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2016年02月13日

文法規則は結構イイカゲン

今日は日本語の話。

まずは以下の4つの文を見てほしい。

 @彼 は 学生 でしょう。
 A彼 は 知的 でしょう。
 B彼 は 若い でしょう。
 C彼 は 働く でしょう。

いろいろな種類の述部について「〜でしょう」というパターンが成立している。このくらい綺麗に揃っているとわかりやすいし気持ちよい(笑)。
 
では、「でしょう」を「です」に置き換えるとどうなるか。

 @彼 は 学生 です。
 A彼 は 知的 です。
 B彼 は 若い です。
 C彼 は 働く です。  ??

現状の(標準的な)日本語では動詞の後に「です」は付けないから、Cが脱落することになる。ただし、上の「でしょう」のケースから考えるなら、ここにも「です」に相当する認識はある(のに表現はされないことになっている)のだろうという推測が成り立つ。
 
次に、「です」を「だ」に置き換えてみる。

 @彼 は 学生 だ。
 A彼 は 知的 だ。
 B彼 は 若い だ。  ??
 C彼 は 働く だ。  ??

現状の(標準的な)日本語では形容詞や動詞の後に「だ」は付けないから、BとCが脱落することになる。これは「である」についても同じことが言える。ただし、(以下ほぼ同文)。
 
この「認識はあるのに表現はされない」という点は、日本語学習者のミスを考える際に役立つ。私もたくさんの外国人と日本語で話したことがあるが、「彼は若いだと思います」というタイプのミスはいろいろな国籍の人がしていたと記憶している。もっとも、この部分については日本語のルールの方が捻(ひね)くれているのだから、学習者が苦労するのも無理はない。

論理的な理由がわからないせいで、ミス(とされる言い方)に聞き馴染んでしまうと違和感がなくなってくるという問題もある。実際、日本語を母語として育った私ですら、「彼は若いだと思います」型の文に対して抱くべき「何かおかしい!」という感覚が鈍ってしまった経験があるのだ。そんなこともあって、母語であっても文法の勉強は欠かせないと思っている。まして外国語の場合は、だ。
 
こういう「一貫性のなさ」は解消された方が学習者の負担は減るだろう。と同時に、現状に馴染んでいる者(特に母語話者)にとっては不満のタネになりうる。つい先日もフランス語の綴り見直しに関するニュースがあった(日本語でも戦後はいろいろあったらしい)が、合理性だけでは決められない問題と言えるだろう。
 
なお、同様の「一貫性のなさ」は英語にも少なからずある。それも be や do の周辺にいろいろ存在しているから、初心者が躓く原因にもなっている。そのあたりの話は別の機会に…。

posted by 物好鬼 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

サピア=ウォーフ仮説と臨界期について少々

昨日の朝、たまたま「赤ちゃん、似た色を認識 中央大など『言語取得後』の仮説覆す」というニュース記事を見つけた。興味ある内容だったので、思ったことを書き添えて Facebook に投稿した。それはよくあることなのだが、今回は夕方になって当該論文のラストオーサーさんから直々にコメントをいただいた。そして、普段とは違ったノリのやりとりとなった。

幸いこのブログに転載することについて許諾が得られたので、以下にそのやりとりをほぼ原文のまま紹介したいと思う。

大橋 穣二 結果自体に異論はないし、むしろ私は「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」なるものに否定的な立場の人間だ。ただ、この記事を読む限り、「生後5〜7カ月の乳児12人」が「言語や文化の習得」をしていないと言えるのかという点についての検証が欠けていると思う。彼らはたしかに話すことはできないが、その事実だけでは概念の有無までは云々しがたいからだ。
上記記事へのリンク

(上は私の投稿、以下はそれに対するコメントたち)

○○ ○○ つまりこれ、サピア=ウォーフ仮説を否定するってことですか?
栗木 一郎 なるほど、鋭いご指摘ありがとうございます(突然すみません。当該論文のラストオーサーの栗木です。北岡さんのシェアから辿ってきました)。言語や文化の取得の有無を直接乳幼児で確かめるのは難しいです。ただ、言語関係の脳活動を調べた研究では、「音韻」のカテゴリーは6ヶ月前後に確立しているものの、「言語」に関する脳活動は 13-14 ヶ月まで見られなかったという研究もあります(Minagawa-Kawai et al., 2007)。もちろん確立される前の下地が無いとは言えませんし、さらなる evidence を積み重ねる必要はあると思います。ただ、感覚的な神経信号のカテゴリーは言語とは別に発達が始まっている可能性を示せたのでは、と思っています。
大橋 穣二 はじめまして。コメントいただきありがとうございます。当該論文のラストオーサーさんから直々にコメント投下があるとは予想しておらず、思い切り冷や汗をかいております。(というのは冗談ですが、こういう場合の冷や汗って何歳くらいからかくもんなんでしょう?)

私の場合、心理学でも認知科学でも脳科学でもなく、在野の学者だった三浦つとむ(および南郷継正系統)の認識論を主要な基盤にして考えていますので、ものの見方・考え方には(良くも悪くも)違いがあるだろうと思っています。そのあたりは是非にご容赦を。

この種の実験について私は経験がなく、具体的な知識も持ち合わせてはいないのですが、冒頭にも書きましたように、結論部分については特に抵抗なく受け取ることができます。

蛇足ながら、せっかくの機会なので質問してみたいことが一つ。というのは、記事にある(私も上で取り上げた)「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」という部分です。私の直感では「大昔に大きな反響を呼んだことがある(が今はそれほど単純には支持されていない)説」あたりが真実に近いのではないかと想像するのですが、実際のところはどうなんでしょう? Twitter でも私と同じような感想を書いている人が何人かいたのですが。

それはそうと、今後ともお手柔らかにお願いいたします。m(_ _)m
栗木 一郎 貴重なご意見ありがとうございます。私自身の専門は計測工学で心理学の専門教育は受けていないのですが、実験心理学の分野で主に活動しており、関連学会で 20 年以上見聞きしてきた経験に基づくコメントになりますがご容赦下さい。

我々が研究対象とした色カテゴリー(カテゴリカル色知覚)については、言語の影響が強い、という報告と、言語・文化に依存しない基本構造がある、という報告とが未だにせめぎ合っています。例えば、ロシア語には明るい青と暗い青を明確に区別する言葉があります。日本語でも水色と紺などありますが、青というカテゴリーに含めても(ロシア語話者の2色に比べて)抵抗が少ない、という言語依存の例はあります。一方で、大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能という、言語に非依存な側面もあります。従って、Sapir-Wharf 仮説はまだ完全に否定されたわけでもなく、むしろ強く支持するグループもいるようです。

今回の報告は、そこに一石を投じたに過ぎず、まだまだ証拠を積み上げていく必要があると考えています。わかりにくい話で恐縮です。こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
大橋 穣二 さらなるコメントありがとうございます。非常に興味深いです。

色というのは(その他のものも大半は同様でしょうけれど)人間から見れば目盛りもハッキリしないさまざまな値をとるもので、そのうちのどのあたりで区切るかは多分に偶然的(恣意的?)なものなんだろうと思います。ただ、「大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能」というところからすると、少なくとも3原色については錐体細胞の働きが何らかの影響を及ぼしているのかなあ、と素人の私は思ったりしますが。

さて、人間はさまざまな具体的事物を見ながら自らの頭の中に抽象的な像(認識)を形成していくわけですが、現実の個々人は否が応にも何某かの個別具体的な文化的環境の中で生活しています。そして人間にとって極めて特徴的とも言える言語活動には、言語規範の媒介が必要とされます。

ところが、個々の語彙に紐づけられるべきとされる像にはその文化特有の枠付けがなされているわけですから、その文化の中で生活している個人はどうしてもその縛りに適合したかたちでの抽象化・一般化を要求されます。そうしないと言語の使用に支障が出るからです。

ついでに述べるならば、似たような問題は表現形式の側にもあります。つまり、文字や音声、語句、文構造なども、目や耳から入ってきたままの個別具体的な形式のままでは不充分で、若干抽象化した「種類」としての把握が求められます。このプロセスはあまり自覚されないかもしれませんが、癖の強い字を読んだり訛りの強い言葉を聞いたりするときには、大人でもこのプロセスの必要性を痛感することができます。

そしてこれらのプロセスは、成長するにつれて自動化・高速化が進み、自覚されることもほとんどなくなります。そうでないと母語としてのスムーズな言語活動はできないでしょう。

そういった諸々がありますので、言語や文化が色の捉え方に影響を与えることは多々あるだろうと私は考えています(小さな差異の無視については特にそうです)。ゆえに、Sapir-Wharf の仮説が全面的に否定されることはないだろうな、というのが私の現時点での考えです。と同時に、色(など)の捉え方を決定してしまうほどの力もないだろうと思います。

そういえば、人間は成長するにつれて外国語の音を識別する能力が衰えるとよく言われますが、これも「音の種類としての把握」が母語の規範に要請されるかたちで行われる(それもどんどん自動化していく)ことと関係しているのかな、と最近になって考えるようになりました。

言い換えると、いわゆる「臨界期」の問題というのは、ひょっとすると外国語の習得能力自体が衰えてしまうからではなくて、上記のような自動化が邪魔をしてしまうことによって発生する現象(スキーマ依存エラーのようなもの?)にすぎないのではないか、という考え方です。もちろん同様のことは音以外についても考えられます。素人の邪推ですが。

少し前から小学生に対する英語教育が始まっていますが、上に述べたような影響が強いと思われる音声面については、他の部分よりもやや力を入れて教える(たとえば英語的な(あるいはもう少し広く非日本語的な)音声への露出を継続する)ことが大切なんじゃないか、という仮説も成り立つように思います。

以上、長々と書いてしまいましたが、すべて素人の戯れ言ですのでコメントは不要です。また何かありましたらよろしくお願いいたします。
栗木 一郎 「自動化」とおっしゃる話はよく解ります。私は外国語の聞き取りが(比較的)得意なのですが、逆に日本語の聞き取りが(比較的)不得手で、日本語の聞き取りの「自動化」が未熟なせいだろうと思っています。

感覚情報は、言葉に紐付けされる前の表現形式があると思いますが、日常的なコミュニケーションの必要性から、若干むりやり言葉に結びつけている(むすびつけざるを得ない)部分もあります。その「無理矢理」圧力が感覚の脳の中での信号に影響を与える事はあり得るという感じかと思います。

我々の研究に興味を持って頂き、ありがとうございました。おっしゃる通りのご指摘だったので、失礼とは思いましたが直接お答えをしたかったし、直接ご意見を伺えてとても有意義でした。

今後ともよろしくお願い致します。
大橋 穣二 お疲れ様でした。ニュースになったばかりでさまざまな対応に時間をとられているところではないかと思います。研究の方、今後も頑張ってください。

(終わったはずなのに追記する私。)

大橋 穣二 中央大学のプレスリリースでは「これは、サピア=ウォーフ仮説を覆す驚くべき成果です」と書かれてますね。
プレスリリースへのリンク
栗木 一郎 プレスリリースですが、「痛烈な一撃を見舞った」という表現では記事にして頂きにくいので「覆す」という白黒のはっきりした表現になったと理解しています。もうじき英語版も出ますが、そちらは少しトーンが抑えてあります。

やりとりの本体はここまで(あとは転載に関する話などが少々)。私としてもこういう内容での長文コメントは久しぶりのことであり、記録にとどめておきたいということもあってブログに載せることにした。もちろん読者に対する何らかの刺激になればさらに嬉しいところなのだが、はたして…。

参考:サピア=ウォーフの仮説

posted by 物好鬼 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

特別疑問文の作り方について

※さきほど連続でツイートしたもの。

特別疑問文の作り方だが、安藤『現代英文法講義』では「主語・助動詞倒置→wh移動」という順序になっている。しかし、話し手は語順どおりに考えるのだと仮定するなら、「まず疑問詞を言い、その後に〈その疑問詞に対応する部分を欠いた一般疑問文〉を続ける」という手順の方が合理的ではあるまいか。

一方、whの移動先について生成文法は「指定部」であるとし、助動詞の移動先とは違うと考えている。そうすることのメリットは、主語を問う場合を主語以外を問う場合とほぼ同様に扱うことができることだ。とは言うものの、あくまでも「ほぼ同様」であって、doの扱い方まで同じにすることはできない。

さて、whの移動先が助動詞のそれと違うと考えることが合理的なのであれば、意味順においてもそれぞれのために箱を用意した方がよいということになるのだろうか。箱の数を増やすことは複雑化を意味するという面もあるが、これはどこかで妥協する必要があるのかもしれない。私の仕事ではないが(笑)。

話は少しそれるのだが、意味順の箱は部屋のようなもので、語句たちはあらかじめ用意された部屋に住んだり、別の部屋に引っ越したりする。だから理論を考える際には、「どのような部屋をどこに・いくつ用意しておくべきか」を検討することが不可欠のはずだ。同じことは生成文法に関しても言えると思う。

ちなみに英文構造図の場合は、語句たちを(ときに入れ子の)枠で囲み、その「枠囲みされた語句たち」自身が移動するというズルい方法をとっているので、部屋の数には(表向きは)悩まされずにすむ。ただし、同時に何らかのデメリットが生じている可能性も否定できないから、優劣を決するつもりはない。

以上、思い付いたことをツラツラと書いてきた。英語学や言語学についての専門的勉強が不足していることは自覚しているが、こういった思索を積み重ねることで自分の考えを整理し、拙著改訂の糧にしたい。思索のための刺激が得られる点でSNSも有用だと再確認できたことも、今日の収穫の一つだと思う。

(すべて140字)

posted by 物好鬼 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

応用の前に基礎の徹底を

「文科省、高3対象の英語力調査公表 7〜9割が中学卒業レベル以下」という記事を読んだ。

文科省のサイトにはまだ載ってないようだが、上の記事を読む限り、

 4技能試験の結果、高3なのに中卒レベルの人が多いとわかった。
 Sで89.0%、Wで82.1%、Lで73.6%、Rで68.0%。
 前回よりは改善しているが、依然としてよくない。

で、

「文科省は引き続き、コミュニケーションの向上などに課題があるとしている」

と言っている。

しかし、4技能の試験結果が悪いからと言って、その原因が4技能そのものの能力不足であるとは限らないだろう。ましてコミュニケーション??? 点数が伸び悩んでいる理由は、各技能に対するもの以外にもいろいろ考えられる。たとえば

 ・語彙力が不足している
 ・文法力が不足している
 ・スピードに対する慣れが不足している
 ・英文の内容についていけない
 ・日本語の問題文が読めていない
 ・長時間の試験に耐える精神力がない

などなどだ。おそらく上記の全部が大なり小なり関連しているだろう。

※「英文の内容についていけない」については、テスト全体を(内容はそのままで)日本語に置き換えてテストしてみることで明確になるはずだ。

中3対象の試験も散々だったことからすると、中学段階で躓いている生徒が少なくないのは間違いない。もちろん、試験だけでは測れないものがありうる点にも注意が必要だ(コミュニケーションとやらもここに属するような…)。

いずれにしても、応用志向であればあるほど基礎力の重要性が高くなることは上達論の基本であるはず。英語教育に限らず数学などでも同様だが、そういう基礎的な認識の重要性はいくら強調してもしすぎることはないだろう。「教育専門家」とされる人たちについてはなおさらだ。


ところで、だ。

半世紀ほど前、日本は体操王国と呼ばれた。そしてライバルだったソビエトは基本を重視する姿勢を日本から盗んだ。一方の日本はというと、モントリオール五輪(1976)で5連覇を達成した頃から高難度の技にばかりに目を向けた結果、「着地の乱れが当たり前の状態」となり、長期にわたって低迷する。

日本体操界はシドニー五輪(2000)惨敗を機に大改革に着手する。その背後で、日本の一部若手選手はアンドリアノフ氏(かつてのソビエトの雄)らから基本重視の指導を受けることで、正確な技をシッカリと身に付けていた。そうしてアテネ五輪(2004)では日本男子が団体優勝を果たした…。

参考)http://plaza.rakuten.co.jp/hydrange/diary/200408180000/

高難度の技云々のくだりが現在の英語教育論議に似ていないこともない。決定的に違うのは、日本には「英語王国」としての過去がないことだろうか。基本の重要性は「同時通訳の神様」こと國弘正雄氏も主著の中で力説していることであるが、そういったことを抜きにして夢ばかり追っているとロクなことはないと思う。

posted by 物好鬼 at 05:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

思考と言語

私がパソコンを使い始めたのは1987年の春休みのことだが、その直後から BASIC によるプログラミングを開始した。これはパソコンを得意としていた同級生の影響によるものだ。ちなみに同じ理由で練習を開始したタイピングは1ヵ月ほどでマスターした。

さて、勉強を始めたのはいいものの、当時はパソコンそのものについても初心者だったから、「プログラムを書けばどんなことができるのか」ということもよくわからない状態だった。そのため、学ぶことの一つひとつが新鮮で面白かった。学んだことというのは、例えば
  ・変数や定数の考え方、使い方
  ・if による場合分け
  ・for によるループ(さらに多重ループ)
  ・サブルーチン呼び出し(さらに再帰呼び出し)
  ・文字列の扱い方
  ・図形描画の仕方
といったものだ。私はこれらの一つひとつを具体的なテーマ(つまりはパソコン画面上に表示したいもの)に当たりながら使ってみることで確実に学んでいった。達成感の助けもあり、比較的短期間のうちに BASIC の大半を習得し、駒場のパソコン仲間からは「BASIC を究めた男」という名誉ある渾名を頂戴したりもした。

さて、それから2年くらいして今度はC言語を学びはじめた。
定石どおり、まずは入門書を読んだ。C言語も BASIC と同様「手続き型言語」と呼ばれるものだから、基本的な考え方の多くは共通している。おかげでC言語の入門書に書かれている内容を理解するのにほとんど支障はなかった。ポインタや構造体のように BASIC には存在しない概念もいくつか出てきたが、数学的な思考が比較的得意な私にとっては特に問題とはならなかった。

そのおかげでC言語の習得は非常にスムーズに進んだ……と言いたいところだが、ところがどっこい(←死語?)これが全然そうではなかった。なぜか?

上にも書いたように、私がBASIC を学んだときには、「プログラムを書けばどんなことができるのか」もよくわからない段階からスタートした。しかし、Cではその部分はあまり問題にならなかったがゆえに、「実際にC言語で表現する能力」とのギャップが大きくなったのだ。

C言語で書かれたサンプルプログラムを理解することはできた。しかし、同じようなものを自力で書くためには、理解できているだけでは足りず、具体的に何をどう書くのか(←ここ大事)を覚えておかなくてはいけない(それもある程度スムーズに出てこなくてはやる気がそがれる)。

つまり、理解力と表現力との間に大きなギャップがあったことが障害になったわけだ。これは当時の私にとって予想以上に大きな問題だったらしく、結局C言語はマスターしないまま放置することになった。(C言語でなければ書けないような具体的な課題を持っていなかったということも大きな要因であろうと今になって思う。)

この「理解力と表現力との間」のギャップの問題、何かに似てないだろうか。そう、母語と外国語の関係にそっくりなのだ。私が BASIC で経験したことは通常の日本人が日本語を学ぶ過程で経験することであり、私がC言語で経験したことは多くの日本人が英語学習で経験することだ。

そんなこともあって私は教育学部の卒論(91年1月に提出)の1項目として「母語の習得と思考力の発展」という文章を認(したた)めておいた。

そういった経験が生きたのか、卒論後10年くらいたって JavaScript を学んだ際にはこの問題はうまくクリアすることができた。おかげで、JavaScript は趣味と仕事の双方で大きく役立ってくれている(英文構造図もその一つ)。しかし、立ち戻る機会がないC言語については、いまだに習得できないままになっている。さて、どうしたものか。

「立ち戻る機会がない」というのはつまり「C言語を使って実現したい具体的なテーマを見つけていない」と言い換えてもよいかもしれない。こういう「実現したい!」と思えるテーマに出会えるかどうかはプログラミング言語の習得にはとても大切で、JavaScript の学習ではこのあたりをうまくコントロールすることができたように思う。これと同様のことは外国語学習についても言えるのではないだろうか。

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2015年12月31日

入試の制度は現実的なものに

今年最後の記事は入試関連。対象は "新共通テスト、「記述式」分離先行案 50万人分「採点に数カ月」 「高校生活に影響大」" というニュース記事。

記述式を分離先行させてはというのだが、正気なんだろうか。記事を読むと部活との兼ね合いを気にしている校長もいるらしいが、そんなことは大した問題ではあるまい。学校では部活よりも勉強を優先するのが基本なのだから。

もっと大きな問題なのは、生徒たち自身にとって、記述式の方が準備に時間がかかるということだ。高校生活はたった3年間しかないのに、その中で数ヵ月も前倒しで実施されたのでは当の受験生たちはたまらないだろう。

その意味で、分離先行案はウルトラCでも何でもない。採点側ばかりに配慮した身勝手なものであり、高校生側から見れば「斜め上」の発想でしかないとすら言える。採点の手間を考えると費用も馬鹿にならないはずなのだが、それは受験料でまかなうのだろうか。もちろん指導する高校側もいろいろ大変だろう。

結局のところ、この問題は昨年12月の中教審答申「新しい時代にふさわしい……一体的改革について」が足枷になっているわけだが、できないことを無理にやったところで、そのしわ寄せを受けるのは高校生たちだ。そんな拙速はできるだけ避けなくてはならない。

ちなみに、中教審は「文部科学大臣の諮問機関で,文部科学省に置かれている多数の審議会のうち最高の位置を占め,最も基本的な重要事項を取り扱う」(コトバンク)ものだ。しかし、審議会とはいっても参与機関ではなく諮問機関であり、その答申に法的拘束力はない(参議院法制局 HP のコラムによる)ということに注意が必要だ。もちろん文科省としては中教審の答申を軽視するわけにはいかないだろうが、答申の内容をそのまま受け入れる場合であっても、その判断についての責任は全面的に文科省(そのトップは文科大臣)にある。

つまり最終的には文科省の当事者能力が問われるわけだ。となれば、ここは文科省自身の責任において答申内容の当否について英断を下すべきところだろう。そもそも大学受験生全員に統一的な記述式試験を受けさせる必要があるのか? 入試制度に関して皆が驚くほど無理筋な案を出してくるのは、当の官僚たちがマークシート世代のトップランナーであったことと関係があるのか、あるいは一般国民には見えない特殊な「力」が背後で働いているのか、それは私にはわからない。いずれにしても、受験生たちのためにも現実的な判断をしてほしいものだ。

posted by 物好鬼 at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月22日

英語にはスピーキングより暗唱のテストはいかが?

ニュースをチェックしていたら、「大学入試改革 新テスト 記述式をまず国語と数学で」という記事を見つけた(英語にも触れられている)。

ざっと見たところ、国立大学協会の「数十万人が受験する規模のテストで、物理的に実現可能かどうかが最大のポイントになる」に尽きると思った。理想は理解できるとしても、何でもかんでもテストに盛り込もうとしすぎなのだ。

以下、入試に関する私見(試験だけに)。

国語は現状(センター試験+2次試験)のままでよい。それ以上の測定が必要ならその範囲でやればよいのであって、全員に高度なテストを受けさせる必要はない。

数学もほぼ同様だが、マークであれ筆記であれ、公式・定理の証明を扱うとよいと思う(この方法はおそらく物理でヨリ有効)。

英語については、現状のものに加うるに

 @英語の音声(100語程度の未知のパラグラフ)を
  30分で答案用紙に書き取る

 A書き取ったものを
  30分で暗記する

 B暗記したものを
  20分で別の答案用紙に書き出す
  (@の答案用紙は見ないで行う)

というテストを課してはどうか(時間や語数は仮のもの)。課題のパラグラフは、文法・語法・語彙・音声などに関する知識や能力によって聞き取りやすさや覚えやすさが違ってくるように作成しておく。

この方式には

 ・受験者の英語力が多面的に測定できる
  (Bを口頭で行えば更に総合性が高まる)
 ・創造性を問わないので
   ・採点の手間が比較的小さくてすむ
   ・採点結果のバラツキも少ない
 ・試験対策がそのまま英語力向上につながる

といったメリットがあろう。

これで散々な結果に終わる受験生は英語の基礎力が不足しているはずだから、スピーキングテストなどを課してもあまり意味があるとは思えない(基礎力不足のまま無理に対策してもブロークンを加速するのみであろう)。つまり、パラグラフ書き取り・暗記・書き出しのテストはスピーキングテストなどへの足切りとしても有用であると考えられる。

蛇足:センター英語のリスニングについては、@スピードを5割くらい上げる(内容が易しいのだからスピードを落とす必要はない)、A1度しか聞かせない、の2点を提案したい。リーディングは制限時間を短くするとよい。完璧にはほど遠いとは思うが、これだけでもかなり実戦的になるはずだ。

posted by 物好鬼 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月01日

脳科学的に専門家とは何?

今度は "中野信子氏「日本人は、脳科学的に英語が下手」" という記事。

脳科学者さん曰く、
大まかには、プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています。だからIT系の人はそれほど抵抗をもたずに、語学の学習ができると考えられます。

 「ユニバーサルグラマー(普遍文法)」という概念があって、日本語、英語、どの言語であっても、言葉による認知の方法は、大きく違わないといわれています。たとえば「話す」とか「取る」といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもありますよね。それらを概念化して認知し、単語を組み合わせて文章を構築するという基本的な流れは、どの言語でも違わないだろうという考え方です。プログラミング言語も同様です。
との由。せっかくなので私なりにツッコミを入れておきたい。

まず、「『話す』とか『取る』といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもあります」という部分だが、これは人間が生活している現実世界に基礎を持つものであって、普遍文法を云々するまでもない問題だ。人間は対象から得た像をもとにさまざまな認識を創りだすのだから、自然言語の語彙や構造を扱うときにはその点を無視してはうまくいかないのだ。

それから、「プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています」という部分。自然言語にもプログラミング言語にも人間が扱う「言語」としての共通点は多々あるし「習得に共通の基盤があると考えるのが自然だろう」もある程度までは正しいとは思う。

しかし、日本人が特に苦手としていると言われるスピーキングがプログラミング言語には存在していない点は特に注意が必要だ。また、プログラミング言語の内部にもアセンブラから手続型、関数型などさまざまな種類があり、自然言語との距離にもかなり大きな幅があるということも忘れてはならない。この脳科学者さんはこういった事情をまったく認識していないと見える(東大工学部出身らしいのだが)。

次に、終わりの方(現在は登録しないと読めなくなっている)にある「失敗しても心の痛みを感じにくい環境を工夫して作り、積極的に話せる機会を持つことが最善の方法だと思います」という部分。積極的に話すことは大事ではあるが、この点ばかりに注目するのは正しくあるまい。球技におけるドリブル練習や壁打ちテニスなどと同様、文法ドリルや独り言といった一人練習も大いに役立つのだ。むしろ、試合や乱捕りばかりでは高いレベルには到達しづらいということは上達論の世界では何十年も前から指摘されていることであり、すでに常識でなくてはならないことだ。

それに、一人練習にはもう一つの利点がある。それは「人に見られなければ恥をかく心配もない」ということだ。指導者によるフィードバックはもちろん大切ではあるが、語学については文法などの助けが借りられる強みがある。また、語学にしろ他の分野にしろ「ある程度できるようになると、人前でやってみせたくなることが多い」ということも言える。

そもそもだが、セロトニントランスポーターの有無が学習に対してそれほど大きな意味を持つのであれば、多くの日本人は英語以外にもいろいろなこと(特に人前でやるようなこと)を苦手にしていそうなものだが、実際はどうなのだろうか。そのあたりを含めて「風が吹けば桶屋が儲かる」的という印象を受けたし、「専門家とは何?」とも思わされた。脳科学は英語で no science と言うに違いない!などと言ったら真面目な専門家に叱られるかもしれないが、専門家同士での相互批判がもっと必要なのではないかとは思う。

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2015年11月29日

解答用紙の体裁が創造性を邪魔する?

たまたま "東大卒はなぜノーベル賞で苦戦するか?「東大入試問題の『解答用紙』から考える」" という記事を読んだ。たいした記事ではないのだが、私の母校に関することなので少し書いてみたい。


まず、東大入試の解答用紙がどのくらい特殊なのかについては、私はよく知らない。しかし、仮にかなり特殊なものなのだとしても、それに対処するくらいで芽を摘まれてしまうような貧弱な「創造性」「頭の良さ」「発想力」ならば、それはどこの世界でもあまり役立たないのではないか。ちなみにだが、学者が書く学術論文にしても、決められたルールに従うことを求められるのだ。

そもそも受験生としては試験問題のクセへの対処は必須であろう。もちろんその中には、解答用紙の特殊性というのも含まれる。そして、その対処法を見出すには、それなりの「創造性」「頭の良さ」「発想力」が必要とされるだろう。

となると、「その対処法を<自分で>考え出すのかそれとも予備校などに教えてもらうのか」ということの方が、当人の知的発達に対する影響が大きいはずだ。一般化して言うと、予備校などの意義・役割にも言及する必要があるということだ。もちろん、受験に関するありとあらゆる対処法(解法なども含む)がここで問われることになる。

なお、東大生と創造力の関係というテーマを取り上げるのであれば、進学振り分けの存在を忘れるわけにはいかない。すでに大昔からよく知られた問題ではあるが、なぜか記事中では一言も触れられていない。

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2015年11月09日

指導について少々

※今朝、連続でツイートしたもの。

語学でも武道でも同じだろうが、いわゆる「できる」人たちは「できない」人たちの苦労が理解できない場合が少なくない。苦労した過去を持っている指導者でも、昔の記憶は薄れてしまいがちだ。それをカバーするには、身近にいる「できない」人たちを指導しながら事実を論理化していく積み重ねが必要だ。

そこから派生する問題として、基礎の扱いが挙げられる。多くの指導者は「基礎は大切」と言うが、実際には形式的にできただけで安易に次に進んでしまうケースをよく見かける。しかし、基礎は一生ものであり、それは一流バッターが毎日の素振りを欠かさないのと同じだ。その重要性を甘く見てはならない。

とはいえ、それはいつまでも基礎しかやらないという意味ではない。基礎はそれ自体としては基礎ではなく、応用への道筋ができることによって基礎に転化するものだ。しかし、見事なる応用を実現するためにこそ、それに見合った見事なる基礎が要求されるのであり、指導者には急がない勇気も必要とされる。

最初の点に似た問題として、タイプの違いというのもある。たとえ同じ分野を学んでいても、個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない。それゆえ、もし個々の方法ではなく方法「論」を構築したいなら、自身を含むさまざまなタイプの学習者を検討する必要がある。

ついでに述べると、目標とするものの違いにも配慮する必要がある。実用性を重んじるのも、試験や試合での結果を求めるのも、学びの過程を楽しむのも、あるいは教材のコレクションに励むのも、基本的に各自の自由であり、他者がとやかく言うことではない。ただし、目的と方法との齟齬には気を付けたい。

(すべて140字)

翌日の追記(いずれも140字)。

先に「個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない」と書いたが、それは「短所は気にせず長所を伸ばせ」という意味ではない。なぜならば、たとえ苦手でも必要なものは必要だからだ。そういった苦手を克服することで壁を突破できることも少なくないのではないか。

「基礎」というのは「何ができるようになりたいか」という目的に応じて設定されるものだが、そこで反復されるもの自体が直接「実戦的」であるとは限らない。バッターの素振りはボールが飛んでこない環境で行われる点で実戦とは異なるが、練習としての意味は大きい。このことはさまざまな分野で言える。


参考:冒頭部分は南郷継正『武道への道』(三一新書)所収の次の文章(p.95)に触発されたものである。
 秀才的人間の忘れっぽさ
 そもそも人間は、そのなかでもとくに秀才的人間は、一に<忘れっぽく>できており、二に<自負心>の塊であるからです。一の忘れっぽいというのは記憶力云々という一般的なことではなく、自分がその道での<初心者>であった頃、何についてどれほどの心配をし苦労をしそして悩んだかという事実を、<具体的>なかたちではほとんど憶えていないということです。それを生々しいかたちでは忘れてしまっているものだから、現在の弟子たちの苦労・悩みを前にしても、それほどのものとは思えずともかく努力しさえすれば何とかなるものという信念で支えてやろうとするだけなのです。しかし、問題はそれだけではないのです。現在ある自分は、仮に同じ苦労、同じ悩みをも過去にもったにせよ。それは<秀才>レベルのものでしかなかったということを考えにいれないのです。つまり、自分は素材的に恵まれていたのであり、それゆえにいささかの論理を無視した練習であっても何とかやってこれたのだという反省がでてこないのであり、結果として自分の過去と同じものを押しつけたりすることになるのです。ここまでだったらまだよいのですが、もっとまずいことが現実には起きるのです。それは、自分の秀才であった過去にすら必要とされた<つらい苦労と悩みの事実>をも忘却の彼方へ追いやってしまいかねないのです。自分のともかくも駄目だった昔を<きれいさっぱり>と忘れてしまって、「ほら、こうやって使えばいいんですよ、簡単でしょう。悩むことなどありませんよ」といとも気軽に受け止めてしまいがちなのです。
(本当はもっと引用したいが、長くなりすぎるのでここまでとする。)

posted by 物好鬼 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする