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2016年06月01日

教科書における「真実」の扱い方

今回は「教科書の右か左か議論は不毛」という記事を読んで思ったこと。

記事に曰く
検定教科書なんてそもそもいらない。教科書に書いてあることを「真実」として覚えるのが目的ではなく、教科書に書いてあることをもとにして「真実」に近づく方法を学ぶのが教育なのだから。
という。"「真実」に近づく方法を学ぶ" のはよいと思う。というより、必須だろう。しかし、その「方法」が正しく活用できているのかどうかを判定するには、しかるべき目的地(判定基準)としての「真実」が必要なはずだ。

もちろん、教科書で扱うべき事実や法則にはさまざまなものがある。専門家の間で確定的な共通認識となっているようなものであればそれを「正しいこと」として掲載し、そうでない場合にはその旨記載しておくべきだろう。

ところで、歴史などの科目には膨大な事実(科目によっては法則も)が含まれているが、それらの一部にはそれらに対する「評価」というものが付きまとっている。これは社会的なテーマが持つ特殊性であり、すべての科目に共通しているわけではない。なのにリンク先の記事では「真実」の中に「しかるべき評価」のようなものまでが含まれてしまっているように見える。

そもそもの問題は、記事の冒頭に「歴史教科書の採択を巡る報道について」と書かれているのに、そこから先の展開が教科・科目によらない普遍的なことであるかのような書き方になっていることだろう。科目間にはさまざまな共通性・相違性があってそれらがそれなりの体系を織りなしているものだが、そういった点が考慮されていない。

そのせいか、著者が冒頭から使用している「真実」という語の意味も不明なままだ。私は途中から「真実」の代わりに(もう少しわかりやすいと思われる)「事実」と「法則」という語を使ってみたのだが、記事を書くなら「真実」のような多義的な語については自分なりの概念規定を示すことが必要だと思う。(もしかするとたかがブログ記事に期待しすぎなのかもしれないが。)

ならばお前の概念規定は?と問われそうなので少し書いてみる。

まず、私が使った「事実」と「法則」だが、ここでは仮に、「事実」とは個別的な事象であり、「法則」とは一定領域内の任意の事実間に共通する性質(法則性)をとらえた認識のこと、と規定しておく。不充分なのは承知しているが、ここでの議論には足りるのではないか。

肝心の「真実」はというと、ネットで検索してみたところでは「人間の主観に基づき導いた結論だから人によって異なる」という考え方もあるらしく、私が予想していたよりも意味の範囲が広いもののようだ。法律学では「事実」の中に「真実」と「虚偽の事実」を含めるのが普通だが、問題の記事では「しかるべき評価」のようなものまでが「真実」に含まれているように思われることは既述のとおり。私としては、少なくともこの種の記事で使用する概念としては、「真実」に評価的側面は含めないで「事実」の一種として理解する(つまり法律学と同じ)のがよいと考える。

posted by 物好鬼 at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

親の学習と子の学習

今回は「勉強嫌いな子は、親の劣等感が伝染している」という記事。

いつものことだが「学歴」という言葉の曖昧さが気にかかる。これが学校歴のことを意味するのであれば、親のそれが子供に影響するということはあるべきではないと私も思う。しかし、実際にはかなりの影響があるだろう。それはおそらく学校歴そのものよりも学習歴を介したものだと想像する。

よく言われることではあるが、子供に勉強してほしいなら「勉強しろ」はお勧めできない。それは泣いている幼児に向かって「泣くんじゃありませんっっ!」と叱りつけるのに似ている。容易に想像できるように、逆効果になりがちなのだ。

では、どうするか。何よりも大切なのは、親自身が勉強することだろう。願わくば、勉強を楽しんでいる姿と、それが役立っているという事実とを、自分の子供に対して具体的に示すようにしたいところ。つまり、背中で語るわけだ。

そして財政的に可能な範囲でよいから、役に立つライブラリを自宅内に構築しておくことが望ましい。そのライブラリは、子供たちのために構築するというより、親自身が活用するためのものであることが大事だろう。もちろん子供に利用可能なものも少なからず混ぜておく。そういった素材が身近にあればいつでも接することができるし、それらが実際に身近な人間によって使われていれば、子供はその事実を当然のこととしてとらえるようになる。

また、多種多様な分野の本に馴染んでもらうための一つの方法として、家族で書店や図書館に行くこともできる。これは貧弱な自宅内ライブラリを補うという面はもちろんあるが、「人間はこれほどまでにさまざまなテーマに取り組んでいるんだ」ということを(本という媒体を通してではあるが)実感してもらえることも大きいはずだ。

結局のところ、子供に勉強させたければ親による率先垂範が何よりもモノを言うのであり、その意味で親の学習歴が子供に影響するわけだ。もちろん「昔は勉強したが最近は…」よりも「現在勉強している」の方が大事だから、たとえ俄仕込みでも何もしないよりはよい。「子は親の言うとおりにはしないが、するとおりにはする」── かつて何かの本で見かけた金言を思い出す。

posted by 物好鬼 at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月24日

既成の解法に頼りすぎない学びを

たまたま「なぜMARCHの学生は、大学に入ったら東大生より勉強しなければならないのか」という記事を読んだ。この記事に対する論評ということでは必ずしもないのだが、関連して少し書いてみたい。

記事中に

"入試までは「正解がある学び」で、大学からは「正解がない学び」になる"

とある。この考え方自体は間違っていないと思うが、さりとて充分でもないだろうと私は考える。というのは、一口に「正解がある学び」と言っても、解法を人から教えてもらう場合もあれば、解法を自分で見つけるべく努力する場合もあるからだ。

つまり、全体としては

 1.正解がある学び
  (a) 解法を人から教えてもらう場合
  (b) 解法を自分で見つけるべく努力する場合
 2.正解がない学び
  (c) 解法を自分で見つけるべく努力する場合

と分類することができるわけだ。そして、(c) の基礎になるのは (a) ではなく (b) だということに注意が必要だ。

さて、受験を目的とする場合、解法は人から教えてもらった方が効率がよい。そのため、いわゆる受験秀才の中には「解法を人から教えてもらう」ことを当然のこととして実行してきた人が多いはずだ。

しかしそれは、「解法を自分で見つけるべく努力する」機会をあまり持たないまま大学に進学するということでもある。大学合格まではそれでもよい(むしろ有利ですらあろう)としても、進学後に「正解がない学び」(そこには既成の解法もないのが普通と考えられる)に取り組もうとする際には、そのことが大きな足枷となる可能性が高い。

となると、大学進学以降にどのような学びをするつもりなのかによって、受験勉強の方法も違ってきて当然だ。私は (b) を重視した学びを「骨太な学習」などと呼んでいるのだが、入試対策という当面の目標にウェイトを置けば置くほど「骨太の学習」は難しくなる。

もっとも、何でもかんでも自分で考え出そうとしていたら、おそらくは二次方程式の解の公式すら見つけられないまま死んでしまうだろうとも考えられる。だから (a) (b) 間のバランスあるいは兼ね合いが問題になるわけだ。このことは極めて重要な論点であるはずなのだが、話題になっているのを見ることがあまりないと思う。

元記事との関連で言うと、大学合格までに (a) (b) のどちらをどのくらいやってきたかには大きな個人差があるはずであり、それは「トップ校」合格者にも「MARCH」合格者にも言えることだろう(ただし、分布はかなり違う可能性もある)。となると、「努力」という量的側面をグラフの縦軸にするだけでは不充分で、「何をどのように」といった質的な側面(方向性)も加味したグラフにしなくてはならないはずだ。

なお、生まれつきの違いや偶然など、本人の意志でコントロールできない部分は誰にでもあるのだが、それを言っても仕方がないのも事実だろう。結局のところ、人間は工夫と努力を積み重ねた部分が強くなるものなのだ。だからまずは自分が進みたい方向を見極めて、それに見合った目標をクリアしていくしかないということになると思う。ただし、現状を正しく認識することも忘れてはならない。

(自戒を込めて…。)

posted by 物好鬼 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

9=72、8=56 云々

たまたま「ある算数の問題がネット上で話題になっている。あなたの答えは6?それとも9?」というページを見つけた。簡単に言えば、

9=72
8=56
7=42
6=30
5=20
3=??

というナゾナゾ(?)を扱ったページだ。
(言うまでもないことだが、この「=」の使い方は正しくない。「9=72」ではなく「f(9)=72」などと書くべきところだ。こういうことは日常生活でも疎かにしないことが大事だと思う。)

さて、素直にこの問題に取り組んだ場合、数列(高校数学で出てくるやつ)的な発想に慣れている人ならほとんど瞬時に f(n) = n(n-1) という式に気付くだろう(私もそうだった)。

ところがだ。実はこの問題、上の5つを元にして6つ目の右辺を確定することはそもそも不可能だ。仮に「左辺から右辺を導く関数は4次以下の代数的な式(つまり f(n)=an4+bn3+cn2+dn+e の形)である」といった条件が付いていればその式は f(n)=n2-n=n(n-1) となり、「??」は 6 と定まる。しかし、そういう条件がなければ正解も無限に存在することになる。

つまり、「??」の部分は 9 でも 12 でも 158.32 でも 3.14159265... でも間違っているとは言えないのだ。それどころか、それぞれの答に対応した式を(それも無限にたくさん)立てることすら可能だ。もっとも、あくまでも可能なだけであって、任意の形式を持った6つの式から成る連立方程式を実際に解くなどという面倒なことは、私はやりたくない(笑)。

さて、f(n) = n(n-1) という式に気付いてしまった人は「あっ、これが答だ。簡単じゃん!」と思ってしまい、他の考え方が存在しうることに気付かない可能性も少なからずある。そうなってしまった場合、その人はそれほど論理的とは言えないだろう。

一方、6 以外を答とした人に対しては、「左辺から右辺を導く関数はどんな式になりますか?」と問いただすことができる。もしその問いに答えられないのであれば、その人は論理的に考えたとはとても言い難い。(さりとて、それは「感覚的」というのと同義なのか?という疑問は残るが。)

というわけで、

 @f(n) = n(n-1) という関係に気付く
 A私が中盤に書いたような事情にも配慮できる

の双方を満たすのが、単に 6 とか 9 などと答えるよりはるかに論理的なのではないかと思う。
(そして、自らの不勉強を顧みずにこんな記事を書いてしまう私は「論理的でありたいと強く願う人」なのだとも思う。)

蛇足だが、この記事を Facebook に投稿したところ、アメリカ人の Facebook 友達から

9=72
9−9=72−9
0=63
0/63=63/63
0=1
0・(y−x)=1・(y−x)
0=y−x
0+x=y−x+x
x=y

というコメントがあった。どう答えようかと思ったが、少し考えたうえで

9=72
9−9=72−9
0=63≠1
0≠1
0・(y−x)≠1・(y−x)
(1−0)(y−x)≠0
1・(y−x)≠0
y−x≠0
x≠y

と返しておいた。

(わかる人にはわかると思うが、偽命題を前提にすればどんな命題も導き出せるという論理を利用している。)

posted by 物好鬼 at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

経歴詐称につきツラツラと

経歴詐称が話題になっているので、思ったことを徒然なるままに…。

一口に経歴と言ってもいろいろある。まず、そのなかで「学歴」と呼ばれるものについて考えてみると、それは大抵「学習歴」ではなく(まして「学的研鑽歴」などではさらになく)「学校歴」と呼ぶべきものであることに気付く。

そして(欧米はともかく)日本の大学は合格するまでがキモで、卒業するのは比較的やさしいと言われている点にも注意が必要だ。つまり、ある大学を卒業したという事実は、その大学に入学したことがあるというのと大差ないのだ。(ちなみに私はサボりすぎて留年したが、卒業は問題なくできた。教職をとらなかったのは失敗だったかもしれないとは最近になって思い始めているが…。)

ということは、「学歴」そのもの(特に日本の大学を卒業するまでの部分)によって表されているのは、「大学合格までの実績」がその大半を占めているということになる。若手を終えて中堅以上の年齢ともなれば、大学合格以降の方が研鑽期間としては長いものであるはずなのに、だ。そこで、大学合格以降の実績・経歴が大きな問題となってくる…はずだ。(と、冷や汗をかきながら書いてみる。)

ところで、経営(に限らず)コンサルタントになるのに特定の資格や学位は要求されない。その意味では、実力さえあるならば、中卒でも全然問題ない。そして、そういう「専門家」に依頼するかどうかはあくまでもクライアント側が判断すべきことであり、その基礎には「契約自由の原則」がある。もちろん公正なる競争のためには、判断に必要な事実が正しく伝えられる必要はある。

とは言うものの、自分が専門としない分野について他人の実力を評価することはなかなか難しい。その点、資格や学位などは「少なくとも、それらを得るのに必要なものは持ってい(たことがあ)るはず」という「推定」が成り立つという点で存在意義がある。だから、当人としても、自らの実力を見える化するための手段として資格や学位を使うことができるし、実際に使われてもいる。ただし、あくまで「推定」でしかないから、反証されれば覆ることもある。

さて、プロとして働く際に信用は極めて重要だから、実績・経歴に関する表示は虚偽を含まないよう気を付けなくてはならない。たとえ現時点において充分すぎるほどの実力を持っているとしても関係ない。この点、微妙な表現を使って経歴を「盛る」ことはそれ自体としてはセーフなのかもしれないが、続けているうちに抵抗感が薄らいでくる危険性があることを考えると、やはり避けておいた方が無難だろう。

もし詐称(や盛りすぎ?)がバレれば信用を失うだけでなく契約を打ち切られる(=収入を失う)可能性があるし、状況次第では莫大な額の損害賠償を請求されることもありうる。また、ネット等であることないこと書かれてしまうことも考えられる。もちろん納得できない部分については受けて立つことも可能ではあるものの、それはそれで大きな負担となることは覚悟しておく必要があるだろう。

なお、経営コンサルタントの場合には、もう一つ別の問題が重なると思う。というのは、専門分野の性格上、レピュテーションマネジメントに無知であってはならないと考えられるからだ。その意味で、某K氏のように公式サイトに表示されている自らの経歴に無頓着なのは頗るマズい。そう考えると、今回の騒動は遅かれ早かれやってくる結末だったのかもしれない。

今さらではあるが、氏は(経営・経済などに関する知識・能力について私は関知しないけれども)なかなか多芸多才な人物だったようだから、実績・経歴の表示さえ適切な範囲にとどめておけばよかったのに!という印象が強い。氏の言う「急ごしらえのβ版」が真実なのかどうかについては(ラジオで流れたお詫びでも触れられなかったから)疑問は残るとしても、いずれにせよ不適切な表示が今回の結果につながったのは間違いない。もっとも直接的には本人の意思による「自粛」なのだが。

何はともあれ、「努力が間違った方向に行かないように注意すべき」という意味においては、この事件も他山の石とすべきものなのだろう。単にワイドショー的に盛り上がるだけではよろしくないと感じた次第。

駄文多謝。

posted by 物好鬼 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月28日

内言と速読について少々

「本を読むときに頭の中で『声』が聞こえる人と聞こえない人がいることが判明」という記事。しかし、四半世紀前の卒論執筆時に「こんなことは当然だ」と思っていた人間としては、このタイトルには強い「今更」感がある。最近の学説は知らないけれど。 http://gigazine.net/news/20160225-read-voice-in-head/
(140字)
https://twitter.com/George_Ohashi/status/703027084759666689
 
以下、付けたり。

記事中にある「読書中の内なる声」というのは言語学的には「内的言語」とか「内言」などと呼ばれていて、その正体は音声言語の表象的認識だと私は考える(このあたりは三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』による部分が大きい)。

声を出さない読書の際にこの「内なる声」が聞こえるかどうかには個人差があり、「内なる声」に頼らないと読めない場合は読速度に低い限界が生じてしまうのに対し、「内なる声」に頼らずに(視覚的な文字表象から直接意味を認識して)読める場合はその限界を破ることができる。この経験的事実は、速読の世界では昔からよく知られていた。

そんなこともあって(だと思うが)、そのころから「二重経路モデル」などと呼ばれる学説がいくつか発表されているし、同じようなことを私も卒論(90年に執筆)の中で当然のこととして述べている。
参考記事

記事タイトルに今更感があるのはそういう理由なのだが、その一方で、声色に関する部分は興味深いと思う。

蛇足だが、私が卒論を書いていたころに有名だった「ジョイント速読法」では、「内なる声」に頼る読み方のことを「黙読」、頼らない読み方のことを「視読」とそれぞれ呼んでいた。便利な呼び分け方だったので、私も卒論の中で使用した。

posted by 物好鬼 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

正確に覚えつつ、変化も試みよう

今回読んだのは「Japanese Twitter User Finally Finds Use For “Most Useless English Sentence”」という記事。半分ネタなのは承知しつつ…。

教科書で学んだのが This is a pen. という文だったとして、その文をそのままの形で使うことはもちろんかまわない。それは「学んだ文を使う」の典型例と言える。リンク先の例がそうだ。

しかし、「学んだ文を使う」とはそれだけなのか? たとえば、先の文をもとに

 ・平叙文を疑問文にする
 ・a pen を a dog に置き換える
 ・修飾語として really を付ける

という変化を施して

 Is this really a dog?
(It looks like a mop!)

という発言をすることも「学んだ文を使う」ことなのではないか。
(これがどんな状況なのか想像できない人は「コモンドール」でググるべし。)
 
ここまでは前振り。

しばらく前に Facebook 上の某グループで一人の高校生から「1冊のテキストを100回近く音読しているのに、初めての素材ではリスニングがうまくいかない」という相談があった。そして

私「音読素材の文構造や語句などはしっかり理解しているか?」
彼「かなり意識していて自信がある」
私「リスニング素材のスクリプトはスラスラ読んで理解できるか?」
彼「音読だと理解度は半分以下」

というやりとりになった。そんな相談者に対して私は次のような提案をした。
 
まだ詳細がわからないので明確なことは言えないのですが、文の構造を自力で変化させる訓練はしてますか? あまりしてないのであれば、試してみてください。

たとえば教材の中に

Can the rumor be true?

という文(今し方、手元の文法書で見つけました)が出てきたとして、それを

The rumor is true.
Is the rumor true?
The rumor isn't true.
Isn't the rumor true?

The rumor was true.
Was the rumor true?
The rumor wasn't true.
Wasn't the rumor true?

The rumor can be true.
Can the rumor be true?
The rumor can't be true.
Can't the rumor be true?

I think the rumor can be true.
Do you think the rumor can be true?
I don't think the rumor can be true.
Don't you think the rumor can be true?

のように変化させてみます。最初は紙の上でやってかまいませんが、慣れてきたら何も見ずにやるようにします。

こういう変化についての訓練(必ずしも上記のようなドリルである必要はありませんが)を日頃からやっておかないと、反復した素材と違うかたちのものにイキナリ出会ったときにはスムーズに対応するのは難しいだろうと思います。
 
私が提案したのは「転換」と呼ばれるドリルだが、語句の「置換」についても同様のことが言える。また、音読中心に学んでいる場合、音声面の正確さに問題がある可能性もありうる。

さて、私が上で「変化についての訓練」と呼んだものを学習の中に取り入れておけば、少量の素材を最大限に活かすことにもつながるだろう。しかし、学んだことをそのままの形で反復するばかりでは、大量の素材を完全に覚えてもそれほど役立てられない可能性が高い。それは見えない壁として学習者や指導者の前に立ちはだかる。
 
「学んだことを使えるようになるには」は古くて新しい問題で、武道においては「形(かた)は実戦に役立つか」といったかたちで現在も問われ続けている。数学や物理でも、あるいはおそらく(私はよく知らないが)芸術的な分野にも同様の問題はあるだろう。もっとも、英語などの場合は、文法の助けが得られるという長所があるのは紛れもない事実だ。

なお、英語や武道を自分のペースで使ってみる機会に恵まれている人の場合、その自発的な試行錯誤の積み重ねが変化の能力を育ててくれるから、上のような問題は比較的起こりにくいだろう。それだけに、そういうかたちで上達した人がそうでない人を指導する際には注意が必要だとも言える。

今回のタイトルは「正確に覚えつつ、変化も試みよう」としてみた。@正確に覚えることとA変化の能力を付けることのうちどちらがヨリ大切かというと、それは各人の学習の目的によって違ってくる。ただ、Aを急ぎすぎると往々にして@を犠牲にしてしまうということは否定できないから、@の進捗を自らの必要性との関係で評価しながらAを徐々に進めていく、という方法がよいだろう。

posted by 物好鬼 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

英語教育は必要性とバランスを考えて

今回は「英語は幼いうちに打て? 進む早期化、アジア追う」という記事。

その記事に曰く、ある小学校では

「2年生の生活科の授業をのぞくと、記者には聞き取れないほど流ちょうな英語で児童と教師がやりとりを繰り広げていた」

のだそうだ。一見すばらしいことのように聞こえるが、言葉というものは流暢さとともに正確さや適切さといったものもあわせて評価される必要があるはずだ。

なのに「記者には聞き取れないほど」という部分から考えるに、この記者さんにはそれらについて自立的な評価ができるだけの能力があるのか不安になってしまう。もちろん謙遜しているという可能性もなくはないのだが、いずれにしても正確さや適切さなどの側面に触れていない点で記述が不充分と言えよう。
 
また、

「国語(日本語)以外の大半の授業を英語で受ける」

とも書かれている。しかし、通常の日本人は「国語」だけでなく他教科も含めたあらゆる時間における日本語使用を通じて日本語力を伸ばしていくものだろう(それでも足りない場合が多々あるのだが)。

となれば、記事の中ではそういう機会が減ってしまうことによるデメリットにも触れる必要があるはずなのだが、残念ながら一面的な観察になってしまっている。

言うまでもないことだが、そもそも授業というのは「わかってなんぼ」のものだろう。もちろんこういう授業を受ける子どもがいてもいいのだが、世の中には日本語での授業ですら付いていけない子どもがたくさんいることを考えると、かなり相手を選ぶ方法だと言えるのではないか。


英語による授業以外のところでも、そもそも英語をどこまで学ぶべきかは各人の必要性と他教科(あるいは勉強以外の分野も含めて)とのバランスによって判断されるべき問題だと思う。すべての人に高度な英語力を求めるのは、すべての人に高度な数学力を求めるのと同様に無理があろう。となると、自身が将来的に必要としそうなものにウェイトを置いてやるのが現実的だということになる。

最近はオリンピックが近いこともあってか英語教育狂想曲といった感を呈しているが、私に言わせれば「国語や数学や理科も忘れるなよ」なのだ(本当は社会も音楽も体育も同様なのだが、私は苦手だったから偉そうなことは言えない)。率直に言って、英語をやるために他の教科・分野を犠牲にした人は、他の教科・分野をやるために英語を犠牲にしている人のことを笑えないはずだ。それはその人の生き方なのであり、英語をどこまで学ぶかについても、最終的には各人が自己責任で判断するしかないということになる。

もちろん英語は(他の教科・分野と同様に)できた方がよいし、それも高い能力があればそれだけ大きなメリットが得られるとは私も思う。だから、国民全体の英語力を引き上げようという考え自体を否定するつもりはさらさらない。ただ、公教育、特に中等レベルのそれに関しては、他の教科・分野をあまり犠牲にしないで進めるのでないかぎり、私としては批判的にならざるをえない。

なお、英語と言えば最近は「4技能の使用」という意味での実用性ばかりが強調される傾向がある。それは従来の英語教育が期待されたほどの「実用性」に繋がっていないという事実への反省という面もある。しかし、それでもそういう意味での実用性とは異なる理由(たとえば理論的関心であれ単なる好みに由来する興味であれ)で英語や他の外国語を学ぶということも否定されてはならないだろう。その点まで含めての選択が問われるということだ。


以下、つけたり。

私見だが、外国語と母語との関係としては

 @両者の言語としての類似性の度合い
  (学習に要する労力が違ってくる)
 A現代社会で生きるのに母語だけで充分か否か
  (不充分な場合、英語を優先した方がよいことすらありうる)
 B日常生活においてその外国語に接する機会が多いか

といった側面が考慮されるべきだろう。日本の場合は

 @日本語は英語との言語間距離が極めて大きい
 A日本語だけでも最先端の知的生活までカバーしうる
 Bあまり高度な英語に接する機会はそれほど多くはない

という点でやや特殊な立場にあるのだから、「他の国がそうだから」のようなものは根拠として不充分すぎよう。

ここで非印欧系言語を公用語とする国をいくつか見てみたい。まず、フィンランドは@Aでは日本に近いものの、日常生活で英語やスウェーデン語に接する機会が多いようなので、Bに大きな違いがあると考えられる。韓国は@Bで日本に近そうだが、漢字教育が一部に限定されている現状ではAに違いがある可能性がある。(他にも検討すべき国はたくさんあるが、よく知らないから今は触れない。) あくまでも現時点での個人的印象だが、ハンガリーなどの方が参考になる点が多そうだと感じる。
 

以下、つけたりのつけたり。

教育はすべての人に関係する問題ではあるが、論争が繰り広げられているようなテーマを取材して記事を書くには相当量の準備(教養も含め)が必要なのであって、誰にでも簡単にできるようなことではないだろうと思う。正直なところ、私もあまり深く踏み込むことはできないでいる。

しかし、この種の領域は上辺だけ見ると簡単そうに見えるから安易に首を突っ込みやすいという傾向はあって(おそらく新聞社もこの点を甘く見ていて)、<重力波>のような見るからに難しそうなテーマとは違った状況にあるように見える。もっとも、大手紙ですらサイエンス系ではトンチンカンな記事をたまに見かけるから、実際にはそれほど違わないのかもしれない。結局、どっちなんだ?(笑)

posted by 物好鬼 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

文法規則は結構イイカゲン

今日は日本語の話。

まずは以下の4つの文を見てほしい。

 @彼 は 学生 でしょう。
 A彼 は 知的 でしょう。
 B彼 は 若い でしょう。
 C彼 は 働く でしょう。

いろいろな種類の述部について「〜でしょう」というパターンが成立している。このくらい綺麗に揃っているとわかりやすいし気持ちよい(笑)。
 
では、「でしょう」を「です」に置き換えるとどうなるか。

 @彼 は 学生 です。
 A彼 は 知的 です。
 B彼 は 若い です。
 C彼 は 働く です。  ??

現状の(標準的な)日本語では動詞の後に「です」は付けないから、Cが脱落することになる。ただし、上の「でしょう」のケースから考えるなら、ここにも「です」に相当する認識はある(のに表現はされないことになっている)のだろうという推測が成り立つ。
 
次に、「です」を「だ」に置き換えてみる。

 @彼 は 学生 だ。
 A彼 は 知的 だ。
 B彼 は 若い だ。  ??
 C彼 は 働く だ。  ??

現状の(標準的な)日本語では形容詞や動詞の後に「だ」は付けないから、BとCが脱落することになる。これは「である」についても同じことが言える。ただし、(以下ほぼ同文)。
 
この「認識はあるのに表現はされない」という点は、日本語学習者のミスを考える際に役立つ。私もたくさんの外国人と日本語で話したことがあるが、「彼は若いだと思います」というタイプのミスはいろいろな国籍の人がしていたと記憶している。もっとも、この部分については日本語のルールの方が捻(ひね)くれているのだから、学習者が苦労するのも無理はない。

論理的な理由がわからないせいで、ミス(とされる言い方)に聞き馴染んでしまうと違和感がなくなってくるという問題もある。実際、日本語を母語として育った私ですら、「彼は若いだと思います」型の文に対して抱くべき「何かおかしい!」という感覚が鈍ってしまった経験があるのだ。そんなこともあって、母語であっても文法の勉強は欠かせないと思っている。まして外国語の場合は、だ。
 
こういう「一貫性のなさ」は解消された方が学習者の負担は減るだろう。と同時に、現状に馴染んでいる者(特に母語話者)にとっては不満のタネになりうる。つい先日もフランス語の綴り見直しに関するニュースがあった(日本語でも戦後はいろいろあったらしい)が、合理性だけでは決められない問題と言えるだろう。
 
なお、同様の「一貫性のなさ」は英語にも少なからずある。それも be や do の周辺にいろいろ存在しているから、初心者が躓く原因にもなっている。そのあたりの話は別の機会に…。

posted by 物好鬼 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

サピア=ウォーフ仮説と臨界期について少々

昨日の朝、たまたま「赤ちゃん、似た色を認識 中央大など『言語取得後』の仮説覆す」というニュース記事を見つけた。興味ある内容だったので、思ったことを書き添えて Facebook に投稿した。それはよくあることなのだが、今回は夕方になって当該論文のラストオーサーさんから直々にコメントをいただいた。そして、普段とは違ったノリのやりとりとなった。

幸いこのブログに転載することについて許諾が得られたので、以下にそのやりとりをほぼ原文のまま紹介したいと思う。

大橋 穣二 結果自体に異論はないし、むしろ私は「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」なるものに否定的な立場の人間だ。ただ、この記事を読む限り、「生後5〜7カ月の乳児12人」が「言語や文化の習得」をしていないと言えるのかという点についての検証が欠けていると思う。彼らはたしかに話すことはできないが、その事実だけでは概念の有無までは云々しがたいからだ。
上記記事へのリンク

(上は私の投稿、以下はそれに対するコメントたち)

○○ ○○ つまりこれ、サピア=ウォーフ仮説を否定するってことですか?
栗木 一郎 なるほど、鋭いご指摘ありがとうございます(突然すみません。当該論文のラストオーサーの栗木です。北岡さんのシェアから辿ってきました)。言語や文化の取得の有無を直接乳幼児で確かめるのは難しいです。ただ、言語関係の脳活動を調べた研究では、「音韻」のカテゴリーは6ヶ月前後に確立しているものの、「言語」に関する脳活動は 13-14 ヶ月まで見られなかったという研究もあります(Minagawa-Kawai et al., 2007)。もちろん確立される前の下地が無いとは言えませんし、さらなる evidence を積み重ねる必要はあると思います。ただ、感覚的な神経信号のカテゴリーは言語とは別に発達が始まっている可能性を示せたのでは、と思っています。
大橋 穣二 はじめまして。コメントいただきありがとうございます。当該論文のラストオーサーさんから直々にコメント投下があるとは予想しておらず、思い切り冷や汗をかいております。(というのは冗談ですが、こういう場合の冷や汗って何歳くらいからかくもんなんでしょう?)

私の場合、心理学でも認知科学でも脳科学でもなく、在野の学者だった三浦つとむ(および南郷継正系統)の認識論を主要な基盤にして考えていますので、ものの見方・考え方には(良くも悪くも)違いがあるだろうと思っています。そのあたりは是非にご容赦を。

この種の実験について私は経験がなく、具体的な知識も持ち合わせてはいないのですが、冒頭にも書きましたように、結論部分については特に抵抗なく受け取ることができます。

蛇足ながら、せっかくの機会なので質問してみたいことが一つ。というのは、記事にある(私も上で取り上げた)「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」という部分です。私の直感では「大昔に大きな反響を呼んだことがある(が今はそれほど単純には支持されていない)説」あたりが真実に近いのではないかと想像するのですが、実際のところはどうなんでしょう? Twitter でも私と同じような感想を書いている人が何人かいたのですが。

それはそうと、今後ともお手柔らかにお願いいたします。m(_ _)m
栗木 一郎 貴重なご意見ありがとうございます。私自身の専門は計測工学で心理学の専門教育は受けていないのですが、実験心理学の分野で主に活動しており、関連学会で 20 年以上見聞きしてきた経験に基づくコメントになりますがご容赦下さい。

我々が研究対象とした色カテゴリー(カテゴリカル色知覚)については、言語の影響が強い、という報告と、言語・文化に依存しない基本構造がある、という報告とが未だにせめぎ合っています。例えば、ロシア語には明るい青と暗い青を明確に区別する言葉があります。日本語でも水色と紺などありますが、青というカテゴリーに含めても(ロシア語話者の2色に比べて)抵抗が少ない、という言語依存の例はあります。一方で、大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能という、言語に非依存な側面もあります。従って、Sapir-Wharf 仮説はまだ完全に否定されたわけでもなく、むしろ強く支持するグループもいるようです。

今回の報告は、そこに一石を投じたに過ぎず、まだまだ証拠を積み上げていく必要があると考えています。わかりにくい話で恐縮です。こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
大橋 穣二 さらなるコメントありがとうございます。非常に興味深いです。

色というのは(その他のものも大半は同様でしょうけれど)人間から見れば目盛りもハッキリしないさまざまな値をとるもので、そのうちのどのあたりで区切るかは多分に偶然的(恣意的?)なものなんだろうと思います。ただ、「大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能」というところからすると、少なくとも3原色については錐体細胞の働きが何らかの影響を及ぼしているのかなあ、と素人の私は思ったりしますが。

さて、人間はさまざまな具体的事物を見ながら自らの頭の中に抽象的な像(認識)を形成していくわけですが、現実の個々人は否が応にも何某かの個別具体的な文化的環境の中で生活しています。そして人間にとって極めて特徴的とも言える言語活動には、言語規範の媒介が必要とされます。

ところが、個々の語彙に紐づけられるべきとされる像にはその文化特有の枠付けがなされているわけですから、その文化の中で生活している個人はどうしてもその縛りに適合したかたちでの抽象化・一般化を要求されます。そうしないと言語の使用に支障が出るからです。

ついでに述べるならば、似たような問題は表現形式の側にもあります。つまり、文字や音声、語句、文構造なども、目や耳から入ってきたままの個別具体的な形式のままでは不充分で、若干抽象化した「種類」としての把握が求められます。このプロセスはあまり自覚されないかもしれませんが、癖の強い字を読んだり訛りの強い言葉を聞いたりするときには、大人でもこのプロセスの必要性を痛感することができます。

そしてこれらのプロセスは、成長するにつれて自動化・高速化が進み、自覚されることもほとんどなくなります。そうでないと母語としてのスムーズな言語活動はできないでしょう。

そういった諸々がありますので、言語や文化が色の捉え方に影響を与えることは多々あるだろうと私は考えています(小さな差異の無視については特にそうです)。ゆえに、Sapir-Wharf の仮説が全面的に否定されることはないだろうな、というのが私の現時点での考えです。と同時に、色(など)の捉え方を決定してしまうほどの力もないだろうと思います。

そういえば、人間は成長するにつれて外国語の音を識別する能力が衰えるとよく言われますが、これも「音の種類としての把握」が母語の規範に要請されるかたちで行われる(それもどんどん自動化していく)ことと関係しているのかな、と最近になって考えるようになりました。

言い換えると、いわゆる「臨界期」の問題というのは、ひょっとすると外国語の習得能力自体が衰えてしまうからではなくて、上記のような自動化が邪魔をしてしまうことによって発生する現象(スキーマ依存エラーのようなもの?)にすぎないのではないか、という考え方です。もちろん同様のことは音以外についても考えられます。素人の邪推ですが。

少し前から小学生に対する英語教育が始まっていますが、上に述べたような影響が強いと思われる音声面については、他の部分よりもやや力を入れて教える(たとえば英語的な(あるいはもう少し広く非日本語的な)音声への露出を継続する)ことが大切なんじゃないか、という仮説も成り立つように思います。

以上、長々と書いてしまいましたが、すべて素人の戯れ言ですのでコメントは不要です。また何かありましたらよろしくお願いいたします。
栗木 一郎 「自動化」とおっしゃる話はよく解ります。私は外国語の聞き取りが(比較的)得意なのですが、逆に日本語の聞き取りが(比較的)不得手で、日本語の聞き取りの「自動化」が未熟なせいだろうと思っています。

感覚情報は、言葉に紐付けされる前の表現形式があると思いますが、日常的なコミュニケーションの必要性から、若干むりやり言葉に結びつけている(むすびつけざるを得ない)部分もあります。その「無理矢理」圧力が感覚の脳の中での信号に影響を与える事はあり得るという感じかと思います。

我々の研究に興味を持って頂き、ありがとうございました。おっしゃる通りのご指摘だったので、失礼とは思いましたが直接お答えをしたかったし、直接ご意見を伺えてとても有意義でした。

今後ともよろしくお願い致します。
大橋 穣二 お疲れ様でした。ニュースになったばかりでさまざまな対応に時間をとられているところではないかと思います。研究の方、今後も頑張ってください。

(終わったはずなのに追記する私。)

大橋 穣二 中央大学のプレスリリースでは「これは、サピア=ウォーフ仮説を覆す驚くべき成果です」と書かれてますね。
プレスリリースへのリンク
栗木 一郎 プレスリリースですが、「痛烈な一撃を見舞った」という表現では記事にして頂きにくいので「覆す」という白黒のはっきりした表現になったと理解しています。もうじき英語版も出ますが、そちらは少しトーンが抑えてあります。

やりとりの本体はここまで(あとは転載に関する話などが少々)。私としてもこういう内容での長文コメントは久しぶりのことであり、記録にとどめておきたいということもあってブログに載せることにした。もちろん読者に対する何らかの刺激になればさらに嬉しいところなのだが、はたして…。

参考:サピア=ウォーフの仮説

posted by 物好鬼 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする