには不可避なものだ。しかし、このことと「英検を受けるのに難単語の勉強ばかりしている」といった種類の「偏り」とは区別する必要がある。

これらはどちらも「基準に対するズレ」として理解可能ではある。しかし、英語全体に対するズレは不可避であっても、限定された目的に対するズレは比較的避けやすい、という大きな違いがある。そしてこの「限定された目的」には、特定の試験に合格することや特定分野の素材に習熟することも含まれうる。

(いずれも140字)

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2015年09月27日

英語学習の目的は人それぞれ

TOEIC の得点力と「英語力」との間には重なる部分もそうでない部分もあろうが、そのうちのどの部分を重視するかは各自が自己責任で決めればよい。仮に「TOEIC の Part7 で全問正解することが私の生き甲斐」でもいいのだ。そもそも「英語はやらない」という選択肢すらあるのだから。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/647613421324660737

このテーマについてはいろんな意見があるように見える。Twitter なんかで荒れることもある。しかし、実際にはそれほど違わないことが多いのではないだろうか。というのも、結局のところ、多様性を否定する発言はしづらいからだ。

荒れてしまう原因の一つとして、「せっかく TOEIC の勉強をするのなら、英語力の向上にもつなげないともったいない」といった種類の主張があると思う。

「もったいない」は発言者の主観であり、この主張自体も「英語力の向上にも努めることが TOEIC 学習者の義務だ」とまでは言っていないのだが、読み手の中には「押しつけ」ととらえてしまう人が存在する。もちろんそれは深読みのしすぎであり、本来ならば発言者に確認をすべきものだ。反論するのはそのあとでよい。振り上げた手は下ろしにくいものだからだ。

Twitter での炎上にはいろいろなパターンがあるのだろうが、上記のような主張に対して必要な確認をとらずに反論(いわゆる脊髄反射)することから始まる場合も少なくないだろう。それを避けるには、論理的思考力や日本語力を鍛えることが大切なのだと思う。まずは落ち着いて、「他の解釈はありえないか」などと考えてみることだ。(cf. 合憲限定解釈

一方で、投稿する側も、このような反応を見越して表現方法を調整することが望ましいと言える。最初からスキのない表現をしておくわけだ。ただし、これがかなりの難題であることは私も重々承知している(実際、この記事は Facebook 投稿後に何度も何度も書きなおした)が、それでも取り組むべきであると思う。

なお、不要なトラブルを避けるには、普段からの人間関係が大きく物を言う。特に、直接会って何度も(できれば飲みながら長時間)話し合ったことのある相手とは、意見の相違があってもあまりギクシャクしないものだ。

それだけに、Twitter 上などで私の知人同士が互いに未対面のままトラブっているのを見ると、それこそ「もったいない」と思ってしまう。「会いたければいつでも紹介するぞ」と言いたくなる。

その意味からはやはりネット上でのやりとりだけでなく、機会を見つけて直接会うようにすることをオススメしたい。いわゆるオフ会はもちろん、勉強会の類(たいていは懇親の場がある)も大いに役立つ。ある程度の人脈ができると、そこから更に芋づる式に広がっていく。

私自身はというと、一昨日には英語関係者たちと昼過ぎから夜遅くまでカラオケ+肉食パーティをやったし、今日も ICEE 見学でいろいろな人と会うことにしている。健全な人間関係があればこそ、健全な議論ができるのだと思っている。

posted by 物好鬼 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月19日

「TOEIC」は名詞ではない!

TOEIC テスト等を主催している ETS のホームページに「Guidelines for the Informational Use of ETS Trademarks by Third Parties」というページがある。そしてこの中には、
"ETS trademarks should never be displayed alone. The trademark should be used as a proper adjective(固有形容詞) and should be followed by the appropriate registry symbol(適切な登録記号) and generic term(一般的名称)."
と書かれている(訳語および強調は引用者)。

つまり、例えば「TOEIC」という語について言えば、それは「TOEIC のスコア」ではなく「TOEIC® テストのスコア」のように使用すべしというわけだ。このガイドライン自体は英語で書かれているが、タイトル直後に「Worldwide Version」とあるところからすると、日本国内での使用に対しても同様である(と ETS は考えている)はずだ。

実際、書店に並んでいる TOEIC 関連書のタイトルを見ると、ことごとく「TOEIC® テスト」あるいは「TOEIC® TEST」という表記を含んでいる。書籍のタイトルに関するかぎり、「TOEIC」が単独で使われている例を私は知らない。

私がこんなことを知っているのは、はるか10年以上前、当時の職場で TOEIC 教材の制作(正確には既存ビデオ教材の e-Learning 教材化)に携わったことがあるからだ。当時は法律を学んでいたこともあって、各社の商標などについてあれこれ調べたのだった。

さて、上の条項は本来ならばブログ記事や SNS での投稿に対しても当てはまることだろう。ちなみに先のページには
An ETS trademark, its registry symbol and an appropriate generic term should appear on the same line in the title. For websites, each webpage should display the registry symbol after the first and most prominent use of the trademark.
とも書かれている。

しかしながら、正直なところ、私もこのあたりはいいかげんだ。ETS としても、特に実害がない限り、個人による私的な書き込みにいちいち文句は言わないだろう、といった勝手な期待もある。それに、Wikipedia の記事
By definition, following a guideline is never mandatory.
と書かれているように、ガイドラインはルールとは異なる。

とは言うものの、発信者が企業や団体などである場合には、権利者(ETS)と良好な関係を維持するためにも、個人の場合より厳しめに考えた方が無難だろう。同様のことが出版物の中味についても言えると思う。

いずれにしても、このように英語で書かれたお堅いページもときどき読んでみるとよい。形式的にも内容的にも新しい発見があるはずだ。

posted by 物好鬼 at 15:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習記録、日記、雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月22日

数学などにおける「解法」の扱い

※先ほど連続でツイートしたもの。

先週の土曜、高校の同期会があった。卒後31年ちょっと。そこに、高校時代に英語や数学などの勉強を一緒にやっていた男が来ていたのだが、彼に「数学に関しては大橋は天才型だった」と言われた。しかし、今から考えてみると、私の数学(物理なども)は原理原則重視型とでも呼ぶべきものだったと思う。

どういうことかというと、どんな問題を解くときにもできるだけ基本的な項目に立ち返って考えるようにしていたのだ。特に公式に関しては「自分で証明できない公式を使うのは卑怯だ」という考え方だった。「そこまでしなくても」と思われるかもしれないが、物理では期待以上の効果があったと思っている。

その一方で、私はいわゆる解法というものに無頓着だった。それでも問題の大半は解けたから、件の友人には「天才型」に見えたのだろう。解法というのは成績向上・大学合格という目的からは効率的なものではあるが、学習の目的をそれらに限定したくなかった私には、この方法が合っていたのだろうと思う。

では、現在学習中の人はどうすべきか。大学合格への最短距離を目指したいのならば、最初から解説を見て、解法も積極的に吸収するのがよい。いわゆる「数学は暗記だ」的方法だ。入試で出題される数学などの問題には必ず正解が存在するのだから、そういう問題が解ければよいのなら、この方法は合理的だ。

しかし、数学などについて自分の頭で考えられる人間(学者の類)になりたいのならば、安易に解法に頼らず、できるだけ自力で考えるようにすべきだろう。そしてその上で、入試対策として解法(=他人の考え)を学ぶ。自分で苦労した後であれば解法の価値も実感できるし、記憶にも残りやすくなるはずだ。

蛇足だが、いわゆる「数学は暗記だ」においても理解は必須とされる。こういう解法依存型の方法を高校生などが使うべきどうかは上に書いたとおりだが、語学に適用するのは問題ないと私は考えている。文法規則を自分で考えつく必要性は少ないからだ。ただし、文構造の体系的理解だけは丁寧にやるべきだ。

(以上、すべて140字ずつになっている。)

posted by 物好鬼 at 11:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする