(1) 新刊 『英文構造図』(第3版) 大好評発売中!
  10265528_10152449507841816_3640753823111937564_o.jpg
(2) 英文構造図の詳細は 公式サイト をご覧ください。
(3) ブログ記事の体系的閲覧には 目次一覧 をご利用ください。

2012年09月28日

英語も高低アクセント?(『日本語のアクセント、英語のアクセント』)

読者の方はご承知のように、私はアメリカ英語の発音に対するこだわりが強い人間であり、高3のころから(飛び飛びにではあるが)それなりの訓練をし、それなりの成果を上げているつもりである。このブログにも「‘sleeping cat’と‘sleeping bag’のアクセント」をはじめとしていくつかの記事を書いてきている。

とはいうものの、私は決して音声学の専門家ではないし、関連領域について詳しい知識は持ち合わせていない。音声学に関する本は少しばかり読んでいるものの、今はまだ通説に従っているだけであり、オリジナルな考え方を持つに至ってはいない。別に発音の指導をしているわけではないので、それでも問題はないだろう…ぐらいに考えている。

そう言えば、しばらく前に『日本人のための英語発音完全教本』という本を紹介したこともあるが、それは他に例を見ないほどの詳しい解説ゆえであり、新機軸である「ドッグブレスと母音の共鳴スポット・声のベクトル」(リンク先コメント欄に著者による書き込みがあるので参照されたい)については、いまだに納得できないでいる。


ところで、私は4年近く前から Facebook をやっている。ここ最近は英語教育を中心とした教育関係の人々とのネットワークを構築しているが、「友達」になった人の中には有名どころも何人かいる。中でも異色なのが『英語喉』の上川氏。上記の「‘sleeping cat’と‘sleeping bag’のアクセント」にもコメントをもらっているが、Facebook 上でもやりとりは比較的多いと思う。通説に従っている私とはかなり考え方が違うのに、だ。

そんな折も折、昨日から今日にかけて「英語におけるアクセントとは何か」といった話題で彼とかなり盛り上がった。私のスタンスは上記の通りなので、「通説と違う主張をするのであれば、素人の私ではなく、専門家を説得してくれ」という意味のことを書かせてもらったりした。


そして今日の夕方。月末が給料日の私はもらったばかりの給料を握りしめて(というのはもちろん誇張だが)日本橋の丸善に行き、面白そうな本はないかとアチコチの棚を見て回った。そのときのこと…。

歴史関係の本を一通り見た後、ついでに反対側の棚にある哲学の本を見ていたら、そのすぐ左隣にあった言語学の棚に音声学関連の本が少しばかり並んでいるのに気が付いた。上川氏とのやりとりを思い出して「詳しい本は何かないかな…」と思って眺めていると、『日本語のアクセント、英語のアクセント』(杉藤美代子著、ひつじ書房、cf.詳しい目次)という見慣れない、薄い本があるのを発見した。奥付を見ると「2012年7月25日 初版1刷」とある。ほんの2ヶ月前だ。

続けて「あとがき」を開いてみてビックリした。そこには次のように書かれていたのだ。

 従来、日本語は高低アクセント、英語は強弱アクセントとされてきた。
 しかし、東京と大阪のそれぞれ生粋の話者の発話による500単語余り、また、英語話者の400単語余りについて、音声波形の各波長を実測した結果、アクセントは、いずれも声の高さと音調の動態によるものであることが明らかになった。さらに、合成音声を用いた実験を行い、アクセントが強さの変化とは関係がなく、高さの変化によって知覚されることもわかった。その上、音声医学的な手法、つまり、喉頭筋電図の採取によって、日本語のアクセントと同様英語のアクセントも、ともに声の高さの変化によるものであることが明示された。

A5判120ページほどのコンパクトな本だが、その内容は実に面白い。グラフもいろいろ載っている。それに、著者の杉藤氏は「元日本音声学会会長」とのことであり、決してそんじょそこらの素人ではない。その意味において、同書は、上川氏にとっては強力な援軍になるのではないだろうか(とっくに知っているという可能性もあるが)。


さて、ここで私はどのような態度をとるべきか、についても考えておくべきなのかもしれない。

上にも書いたように、この著者の主張は多くの実証的資料を伴ったものであり、説得力はかなりあるように思われる。それに私自身、通説に従う義務があるわけではない。

しかし、だからといって、この領域について専門的な知識を持たない私が不用意に飛びつくのは危険だろうとも思う。というのは、元理系の私としては、どうしても物理学における「相ま系」(「相対論はまちがっている」系の主張)の問題を連想してしまうからだ。

あくまでも私見だが、態度を決定するために私がやるべきことは、まず第一に、同書の内容を精査し、達成・未達成をできるだけ正確に把握することであり、第二には、同書の内容に批判的な立場からの意見についても同様の作業をすることである。前者だけでなく後者も必要なのは、素人の場合どうしても「よさそうなもの」に引きつけられがちだからだ。

そのためには、杉藤氏の学説が音声学の世界でどのように受け入れられているのかを是非とも知りたいところだ。しかし、ネットで検索してみても、どういうわけか何も見つからなかった。氏の主張は明確な根拠を持ったもののように思われるのだが、斬新さゆえに黙殺されているのか、あるいは単に私の探し方が悪いだけなのか。


最後になったが、この本を見つけることができたのは、上川氏と関連テーマでの議論をしていたからこそであろう。それは偶然ではあったが、それでも上川氏には少しくらいは感謝しなくてはなるまい(笑)。




posted by 物好鬼 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

発音の鍛え方

(先日のツイートから)

音声面(発音だけじゃない!)を鍛えるには、素材を厳選したうえで、正確な音を理解し、耳に焼き付ける。スクリプトを見ただけで音が思い出せるくらいでないと不十分。そのうえで徹底的に音読。慣れたら他の素材にトライするが、そのCDに依存せず、元の素材を活かすこと。実際に喋るときも同様。

−−どんな素材がよいか?

目指す方向にもよるであろうが、あまりカジュアルすぎないモノローグのうち、ある程度喜怒哀楽が出ているもの(抑揚が少ないとインパクトが弱い)がよい。しかし、気に入ったものなら、大学入試の長文とかでも全然問題ないはず。音が違うわけではないから。

−−具体的には?

たくさんあると思う。間口はかなり広い。私は『英会話データベース必須1200』のCD(全40分)が気に入って300回は聴いたが、あいにく絶版。今なら『速読速聴・英単語』シリーズとかから適当に選べば十分であろう。近江誠氏の本も使える。

なお、氏のオーラルインタープリテーションは優れた方法だと思うが、音声面の正確さを確保するには、若干の修正が必要(既述のとおり)。

(補足)
私が上に書いた方法には、一つ大きな欠陥がある。

それは要するに「何度も何度も繰り返したからと言って、はたして大事な点に確実に気付くことができるのか」ということ。これは発音の場合、年をとってから始める場合に特に大きな問題になると思う。

そこで大切になってくるのが理論だったり口伝だったりするわけだ。

それからもちろん、「大事な点に気付いたからと言って、はたして習得できるのか」というのもある。能力はどうやら「移植」できないので、その人自身に創り上げてもらわなくてはいけないのだ。



posted by 物好鬼 at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月09日

‘sleeping cat’と‘sleeping bag’のアクセント

‘sleeping cat’は「眠っているネコ」のことであり、‘sleeping cat’のように2語とも強く発音する。一方、‘sleeping bag’は「眠っているバッグ」ではなく「寝袋」のことであり、‘sleeping bag’のように前だけ強く発音する。

言わずと知れたことだが、‘sleeping cat’の‘sleeping’は現在分詞であり、‘sleeping bag’の‘sleeping’は動名詞である。そして、似たようなことが形容詞と名詞の間にも生じる。

たとえば、‘English teacher’がそうだ。

これを、「イギリス人の先生」という意味で使うときは、‘English teacher’のように2語とも強く発音する。一方、「英語の先生」という意味で使うときは、‘English teacher’のように前だけ強く発音する。
(しかし、このことを知らない日本人の英語教師が“I'm an English teacher.”と言っているのを聞いたことがある。)

そして、「イギリス人の」の意味の‘English’はもちろん形容詞なのだが、「英語(の)」の‘English’はどうやら名詞であるらしい。これは‘mathematics teacher’や‘chemistry teacher’と比較すると納得しやすい。先生自身が‘mathematical’だったり‘chemical’だったりするわけではない。
(しかし「国際数学オリンピック」は‘International Mathematical Olympiad’なので、私にも定かなことは分からない。)

蛇足だが、同じことが‘English study’についても言える。これを「英語の勉強」という意味で使いたいのであれば、上の「英語の先生」と同様に前だけを強く発音する。もし2語とも強く発音すると、「イギリス風の書斎」という意味になる(そんなものがあるのかは知らないが)。

posted by 物好鬼 at 00:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月04日

ng の音

英単語で ng を含むものはたくさんある。が、singer と finger とでは、ng の部分の発音が違う(これは入試でも出るはず)。具体的には、前者 singer では g を発音しない(つまり鼻濁音だけである)のに対し、後者 finger では g を発音する。

その識別はどのようにするのか?

まず大原則として、ng が語末にある場合(king, ring, sing, long など)、その g は発音しない。

問題は語末ではない場合だが、場合分けが必要らしい。

1つ目のタイプとして、finger や hunger の場合。これらは後ろの er を削除することはできないから、g を発音する。上記「大原則」の裏返しであるから分かりやすい。

2つ目のタイプは、singing や singer の場合である。これらでは g は発音しない。つまり、-ing や -er が付いているものの場合は、元になっている sing と同様に考えるのだ、と理解しておこう。

ところがここに3つ目のタイプがある。それは比較級と最上級つまり longer や longest で、これらは g を発音するのだ。

とりあえず、これ以上の単純化はできないようだから、種類ごとに音読してクリアするのがよいだろう。


※ちなみにドイツ語では、Finger や bringen といった語でも g は発音しないようだ。

posted by 物好鬼 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月17日

LとRは難しい? 〜発音の雑学〜

ちょっと思い出したネタ。

日本語の発音で「り」と「でぃ」を比較すると、日本人の耳には違う音として響くと思う。環境が悪ければ聞きわけにくいこともあるだろうが、静かな場所でハッキリと発音されれば、聞き間違えることはないはずだ。

ところがこの両者をアメリカ人に聞かせると、まず識別できない。日本語のラ行の子音は “d” の音に比較的(かなり?)近いものであるにもかかわらず、英語には存在しない(だから彼らには馴染む機会がない)ものだからだ。

たしか浪人時代だったと思うが、これを実際に試してみたことがある。そのときは「りんご」と「でぃんご」だったが、相手のアメリカ人には識別できなかった。何度も繰り返してみたが同じだった。

こんなのに比べれば、英語のLとRなんて大したことはないとわかるだろう。LとRは日本人には区別できないなどと大嘘を言うセンセイもいるが、若いうちに正しく訓練すれば、発音も聞き分けも(音声学的に完全ではないとしても)充分正確にできるようになる。もちろん私も18歳のころにやった。

それより難しい(?)のは、英語の “ni” と日本語の「ニ」の違いである。日本語の「ニ」は「ニャ・ニ・ニュ・ニェ・ニョ」のイ段であって、英語の “ni” とは(母音もだが)子音部分が明確に異なっている。“ni” を無理矢理カタカナで書けば「ヌィ」に近い。これは “si” が「シ」ではなく「スィ」に近いのと同じことだ。

ただ、英語の “ni” と日本語の「ニ」との対応関係は単純(1対1)なので、識別できなくても聴き取りに困ることはない。むしろ、識別できない人の方が、違いに煩わされずにすむとも言える。これは “shi” / “si” と「シ」との対応関係(2対1)とは異なる事情である。

そのせいかどうかはわからないが、日本では “shi” / “si” と「シ」については学校でも教えられるのに、“ni” と「ニ」についてはほとんど無視されている。

とは言うものの、“ni” と「ニ」はネイティブの耳には明らかに違う音として聞こえるのだから、あまり遅くならないうちに訓練しておいた方がよいと思う。

posted by 物好鬼 at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月01日

訛(なま)りすぎないのは思いやりの一つ

ここ最近、発音(音声面)の重要性を強調しているが、別に全ての人が同じ目標を持つべきだと言っているわけではない。それでも、訛りがヒドすぎるのは決して賞められたことではない。なぜか?

これは外国人と日本語で話す場合をイメージしてもらえば分かりやすいと思う。相手の訛りがひどいと聴き取りに苦労するし、それが長時間続くとイライラしてくることもありうる。これは癖字の場合と同じ。話すスピードが速い場合はなおさらだ(訛っている場合はユックリな方が聴き取りやすい)。相手が英語を解する場合は、(自分の英語が多少下手でも)英語に切り替えた方がラクだと感じることすらある。

自分が英米人などと英語で話すときはちょうど逆の立場になる。現実問題として日本語を充分に解する外国人の割合はさほど大きくはないので、英語で話さざるをえないことが多い(英語すら通じないこともママあるが)。そのとき、もし自分の発音が悪すぎたら、相手に不必要な苦労を強いることになるかもしれない。旅行での会話ならそれでもよいだろうが、日常生活の一部を共にするくらい親密な人間関係がある場合には、こんなことで相手を苦労させ続けるのはやはり避けたい。なので、そういう問題が発生しない程度の発音は身に付けておくのが望ましいと私は考えている。

もちろん、同じことを相手(の日本語など)に強制するわけにはいかない。それでなくても方言の問題もあるので、こちらはこちらで幅広い発音に対応できる柔軟性も必要だろう。最近はTOEIC教材などでも米英加豪の発音を聞き比べることが簡単にできるようになったが、とてもよいことだと思う。

なお、私があえて完璧なアメリカ発音を目指しているのは、あくまでも個人的な「こだわり」である。とはいうものの、音読であれ会話であれ、アメリカ人(など)顔負けの発音でできれば、大きな(自己)満足につながるだけでなく、生徒(もしいれば)の目も違ってくるのは間違いないと思う。その意味からは、ある程度の「こだわり」は他の人たちにも勧めたい気持ちはある。英語学習に割ける時間に限りがある以上、さすがに強制まではできないけれども。


画面上部の英文構造図作成ツール『図でわかる英文の構造』(初版)もヨロシク!

posted by 物好鬼 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月23日

‘ar’と‘er’の発音

要するに、'park' の 'ar' と 'certain' の 'er' の発音である。どちらの音にも複数の綴りがあるが、この2つで代表させることにする。

米音の場合、'ar' は母音の後に舌を巻いてR音性を付加する。そしてこの種のRは「R音性母音」などと呼ばれ、母音の一種とされる。つまり、全体としては二重母音になる。(英音ではそのまま伸ばすので長母音になる。)

一方、'er' は最初からR音性を帯びているので、米音でも長母音となる。(英音ではR音性なしの長母音になる。)

さて、仕事帰りに丸善本店(オアゾ)に寄って発音関連の教材を片っ端から漁ってみたところ、'ar' を長母音であるかのように説明しているものと、'er' を二重母音であるかのように説明しているものとが、それぞれ1冊見つかった。それ以外に、説明が大ざっぱすぎて判定不可能なものも1、2冊あった。

それらの中には有名な教材も含まれているが、いずれも一般学習者向けに書かれたものである。表題に「音声学」という語を含む教材については(店内にあった10冊程度に関する限り)全て正確な説明がなされていた。なので、一般学習者向けの教材を選ぶ場合には、そのあたりに少し注意が必要である。

なお、研究社の英和辞典には昔から発音解説の付録があるが、これはシンプルながらとてもよくできていると思う。専用のCDもある↓ので、安くあげたい人にはオススメである。


画面上部の英文構造図作成ツール『図でわかる英文の構造』(初版)もヨロシク!

posted by 物好鬼 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月07日

言語の二重性の学習順序

(予備知識がないと分かりにくいかも知れないが、Facebookに投稿したものを転載する。)

いわゆる言語なるものは、音声言語であれ文字言語であれ、三浦つとむ言うところの「言語表現と非言語表現との統一」(『認識と言語の理論』p.389)である。

さて、実際の表現活動では双方のレベルが問われるのであるが、訓練の段階で両者を同列に扱うのは得策ではない。ある武道家の言を借りるなら、「人間は認識的存在(精神的動物)であるから、しかもその認識は一度に多くの方向へは集中不可能であるから、ある技の創出を目指すばあい、それを使用することと同一の段階においては、見事にはなしえない」(南郷継正『武道への道』(三一新書版)p.174)、というのがその理由である。

「非言語表現」としての側面はいろいろな具体的形態を持ちうる。しかし、それは「言語表現」としての側面を犠牲にしない範囲でのみ許されるものであるという点に注意が必要である。例えば、音声・文字に強い芸術性を与えようとするのはよいが、そのために明らかに間違った(あるいは他の)音声・文字になってしまっては行き過ぎである。

それを防ぐには、「言語表現」としての側面を優先的に学ぶ必要がある。この側面は「超感性的」なものであるが、要するに他の音声・文字と混同されない程度に正確な表現ができるようになることがミニマムである。

それが達成できたら、その学習を継続しつつ、「非言語表現」としての側面を徐々に加味していく。こちらは「感性的」なものであり、具体的には「ヨリ美しい文字・発音を習得する」こととともに「情感を込める」といったことが含まれる。かなり多面的であるだけでなく情緒面の成長も必要とされるので、そんなに簡単ではない。

以上の順序を端的にまとめると、文字言語の場合なら「字を学んでから書に進む」ということであり、同じ論理が音声言語においてもなりたつ。ただし、すべての人が同じものを同じレベルまで要求されるというわけではない(蛇足↓参照)。

<蛇足>
私自身は、文字は(日本語でも)それほどキレイには書けないが、発音は標準的なアメリカ英語のものを目指して訓練を続けている。ただし、さまざまな「英語」の中で私がアメリカ英語を選んだのは、主として好みの問題である。

この取り組みに自己満足という面があることは否定できないものの、キレイな発音ができるようになると音読やシャドーイングが楽しくなるのは事実である。せっかくなので関連する主張を私の愛読書から一つ引用してみる。

「歌のほんとうの美しさは、正しく歌わないとわからないのと同様に、ことばの生きた美しさも、正しい発音なしでは絶対に鑑賞できない。だから、正しい発音を習得するということは、間接的な意味で、語学学習全体にうるおいをもたらすものであるのみならず、ことばのエスプリにふれるには、絶対に不可欠な条件である。」(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』p.237)

画面上部の英文構造図作成ツール『図でわかる英文の構造』(初版)もヨロシク!

posted by 物好鬼 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月22日

読解か会話か?

(「中学では読解よりも会話を優先すべきだ」という意見に対する反論@Facebook)

==========================
中学レベルの英語はすべての基礎ですし、日常会話にも必須のものばかりですから、学んだことはすべて正確に読めて聴けて書けて話せるようにするのが理想です。それをやればある程度の会話はできるようになります。私自身も中学時代からアメリカ人としゃべっていました。

学習順序ですが、4技能間の難度の関係から言えば、読解から入るのが適切だと思います。その後「話す」までできるかは、授業時間との兼ね合いを考える必要があります。

基礎ができていれば、この「話す」練習は自習でも可能です。ただ、授業であれ自習であれ、正確に読めないものを書いたり話したりしようとすると、おそらくはブロークンにしかなりません。それを避けるためにも、読解は必須ですね。
==========================
同じ素材については「読む」が一番簡単なのですから、読めもしないことを話そうとするのは無理があります。なので、個々の素材については、読むところから始めるのでいいんです。むしろ、そこから始めないと、不正確なまま慣れてしまうことになります。それがブロークンの問題です。一旦悪い癖が付くと、後で修正するのは困難です。

しかし、だからといって、読むことばかりが先行すると、「読む」と「話す」のギャップは広がる一方です。実際、TOEIC対策をメインに勉強してきた人の多くは、そうなっていますね。

じゃあどうしたらいいのか、と言えば、読めるようになった素材から順に話せるようにしていけばいいわけです。より具体的には、読めるようになったら聞けるようにし、音を耳に焼き付け、口まねし、音読し、何も見ないで言えるようにし、語句の入れ替えや転換練習を(もちろんソラで)し、更に自由に使えるようにしていきます。

要するに、多くの人が話せないのは、読んで学んだことを話すことに結びつける訓練をしていないからであって、読解が悪いわけではありません。読解は必要条件です。それは決して十分条件ではありませんが、さりとて話すことの阻害要因であるわけではありません。なので、「読解か会話か」と考えるのではなく、「読解から会話へ」であるべきだと私は思います。

ただ、学校の授業だけでは時間の関係もあって、望まれることの全てが行われることは期待できません。となれば、自分でやるしかありませんし、そうすればいいことです。そして、そのための基本的な素材は中学校の教科書に書かれています。

まあ、私のような若輩が言っても説得力がないかも知れませんので、大先輩の言葉を引用します。

「望まれる、片寄りのしない勉強方法−−これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。」(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』p.161)

後は、自分で実践した上で評価することが大切です。
==========================
文法については、
(1)基本的なものから体系立てて学ばせること
(2)知識に終わらせず、身に付けるようにすること
の2点が大切であると思います。
==========================
あと、文法はとても便利で有用なものなのですが、ややもすると様々なルールが天下り的に押しつけられがちであるのも事実です。その意味からは、演繹的学習と帰納的学習のバランスも大切です。
==========================
(転載おわり)


画面右側のブログランキングのボタンと、上部【4】およびこのすぐ下にある[いいね!」ボタンをクリックしていただけると幸いです。
posted by 物好鬼 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月03日

文法初心者の気持ち?

世の中には自力で文法書が読めない人が少なくないらしい。かく言う私はというと、別に細かい事項まで記憶しているわけではないが、少なくとも文法書を読むのに支障はない。それは、知識量の問題もあるが、「それぞれの部分が全体の中のどこに位置づけられるか」が分かっていることによる面が大きいと思う。何事もそうであるが、そのような体系的な知識はできるだけ早い段階で構築することが大切である。

とは言うものの、私が英文法についてそのような学習をしたのは随分昔のことで、「そんな過去があった」という認識はあっても、具体的な感覚のようなものは忘れていた。ところが、最近ドイツ語の学習を再スタートして、「これがそうかな」という経験をした。

ドイツ語学習にあたっては、英語との比較をしながら学ぶのが効果的だろうと考えて、そのような趣旨の入門書を購入した。それで翌日から数日間、毎日1課ずつ進めていったのだが、予想に反して、次第にストレスがたまってきた。

各課のテーマは順に「名詞の性と冠詞」「sein の現在人称変化」「haben と werden の人称変化」「動詞の現在人称変化(1)」…のようになっている。教材によって項目の順序はさまざまだが、いきなり具体的な品詞の具体的な活用・変化の問題に取り組まされるという点については、だいたいどの教材も同じである。

ストレスがたまってきた原因はというと、まさに「それぞれの部分が全体の中のどこに位置づけられるか」が分からないことであった。文法とは本来体系的なものであり、各課の学習はジグソーパズルのピースを埋めていく作業に該当すると私は考えている。しかし、互いの位置関係が分からないままの学習では、なかなか全体像が見えてこない。私のようなタイプの人間には、「全体像が見えない」とか「目前の課題と全体とのつながりが見えない」というのは大きなストレスになるのである(逆に全然気にならない人もいるであろう)。

私に言わせれば、言語の最小単位は「文」である。だから、どんな知識でも「文を構成する」(あるいは逆に「文を解釈する」)という観点で位置づけられない限り、あまり意味がない。では、上に掲げた各課のテーマはどうか? どのテーマも必要不可欠ではあるらしい。しかしその位置づけは??? どこでどんなふうに役立つの??? …というわけで、それが分かれば問題は解消するはずだ、と考えてみた。

そこで大書店に行って文法書をあたった。ドイツ語の文法書はいきなり「名詞」「動詞」から始まるものが大半であるが、最近書かれたものの中に1冊、第1章として「文」に50ページを割いて解説しているものを発見した。(ドイツ語ではしばらく前に正書法の改訂があったので、古い教材は初心者には勧められない。)

帰宅してからその「第1章」を中心にざっと見てみた。結局のところ私に不足していたのは、知識量としては微々たるものであった。しかし、理解という面ではかなり大きな意味を持っていたようで、各課の位置づけができるようになったことで、先のストレスはすっかり解消し、さらに各課の具体的なテーマと向き合えるようになったのである。

冒頭に書いた「自力で(英)文法書が読めない人」の中にも、ドイツ語における私と同様の問題を抱えている人が多いはずである。そういった人たちに対する私からの処方箋は、昨年夏に書いた 「文法書は最初の部分が命」 ということに尽きる。今回の私の試みも、これを踏まえてのことであった。この種の学習はなかなか愉快であり、かつ効果は絶大なものなので、心当たりのある方は(ない方も!)是非チャレンジしていただきたい。
posted by 物好鬼 at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

自然な英語を追い求めすぎるな

教科書に書かれている英語のことをとやかく言う人が少なくない。それは自然ではない、というわけだ。

しかし、「自然な」英語とはいったい何なんだろうか? 立場を置き換えて、「自然な」日本語というものをイメージしてみるとよい。それは教科書に載っているような日本語ではなく、身近で使われている「実際の」日本語ということになるのだろう。今時の女子高生が使っている(中年のオジサンにはときとしてチンプンカンプンな)日本語も「自然な」ものと見なされるかもしれない。変幻自在で確かに「自然」ではあるが、少し扱いづらい感じもする。

さて、仮に自分たちが外国人に日本語を教えるとなったときに、はたしてそんな「自然な」日本語を教えたい(or 教えるべき)と思うだろうか。まあ、置かれた立場によって必要性も異なるであろうが、業務上のやりとりや各種文書の読解などを視野に入れるなら、あまり「自然な」日本語よりは、少し形式張ったタイプの日本語を選ぶのではないだろうか。特にフォーマルな場面での使用を考えた場合、その方がリスクが少ないからだ。例えば、カジュアルな場面でフォーマルな表現を使用しても笑い話ですむが、フォーマルな場面でカジュアルな表現を使用することははるかに深刻である。ときには人間関係を破壊する可能性すらある。

英語の場合も同様である。つまり、基礎段階で使用する学習素材に関しては、そこで使われている英語の「自然さ」について<あまり>神経質になりすぎないほうがよい。むしろ、ある程度までは自然さを犠牲にして、堅実なものを学んだほうがよい。そして基礎学習がだいたい完了した段階で、幅広い応用の一部として多種多様な実例に触れるようにするのである。その意味で、早い段階から会話を重視しすぎる方法には注意が必要である。

なお、学んでいる素材がどんなものかということと、それをどう学ぶかということとは、厳密に区別しなくてはならない。教科書に使われている英語も別にニセモノというわけではなく、英米人に充分通じるものである。しかし、それをどう学ぶかは別の問題で、現在の学校教育で行われているようなやり方では、なかなか使えるようにならないこともまた事実である。それは教科書の内容が偏っているせいではなく、あくまでも学び方の問題である。学び方が悪ければ、どんな「自然な」英語を素材にしても、やはり身に付かないのである。これら2つの問題を混同してはならない。逆に「自然さ」を追い求めすぎることが「自然さ」の習得を邪魔することもあって、それが本エントリの主題である。
posted by 物好鬼 at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

例文学習の3段階

 例文を学ぶときの段階について、私の考えを記しておきたい。今後の学習においてはこの方法で実践する予定である。もちろん改訂もありうる。


第1段階

 たいていの人は例文そのものを学ぶことにイキナリとりかかるものだが、実はその前にやるべきことがある。それは、その例文に<辿り着く>ことである。

 そもそもその例文(あるいは同等の文)を自作する知識と能力がすでにあるのであれば、その例文を学ぶ必要はない。逆に言うと、その例文を学ぼうとする以上は、現在の自分には何かが不足しているということである。ということは、まずは現在の自分自身の居場所を確認し、学習しようとしている例文とのギャップを埋めなくてはならない。要は、学習対象を既得事項と連結する必要があるわけである。

 ここで When I took this office space, it'd been vacant for more than three years. という例文を考えてみよう。この文を自作するためにはどんな知識や能力が必要だろうか。参考になるものとして例文の再措定的学習法を見ていただきたい。このような手順を踏めば、学習対象と既得事項との関係が確認できるはずである。英文の構造については、英文構造図を描くことで正確な理解が得られる。また、語句の記憶が必要な場合には、構造図の該当部分を虫食いにして欄外にそれらの語句を書き出すようにすれば、単語リスト兼用の構造図になる。

 もちろんこれだけではまだ頭でっかちな勉強にすぎない。実際には、すべてがスムーズかつ正確に処理できなくてはならないし、最後にそれなりの音声として出力できなくてはならない。そのためには、全行程を体で覚える必要がある。この点まで含めての「連結」である。


第2段階

 次に来るのは、例文そのものに習熟することである。上の「再措定」を口頭で反復すれば、例文をスラスラと再現できるようになるであろうが、それだけでは足りない場合には、結果としての例文をそのまま覚えてしまうのがよい。「それだけでは足りない場合」としては、次の2つが考えられる。

 (1) 不自然な作文を避けるために模範的な例として覚えておく
 (2) 更なる応用のために結果を丸暗記しておく

 例文に習熟する方法であるが、これは第1段階を踏まえている人の場合は、音読、シャドーイング、リテンション等の反復が有効である。第1段階を踏まえずに記憶した場合は、単なる知識で終わってしまう可能性が高い。

 なお、リテンション等をするときには、第1段階で描いた構造図を思い浮かべながら行うようにすると、更に効果が高くなる。最初は紙を見ながらでもよいが、慣れてきたら何も見ずにイメージできるようにし、最終的には充分なスピードを持たせる。これはちょうど、ソロバンを思い浮かべて暗算するような感じである。(私個人はむしろ記憶術を参考にしている。)


第3段階

 第1段階と第2段階で例文が「一応」習得できたことになるが、それで終わりにするのはもったいない。実際に出会う文(自分で書いたり話したりするものも含めて)は過去に学習した例文と同じとは限らないのであるから、その違いに対応できるだけの能力を付けるよう訓練しておいたほうがよい。これが第3段階である。

 では、どうするか。さまざまな素材に触れるなかで自然に習熟することは可能であるし、そのような方法で成功した人は少なくないが、この段階ではドリルの活用をお勧めしたい。ドリルの概要は既存の例文学習法(3)に紹介してある。さらに、拡大転換練習96型ドリルの全体像を参照されたい。もちろん、もっとバラエティに富んだ変化を試みることも可能である。ここでも構造図が活用できる。


 ここまでくれば、その例文が充分にモノになったと言える。後はそれこそさまざまな素材に触れるなかで習熟度を高めていけばよい。
posted by 物好鬼 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月05日

単語集か多読か?

 これはよく議論されるところではあるが、それぞれに長所・短所があるので、それをよく知った上で使い分けるべきである。一方を偏重するあまり他方を必要以上に見下すのは、あまり賢明な態度とは言えない。

 まず、「多読だけでは十分な数の語彙に出会うのに時間がかかりすぎる」という意見がある。だから独立したボキャビルが必要だ、というわけである。しかし、新語(=未知の語)に出会う頻度がそんなに低いのであれば、その都度辞書を引けば済むのではないか? 通訳の場合は辞書を引くことが難しいであろうが、要は各人の必要性の問題である。むりやり語彙力を増強しようとするくらいなら、そのエネルギーを何かもっと内容的な学習に使った方がよいように私には思える。それ以上に力を入れるのは、(もちろん個人の自由ではあるが)あくまでも趣味の領域である。

 しかし、上の「その都度辞書を引けば済む」という考えに対しては、例えば「辞書を引きながら洋書を読むのは面白くない」といった反論があるであろう。たしかに辞書を引くことで話の腰を折られるのは楽しいことではないから、その頻度は低ければ低いほどよい。しかし、単語集や辞書によるボキャビルというのは、その「面白くない」作業を先に集中してやっているだけでしかないということは指摘しておきたい。はたしてわざわざ覚える必要があるのか分からない、あるいはそもそも一生のうちに出会うことすらあるのかどうかも分からないようなレベルの語句については、本当に学習する必要があるのかどうか再検討すべきであろう。限られた時間を無駄にしすぎないことは大切である。

 また、健全な学習には、内容についての興味や問題意識といったものが重要であることも指摘しておきたい。これは単語集(テーマ別でないもの)や辞書を頭から覚えていく場合に問題となる。各学習者は具体的な個性と環境を持った生身の人間なのであるから、将来の<自分>にとって必要かどうかも分からない語句を、内容的な関連から切り離されたかたちで学び続けるというのは、頭脳の働きに適合した学習方法とは言えないであろう。その意味からは、与えられた素材をそのまま使うのではなく、少しでも自分向けに整理しなおすといった取り組みを忘れるべきではない。

 ところで、最近はコーパスの意義について言及されることが多いが、辞書等における語句の選択がどんなに<正確>だとしても、それはあくまでも<平均>的なものでしかないという点に注意が必要である。それに対して各人は大なり小なり偏った世界に生きているのであるから、基本を超えた段階において平均的な像にこだわりすぎるのはあまり現実的ではない。また、辞書に盛られている情報はあくまでも辞書のために切り出されてきたものであって、もはや具体的な文脈に置かれてはいない。単語集や辞書による集中的なボキャビルは非常に効果的ではあるが、本当の意味での習得には具体的な文脈に置かれたナマの素材を通して学ぶことが不可欠である。どんな優れた辞書・単語集であっても、以上のような限界を認識したうえで活用すべきである。

 なお、何か特定の分野について一通りの語彙を習得したいのであれば、その分野の教科書とか百科事典(Wikipediaも含めて)を利用するのが手っ取り早いのではないかと思う。なぜならば、必要な語彙に、それも具体的な文脈の中で出会うことができるだけでなく、その分野の内容についても理解できるからである。幅広い語彙が必要であれば、体系的に編まれた百科事典が最も役に立つであろう。いずれの場合も、和訳が併記してあれば辞書で確認する手間が省ける。問題意識があるテーマについては、そういった素材を最大限活用したいものである。

 結局のところ、

  @内容・場面、語源、語法などのテーマで整理され、テーマごとに
    ・語彙リスト(反復学習しやすい体裁のもの)
    ・文章(自然な実例となっているもの、音声付きが望ましい)
    の双方が掲載されている教材を準備する。
  Aその教材を強い興味・問題意識を持ちながら学習する。
  B知識のモレや間違いを防ぐために、辞書や頻度順単語集などを併用する。
  C既存の教材を、自分本位の教材に作り替えていく。

というのが最良の選択であろう。上記@を満たす包括的な教材が存在しない以上、BCの比重が大きくなることは否めないが、それは学習者としての主体性を発揮するまたとないチャンスであると考えればよい。
posted by 物好鬼 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月29日

頭と口(言語演算と音声面)

 ここ数日(そしてこの週末まで)は実践本位の日々を過ごしている。その中で感じたことを少々。

 前にも書いたように、語学における「技」とは主に

  ・言語演算(頭の中の働き)
  ・音声面(口の動き)

である。これらの全てを同時に首尾よく行うためには、あらかじめ準備できることはしておかなくてはならないし、だからこそ、普段からの稽古が大事なわけだ。

 さて、ここ数日は英語でやりとりをすることが普段の数倍に増えている。それも、多数の人々が(ときには複数人同時に)話しかけてくるのに対して待ち時間ゼロで応答する機会が多い。取り囲まれて質問攻めに遭っている場面を想像してもらえればよい。

 発言内容としては、知識的には何も新しいものはなく、いつも言っていることばかりでしかない。それでもやはり、スムーズさというものが格段にアップしているのを感じる。記憶を鈍らせる時間がないせいか、「ええっと…」と考えることなく言葉が出てくるという状態を維持できている。
(蛇足だが、外国人の中にはスペイン人もいればドイツ人もいるし、フランス人もチェコ人もいる。そういった人たちに対してはそれぞれの言葉で挨拶することも怠らない。ただし、ちゃんと勉強していないので、会話まではできない。)

 こんな中で一つ気付いた(というか再確認できた)ことがある。それは音声面に関することだ。

 私は高校3年の頃に発音の訓練を開始した。キッカケは忘れてしまったが、妙に熱中したのを覚えている。基準として選んだのはアメリカ英語(標準的と目されるもの)だ。熱心にやったせいか短期間で効果が現れた。実際、浪人時代には身近にいたアメリカ人から「日本人の発音とは思えない」と言われ、駒場で学生をやっていた時には英語の教授から「発音の専門家」という綽名を頂戴したりもした。

 もっとも、発音以外の音声面(イントネーションとかリズムとか)については、その必要性に気付くのが遅れたため、実際に学習したのはもう少し後になってからだったのだが。

 現在の私はというと、少なくとも音読に関しては、ネイティブに近いレベルの正確さに到達しているという自負がある。音声面のレベルを測定する明確な基準はないと思うが、私自身の直感としては、95〜98%くらいの正確さだと思う。もちろんあまり長期間放置しているとさすがにリハビリが必要になるが、しばらく音読していれば調子を取り戻すことができる。
(一口にアメリカ英語といっても地域差もあれば個人差もあるということは承知している。その上での判断である。)

 とはいえ、それは音読時のことであって、実際に話すときにはまだまだ実力が不足しているのも事実だ。というのは、実際に話す際には、音声面以外にも様々なこと(特に内容)に頭を使わなくてはならないからだ。言いたいことがスラスラと思い浮かばないような状態では、音声面での正確さを維持するのもなかなか難しい。一応「英語的」と言えるレベルはかろうじて保てるのだが、「何だかちょっとイギリス英語っぽいなあ」と感じるような音声になってしまうことが時折ある(イギリス英語が悪いという意味ではないので念のため)。

 しかし、この数日間は違う。言葉がスムーズに出てきているときは、音声面についても比較的うまくいくことが多いのだ。その理由は、と考えてみると、まず第一に、それだけ「余裕」が生じているからであろう。つまり、音声面に頭を使う余裕があるから、ということだ。

 その一方で、それだけではないのではないかとも思うようになった。ここ最近の私は、表現を学ぶときにはできるだけ音声と一体化したかたちで学ぶようにしているのだが、どうやらそれが影響しているようなのだ。つまり、表現がスムーズに出てくるときには音声(口の動き)も同時に出てくる、ということだ。やはり、普段から口を動かして学ぶということは、話す能力を高めるのには非常に大切だ。当たり前のことかも知れないが、それを実感できるのは有り難いことだと思う。


 仕事のほうは今日から3連休をとっている。このまま週末まで英語まみれの生活になるが、希有な機会を最大限エンジョイしたいと思う。
posted by 物好鬼 at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

上級向け教材の音声素材について

 『アメ口』の音声素材に関して、「日本人が話す練習のためなら、遅めのスピードでもいいのではないか」といった考えを持っている人がいるようだ。この点について私の考えを書いておきたい。

 まず、日本人は(プロの通訳になるのでもないかぎり)ネイティブのようなスピードで話す必要はない。しかし、そこからただちに「CDの音声もユックリでよい」ということにはならないのではないか。もちろんユックリな素材もあってよいし、それはそれで利用価値はあると思うが、いわゆるナチュラルスピードの素材も絶対に必要だと私は考える。理由は2つある。

 まず第一に、リスニングの必要性だ。これは相手のスピーキング速度によって規定される。

 『アメ口』の目的は専門的ではない会話に不自由しなくなることだと思うが、その場合、仮に自分自身は少しユックリめに話すとしても、相手にそれを強いるわけにはいかない。特に「上級用」となればなおさらで、少なくともTOEICや英検1級とかのリスニング問題に匹敵するくらいのスピードは必要だろう。

 もう一つの理由は、自分自身のスピーキング速度との関係だ。

 仮に同じ文章を素材とした場合、話すのと聴くのとでは話すほうが遙かに難しいはずだ。自分で話すときには、まず内容を考え、適当な語句を選択し、それを適当な順番に並べ、一部の語句については形を変え、更にそれらをそれなりの音声で口にしなくてはならない。一度にいろいろなことをしなくてはならない分、聴く作業に比べると難度が高い。そのため、同じ素材であれば、話すスピードのほうがかなり遅くなってしまう。

 逆に言うと、仮に100語/分くらいのスピードで話せるようになりたかったら、聴くほうは150語/分とかのスピード(具体的な数値は重要ではない)でも理解できるようでなければならない、ということだ。シャドーイングや暗唱についても同様だ。これは実際にやってみれば容易に了解できるはずだ。

 だから、『アメ口』(特に上級用)には充分なスピードの素材が絶対に必要なのだ。実際の速度については私も未確認だが、遅すぎる音声しか入っていないのが事実だとすれば、それは制作サイドの大きな判断ミスだと言ってよいのではないだろうか。
posted by 物好鬼 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

単語か例文か

 『入門1200語』の続き。

 レベルがレベルなので簡単な単語が続く。が、例文は易しくない。

 例えば、“reason”(理由、動機…)の例文は

A need for more data was the reason cited for the Food and Drug Administration's lack of approval.

だ。基本的な構造は、

 ○○ was the reason (cited for ◇◇).

なのだが、○○と◇◇が長めの名詞句になっているので、なかなか難しい。他にも似たような例がたくさんある。

 しかし、このようなものの場合、例文ごと覚えないとほとんど意味がない。少なくともフレーズ単位だろう。単語そのものは知っていて、使い方が問題なのだから。

 どうするのがよいのだろうか。一つの案は、

  ・原則として例文を覚える
  ・語句が難しすぎて例文記憶が難しい場合には、先に語句を覚える

とすることだ。

 そもそも英語の勉強というのは単語の習得だけで済むわけではないのだから、この教材も複数の角度から攻略するのがいいのだろう。逆に、ボキャビルを目的としない教材から語句を拾ってきて覚えることも、大なり小なりやらなくてはならない。どうやら、多面的な勉強のための一つのキッカケと考えるのが賢明なようだ。
posted by 物好鬼 at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

短文集と長文の使い方

 語学力を身に付けるために長文の暗記に励んだ人は数多い。シュリーマンなどはその代表格であろう。

 しかし、だ。長文を憶えることには一つの不安があるのも事実だろう。つまり、その長文のままならスラスラと吐き出すことができても、ちょっとでも違うと使えないのではないか、ということだ。

 いろいろな本を読んでみた感想としては、どうも同じ素材を同じだけ憶えても、それがその人の語学力(特に話す力)に与える影響には、かなり個人差があるようなのだ。実際、上に「不安」として書いたようなことを理由として、長文の暗記を無駄だと考える人も少なくはない。
 そこで短文(文章ではなくて個別の文ということ)を中心に学ぶ人が出てくるわけだ。しかし実は、長文の場合と似たような問題は、短文の内部についても存在している。

 それで応用力を高めるためにドリル中心に訓練する流派が登場する。ここまでで、3つの流派が登場したことになる。つまり、

  (1)長文をまるごと憶えることを重視する流派
  (2)短文をたくさん憶えることを重視する流派
  (3)短文を使った文法ドリルを重視する流派

だ(充分に整理された分類とは言えないことは承知している)。

 いろいろな人の記録を見ると、いずれの方法に関しても、高い成果を上げた人が少なからず存在する。

 まず(1)については、シュリーマンを初めとした面々。國弘正雄氏もここに入るだろうか。彼らは長文中心に学んだにもかかわらず、高い運用力を身に付けている点が見逃せない。

 次に(2)については、種田輝豊氏とか市橋敬三氏とかがそうだ。もちろん長文も読んでいるが、暗記の対象としてはメインにしてはいないと思う。

 そして(3)については、長崎玄弥氏がその代表格だ。ただ、最小限の素材の模倣と暗記を充分にやらないでドリルに進んだ場合、プロソディ等の面で若干不利になる点は否定できない(実際、長崎氏の発音もイマイチだった)。
 結局のところ、長文・短文・ドリルはいずれも必要なのであり、あとはウエイトの置き方の違い(それも多くは見かけ上のもの)によって流派の違いが生まれるのだと考えてよいであろう。

 では、それぞれの流派では、どのようにして不十分な点を補ったのであろうか。

 まず(1)であるが、暗記した素材を運用力に結びつけている最大の要因は、どうやら「実際に使う機会を多く持つこと」であるらしい。実は、一見同じように長文を暗唱(あるいは音読やシャドーイングでも同じ)していても、頭の中で起こっていることは一人ひとり違っているのだ。特に、実際に使う機会がある人とない人とでは、運用力に関わる部分に大きな違いが生じるのだろう。ここらへんについては『國弘流英語の話しかた』第三部第五章に詳しい。

 次に(2)だが、短文を文法項目別に集めてやれば、文法的なことに対する具体的な認識を持つことになるので、文法ドリルをとりたててやらなくても何とかなるのであろう。実際、種田氏も市橋氏もそのようにしている。もちろん、単なる暗唱ではなく、言語規範に則った演算の過程を大切にすることは必須だ。なお、彼らも長文は読んでいる。

 そして(3)だが、当然にして長文も短文もたくさん読んでいる。ただ、模倣や暗唱に力を入れない限りプロソディについてやや不利であることは既述のとおり。

 では自分はどうするか。

 自分が最終的に話せるようになりたいのは長文だ。それは内容的にまとまりがあると同時に、各種の文法項目を含むものだ。もちろん丸暗記した文章そのままではなく、その場の状況に応じて適切な内容(語句の選択や論理面も含めて)と形式(プロソディと文法面を含めて)で表出するものでなくてはならない。

 しかし、長文を話せるためにはそれを構成する一つひとつの文を話せる必要があるから、その意味で短文レベルでの攻略は不可欠だ。ただしこれも単なる丸暗記だけではダメだろう。長文の場合における「その場の状況に応じて適切な内容と形式で表出する」という点は個々の文についても成り立つ話だからだ。つまりはチャンク作成力の問題である。
 そこで考えられるのが、それぞれについて暗記と応用訓練とを組み合わせることだ。その際の軸としては内容面と文法面の2つがあり、全体としては両方とも不可欠だと考えられる。つまり、

  内容場面別短文集の暗記→語句の置換(=自前の短文づくり)→自前の長文へ
  文法項目別短文集の暗記→文法ドリル(=自前の短文づくり)→自前の長文へ
  ※他人の手になる長文をしっかり味わうことが、自前の長文を作る際に役立つ

である。この2つ(+1つ)の柱をバランスよく攻略するのが、英語運用力を高めるのに最も役に立つのではないだろうか。

 さて、文法は文法でちゃんと体系的に勉強していさえすれば、文法項目別にドリルをする必要はないのかもしれない。要は体系的な把握と個々の部分の訓練の双方が行き届いていればよいわけだから、実際の練習の形式的な順序が絶対的な意味を有するわけではない。同じことは語句(ボキャビル)についても言える。

 そうなると、そのあたりさえクリアできるだけの柔軟性がある人にとっては、長文暗唱中心の学習が最もやりやすい方法である可能性もある。特に長文を利用した学習の場合、たくさんの情報をソラで処理する能力が鍛えられるというメリットもあるからなおさらである。(追記−同じ能力は短文を使ったドリルでもそれなりに鍛えることができる)

 なお、どの方法をとるにしても正確さは必須だし、スムーズな処理が可能になるまで何度も何度も徹底的に反復練習しなくてはダメだろう。そうしないとアタマの改造につながらないからだ。逆にここをクリアできれば、道が開けてくるのではないだろうか。

 ここまで書いてきて思うのは、具体的方法の選択には個人差が大きいのではないかということだ。ひょっとすると、「学習法についてグダグダ考えているヒマがあったら、何でもいいから必死こいて勉強しろ! それで不足している部分があることに気付いたら、それも自分で工夫して克服しろ!」というのが最良のアドバイスなのかもしれない。それでも適切な理論があれば、工夫のしかたに指針を与えることができるというメリットはあると思うのだが。
posted by 物好鬼 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習素材間の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。