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2017年01月15日

音声表象操作について私見を少々

私は91年はじめに提出した卒論で「なおここで『外国語で考える』とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である」と記したのだが、以下はそれを敷衍したものでもある。拙い私見ではあるが、少しでも参考になれば幸いに思う。

我々はものを考えるとき、単語の音声表象を(原則的には文法に則った形で)頭の中に並べることによって概念の運用をすることが多い。そしてこの音声表象操作は、聞いたり話したりするときはもちろん、文章を書いたり読んだりするときにも使われている。その必要性は、複雑高度な素材で特に高くなろう。

このことは外国語の場合にも当てはまる。だからもしその言語を話す機会がゼロに近いとしても、それを理由に「その言語の音声表象操作能力は不要だ」とは言えないことになる。むしろこれを訓練しておかないと、暗号解読的な処理から抜け切れず、処理の正確さやスピードが改善しにくくなる可能性が高い。

音声表象操作について私は三浦つとむの理論を基礎にしているが、さらに種田輝豊が『20ヵ国語ペラペラ』で力説した「望まれる、片寄りのしない勉強方法──これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである」という考えからも大きな影響を受けている。

ところで、この音声表象操作はいわゆる「話す」と同じなのか? 答えは否であって、それには2面がある。まず、音声表象操作には音声化(広い意味での発音)の能力はほとんど要求されないという点が指摘できる。つまり、実際に話す際には、音声表象操作能力以外に音声化能力も要求されるということだ。

ならば、「話す=音声表象操作+音声化」なのか? これは「話す訓練をすれば足りるのか?」とも言い換えられるが、それは初級段階ではそのとおりであっても、その後は徐々に状況が変わる。なぜならば、音声表象操作というものは、複雑高度な文章を書いたり読んだりする際にも大いに活用されるからだ。

つまり、音声表象操作の対象となるものは「話す」文体のものに限られないのであり、かつて入試の長文問題に好んで使われたような硬い文体の英文を「語り」練習の素材として利用することも可能である。もちろん実用に供する際にはスピーチレベルに注意すべきだが、それは日本語についても言えることだ。

また、我々は母語を持った学習者だから、訳したり文法的に分析することで母語との緻密な対比を行うことは有用だ。それは「英文を直接理解する代わりに日本語に訳してそれを理解することですませる」といった意味ではなく、直接の処理を可能とするための補助として使用することが優先されるべきだろう。

さらに、学校では英語は国語や数学などと並んで主教科の一つとされているのだから、実用性という面だけでなく、知的関心などの面も重要と考えられる。英語が言語である以上、文法は当然として、発音や語源などについても充分に学ばせたい。ただし、他教科とのバランスや総量などは考慮する必要がある。

念のためだが、私はすべての思考に音声表象が必須だとまでは言っていない。三浦も「人間の思惟は必ずしも言語からみちびかれた感性的な手がかりによって行われるわけではない。画家はいわば絵画的に思惟するものである」と第二部p.425で記しており、ゆえに私も最初に「ことが多い」と書いている。

英検受験者としての蛇足)英作文においてはテーマに関する知識の有無が出来をかなり左右する。これは「実用」的ではあるが、英語力の測定という点からは大きなノイズだろう。改善策としては、「2次試験のように選択制にする」「論述に必要な背景情報を別途提示する」といった方法が考えられると思う。

(すべて140字)

※この程度の文章を書くにも3時間以上かかるのが私の現状。
※上記「第二部」とは三浦つとむ『認識と言語の理論』の第二部。その
  「第二章 言語表現の二重性」の「五 概念の要求する矛盾」や
  「第三章 言語表現の過程的構造(その一)」の「四 『内語』説と第二信号系理論」
 などを参照されたい。
※種田からの引用は改訂版(昭和48年)p.161より。

posted by 物好鬼 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

戯れ言 〜LR対策はスイーツに似て〜

ある団体が町中で健康そうな人ばかり1000人にアンケートをとった。「健康そうな」だから、このブログの主みたいなタイプはほとんどが無視された。

アンケートの内容というのは、その人たちの身長と体重。その団体の担当者は、集めた数値全部を1枚のグラフ用紙にプロットした。すると、身長と体重の間にそれなりの相関関係があることが見えてきた。

そこでこの団体は、「身長がわかればおよその体重がわかりますし、体重がわかればおよその身長がわかります」という能書きとともに、このグラフを公表した。

さて、ここに小柄な男がいる。仮にA君と呼ぶことにする。かねてから背が高くなりたいと思っていたA君は、このグラフを見ながら考えた。

「今のオレは160cmで55kg。だいたい線上に乗っているな。で、このグラフによると、180cmの人は75kgくらいなのか。っつーことは、20kg増やせばいいんだな!」

それからのA君は連日連夜大量のスイーツを食べた。体重は3日に1kgのペースで増えていった。あまりに順調すぎて、体重計に乗るのがこの上なく楽しかった。

そして2ヵ月が経過。体重は20kg増えた。A君は自身に向かって力強く語りかけた。

「よ〜し、よくやったぞ! これで目標の体重だ。じゃあ、身長を測ってみようか」

(測る)

「あれれ、変わってないゾー! あのグラフは嘘なのか? 許せん!」



閑話休題。

TOEIC 公式サイトの「よくある質問 TOEICテストについて」というページには
…TOEICテストの開発にあたったETSでは、TOEICテスト実施にあたって予めListeningとSpeaking、ReadingとWritingとの相関関係について検証し、それぞれが非常に高い相関関係を示すことから、ListeningとReadingのみの試験からSpeakingとWriting能力を含めた英語能力が測定できることを統計的に証明しています。そのため、TOEICテストはListeningとReadingのみで構成されています。
と(今でも)書かれているのだが、そのすぐ後には
しかしながら、英語の利用が職場や日常生活の場でますます拡大していること、それに伴いSpeakingとWritingという能力を直接的に測定したいという要望に応じて、TOEIC(R)スピーキングテスト/ライティングテストがスタートしました。
と書き加えられている。

先のたとえ話から考えると、LRプロパーな対策をする受験生が増えたことが原因でSWとの間の相関が弱くなってしまったのだろうと想像できる。(あくまでも想像だが…。)

さて、ここで種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』(初版1969、改訂版1973)を開いてみる。改訂版のp.161には次のような金言が書かれている。
 望まれる、片寄りのしない勉強方法──これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。
 ヒヤリングには、世間でさわがれているほど力を入れる必要はない。
現在は当時よりも音声機器が発達している関係で「聴解力」が「読解力」に準ずる地位に来ているものの、基本的な考え方はまったく変わらないと言える。何という先見の明だろうか! 以上を端的にまとめるならば(最終的には各人の目標次第だが)、

  スイーツの食べすぎには要注意!

ということになる(違)。

posted by 物好鬼 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月07日

英語の必要性は人それぞれ

今日は「日本人の「英語コンプレックス」、英語は本当に必要なのか―中国メディア」という記事。

記事の終わりにピーターセン氏の発言として
日本人みんなが英語を学ぶ必要はない。日本では国際化、グローバル化という言葉がとても流行している。しかし、英語に精通しているグローバル人材になる必要のある日本人は全人口の1割もいないのではないかと、私は思う。
と書かれている。私は後半部分には賛成だが、前半部分には賛成しがたいというか、大雑把すぎると感じる。というのは、英語は(他の科目もそうだが)「学ぶか学ばないか」という二者択一ではなく、「どういう立場ならどこからどこまで学ぶべきか」と考える必要があると思うからだ。

私としては、英検3級がとれる程度の学習は中学生全員に課したいが、そこから先は個人の進路によって違ってきて当然のものと考える。つまり、高校以降での英語は一部を選択制にするということになる。これは数学などの現状に近いものだ。

ただし、次の3点に注意を促したい。

第1に、高いレベルを求める人に対して相応の指導ができる体制が確立される必要があること。これ(と言ってもあまり高くないレベルを含む)が不足している学校が多いことが、現時点における最大の問題のように思われる。
(とは言うものの、他の科目とのバランスを考えると、高校の授業で対応できるレベルは、卒業までに英検準1級をとらせるくらいが上限だろうとも思う。それ以上は個人の趣味や部活としてやるべきところだ。)

第2に、中等教育では選択の主体が未成年であるから、「やりたくないから」「好きじゃないから」といった安直な理由で履修を避けるといったことのないように指導する必要があること。
(履修すべきかどうかの判断は簡単ではないが、大学に行こうとするなら英検2級程度の実力がボトムラインで、それ以上は専攻しようとする分野や卒業後の目標などによって違ってこよう。もちろんこれは英語に限ったことではない。)

第3に、選択部分を履修しない場合であっても、履修する部分については知識の正確さを軽視しないこと。これは後々の心変わりに備えるため。
(最初は「海外旅行したときに買い物ができればよい」くらいに考えていても、途中で考えが変わることがありうる。これは語学に限らないが、不正確に覚えた内容というのは基礎的な部分であればあるほど修正しづらいもの。そういった事態を避けるには、最初は知識の量よりも正確さに重点を置いて学ぶことが大事だ。)

なお、ここまでに私が書いたのは主に学校教育という場を想定したものだ(※)。そこでは全体としての授業時間に制限があるだけでなく、他教科とのバランスも考えなくてはならない。しかしその一方で、限られた授業時間を利用して生徒たちを熱心な自習へと駆り立てること自体は否定されないし、英語などの語学に関連するクラブ活動をもっと奨励することも考えられる。
※私は現在の学校現場を知らないので、的外れなことを言っていたらゴメンナサイ(汗)。

posted by 物好鬼 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月28日

内言と速読について少々

「本を読むときに頭の中で『声』が聞こえる人と聞こえない人がいることが判明」という記事。しかし、四半世紀前の卒論執筆時に「こんなことは当然だ」と思っていた人間としては、このタイトルには強い「今更」感がある。最近の学説は知らないけれど。 http://gigazine.net/news/20160225-read-voice-in-head/
(140字)
https://twitter.com/George_Ohashi/status/703027084759666689
 
以下、付けたり。

記事中にある「読書中の内なる声」というのは言語学的には「内的言語」とか「内言」などと呼ばれていて、その正体は音声言語の表象的認識だと私は考える(このあたりは三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』による部分が大きい)。

声を出さない読書の際にこの「内なる声」が聞こえるかどうかには個人差があり、「内なる声」に頼らないと読めない場合は読速度に低い限界が生じてしまうのに対し、「内なる声」に頼らずに(視覚的な文字表象から直接意味を認識して)読める場合はその限界を破ることができる。この経験的事実は、速読の世界では昔からよく知られていた。

そんなこともあって(だと思うが)、そのころから「二重経路モデル」などと呼ばれる学説がいくつか発表されているし、同じようなことを私も卒論(90年に執筆)の中で当然のこととして述べている。
参考記事

記事タイトルに今更感があるのはそういう理由なのだが、その一方で、声色に関する部分は興味深いと思う。

蛇足だが、私が卒論を書いていたころに有名だった「ジョイント速読法」では、「内なる声」に頼る読み方のことを「黙読」、頼らない読み方のことを「視読」とそれぞれ呼んでいた。便利な呼び分け方だったので、私も卒論の中で使用した。

posted by 物好鬼 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

文法規則は結構イイカゲン

今日は日本語の話。

まずは以下の4つの文を見てほしい。

 @彼 は 学生 でしょう。
 A彼 は 知的 でしょう。
 B彼 は 若い でしょう。
 C彼 は 働く でしょう。

いろいろな種類の述部について「〜でしょう」というパターンが成立している。このくらい綺麗に揃っているとわかりやすいし気持ちよい(笑)。
 
では、「でしょう」を「です」に置き換えるとどうなるか。

 @彼 は 学生 です。
 A彼 は 知的 です。
 B彼 は 若い です。
 C彼 は 働く です。  ??

現状の(標準的な)日本語では動詞の後に「です」は付けないから、Cが脱落することになる。ただし、上の「でしょう」のケースから考えるなら、ここにも「です」に相当する認識はある(のに表現はされないことになっている)のだろうという推測が成り立つ。
 
次に、「です」を「だ」に置き換えてみる。

 @彼 は 学生 だ。
 A彼 は 知的 だ。
 B彼 は 若い だ。  ??
 C彼 は 働く だ。  ??

現状の(標準的な)日本語では形容詞や動詞の後に「だ」は付けないから、BとCが脱落することになる。これは「である」についても同じことが言える。ただし、(以下ほぼ同文)。
 
この「認識はあるのに表現はされない」という点は、日本語学習者のミスを考える際に役立つ。私もたくさんの外国人と日本語で話したことがあるが、「彼は若いだと思います」というタイプのミスはいろいろな国籍の人がしていたと記憶している。もっとも、この部分については日本語のルールの方が捻(ひね)くれているのだから、学習者が苦労するのも無理はない。

論理的な理由がわからないせいで、ミス(とされる言い方)に聞き馴染んでしまうと違和感がなくなってくるという問題もある。実際、日本語を母語として育った私ですら、「彼は若いだと思います」型の文に対して抱くべき「何かおかしい!」という感覚が鈍ってしまった経験があるのだ。そんなこともあって、母語であっても文法の勉強は欠かせないと思っている。まして外国語の場合は、だ。
 
こういう「一貫性のなさ」は解消された方が学習者の負担は減るだろう。と同時に、現状に馴染んでいる者(特に母語話者)にとっては不満のタネになりうる。つい先日もフランス語の綴り見直しに関するニュースがあった(日本語でも戦後はいろいろあったらしい)が、合理性だけでは決められない問題と言えるだろう。
 
なお、同様の「一貫性のなさ」は英語にも少なからずある。それも be や do の周辺にいろいろ存在しているから、初心者が躓く原因にもなっている。そのあたりの話は別の機会に…。

posted by 物好鬼 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

サピア=ウォーフ仮説と臨界期について少々

昨日の朝、たまたま「赤ちゃん、似た色を認識 中央大など『言語取得後』の仮説覆す」というニュース記事を見つけた。興味ある内容だったので、思ったことを書き添えて Facebook に投稿した。それはよくあることなのだが、今回は夕方になって当該論文のラストオーサーさんから直々にコメントをいただいた。そして、普段とは違ったノリのやりとりとなった。

幸いこのブログに転載することについて許諾が得られたので、以下にそのやりとりをほぼ原文のまま紹介したいと思う。

大橋 穣二 結果自体に異論はないし、むしろ私は「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」なるものに否定的な立場の人間だ。ただ、この記事を読む限り、「生後5〜7カ月の乳児12人」が「言語や文化の習得」をしていないと言えるのかという点についての検証が欠けていると思う。彼らはたしかに話すことはできないが、その事実だけでは概念の有無までは云々しがたいからだ。
上記記事へのリンク

(上は私の投稿、以下はそれに対するコメントたち)

○○ ○○ つまりこれ、サピア=ウォーフ仮説を否定するってことですか?
栗木 一郎 なるほど、鋭いご指摘ありがとうございます(突然すみません。当該論文のラストオーサーの栗木です。北岡さんのシェアから辿ってきました)。言語や文化の取得の有無を直接乳幼児で確かめるのは難しいです。ただ、言語関係の脳活動を調べた研究では、「音韻」のカテゴリーは6ヶ月前後に確立しているものの、「言語」に関する脳活動は 13-14 ヶ月まで見られなかったという研究もあります(Minagawa-Kawai et al., 2007)。もちろん確立される前の下地が無いとは言えませんし、さらなる evidence を積み重ねる必要はあると思います。ただ、感覚的な神経信号のカテゴリーは言語とは別に発達が始まっている可能性を示せたのでは、と思っています。
大橋 穣二 はじめまして。コメントいただきありがとうございます。当該論文のラストオーサーさんから直々にコメント投下があるとは予想しておらず、思い切り冷や汗をかいております。(というのは冗談ですが、こういう場合の冷や汗って何歳くらいからかくもんなんでしょう?)

私の場合、心理学でも認知科学でも脳科学でもなく、在野の学者だった三浦つとむ(および南郷継正系統)の認識論を主要な基盤にして考えていますので、ものの見方・考え方には(良くも悪くも)違いがあるだろうと思っています。そのあたりは是非にご容赦を。

この種の実験について私は経験がなく、具体的な知識も持ち合わせてはいないのですが、冒頭にも書きましたように、結論部分については特に抵抗なく受け取ることができます。

蛇足ながら、せっかくの機会なので質問してみたいことが一つ。というのは、記事にある(私も上で取り上げた)「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」という部分です。私の直感では「大昔に大きな反響を呼んだことがある(が今はそれほど単純には支持されていない)説」あたりが真実に近いのではないかと想像するのですが、実際のところはどうなんでしょう? Twitter でも私と同じような感想を書いている人が何人かいたのですが。

それはそうと、今後ともお手柔らかにお願いいたします。m(_ _)m
栗木 一郎 貴重なご意見ありがとうございます。私自身の専門は計測工学で心理学の専門教育は受けていないのですが、実験心理学の分野で主に活動しており、関連学会で 20 年以上見聞きしてきた経験に基づくコメントになりますがご容赦下さい。

我々が研究対象とした色カテゴリー(カテゴリカル色知覚)については、言語の影響が強い、という報告と、言語・文化に依存しない基本構造がある、という報告とが未だにせめぎ合っています。例えば、ロシア語には明るい青と暗い青を明確に区別する言葉があります。日本語でも水色と紺などありますが、青というカテゴリーに含めても(ロシア語話者の2色に比べて)抵抗が少ない、という言語依存の例はあります。一方で、大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能という、言語に非依存な側面もあります。従って、Sapir-Wharf 仮説はまだ完全に否定されたわけでもなく、むしろ強く支持するグループもいるようです。

今回の報告は、そこに一石を投じたに過ぎず、まだまだ証拠を積み上げていく必要があると考えています。わかりにくい話で恐縮です。こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
大橋 穣二 さらなるコメントありがとうございます。非常に興味深いです。

色というのは(その他のものも大半は同様でしょうけれど)人間から見れば目盛りもハッキリしないさまざまな値をとるもので、そのうちのどのあたりで区切るかは多分に偶然的(恣意的?)なものなんだろうと思います。ただ、「大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能」というところからすると、少なくとも3原色については錐体細胞の働きが何らかの影響を及ぼしているのかなあ、と素人の私は思ったりしますが。

さて、人間はさまざまな具体的事物を見ながら自らの頭の中に抽象的な像(認識)を形成していくわけですが、現実の個々人は否が応にも何某かの個別具体的な文化的環境の中で生活しています。そして人間にとって極めて特徴的とも言える言語活動には、言語規範の媒介が必要とされます。

ところが、個々の語彙に紐づけられるべきとされる像にはその文化特有の枠付けがなされているわけですから、その文化の中で生活している個人はどうしてもその縛りに適合したかたちでの抽象化・一般化を要求されます。そうしないと言語の使用に支障が出るからです。

ついでに述べるならば、似たような問題は表現形式の側にもあります。つまり、文字や音声、語句、文構造なども、目や耳から入ってきたままの個別具体的な形式のままでは不充分で、若干抽象化した「種類」としての把握が求められます。このプロセスはあまり自覚されないかもしれませんが、癖の強い字を読んだり訛りの強い言葉を聞いたりするときには、大人でもこのプロセスの必要性を痛感することができます。

そしてこれらのプロセスは、成長するにつれて自動化・高速化が進み、自覚されることもほとんどなくなります。そうでないと母語としてのスムーズな言語活動はできないでしょう。

そういった諸々がありますので、言語や文化が色の捉え方に影響を与えることは多々あるだろうと私は考えています(小さな差異の無視については特にそうです)。ゆえに、Sapir-Wharf の仮説が全面的に否定されることはないだろうな、というのが私の現時点での考えです。と同時に、色(など)の捉え方を決定してしまうほどの力もないだろうと思います。

そういえば、人間は成長するにつれて外国語の音を識別する能力が衰えるとよく言われますが、これも「音の種類としての把握」が母語の規範に要請されるかたちで行われる(それもどんどん自動化していく)ことと関係しているのかな、と最近になって考えるようになりました。

言い換えると、いわゆる「臨界期」の問題というのは、ひょっとすると外国語の習得能力自体が衰えてしまうからではなくて、上記のような自動化が邪魔をしてしまうことによって発生する現象(スキーマ依存エラーのようなもの?)にすぎないのではないか、という考え方です。もちろん同様のことは音以外についても考えられます。素人の邪推ですが。

少し前から小学生に対する英語教育が始まっていますが、上に述べたような影響が強いと思われる音声面については、他の部分よりもやや力を入れて教える(たとえば英語的な(あるいはもう少し広く非日本語的な)音声への露出を継続する)ことが大切なんじゃないか、という仮説も成り立つように思います。

以上、長々と書いてしまいましたが、すべて素人の戯れ言ですのでコメントは不要です。また何かありましたらよろしくお願いいたします。
栗木 一郎 「自動化」とおっしゃる話はよく解ります。私は外国語の聞き取りが(比較的)得意なのですが、逆に日本語の聞き取りが(比較的)不得手で、日本語の聞き取りの「自動化」が未熟なせいだろうと思っています。

感覚情報は、言葉に紐付けされる前の表現形式があると思いますが、日常的なコミュニケーションの必要性から、若干むりやり言葉に結びつけている(むすびつけざるを得ない)部分もあります。その「無理矢理」圧力が感覚の脳の中での信号に影響を与える事はあり得るという感じかと思います。

我々の研究に興味を持って頂き、ありがとうございました。おっしゃる通りのご指摘だったので、失礼とは思いましたが直接お答えをしたかったし、直接ご意見を伺えてとても有意義でした。

今後ともよろしくお願い致します。
大橋 穣二 お疲れ様でした。ニュースになったばかりでさまざまな対応に時間をとられているところではないかと思います。研究の方、今後も頑張ってください。

(終わったはずなのに追記する私。)

大橋 穣二 中央大学のプレスリリースでは「これは、サピア=ウォーフ仮説を覆す驚くべき成果です」と書かれてますね。
プレスリリースへのリンク
栗木 一郎 プレスリリースですが、「痛烈な一撃を見舞った」という表現では記事にして頂きにくいので「覆す」という白黒のはっきりした表現になったと理解しています。もうじき英語版も出ますが、そちらは少しトーンが抑えてあります。

やりとりの本体はここまで(あとは転載に関する話などが少々)。私としてもこういう内容での長文コメントは久しぶりのことであり、記録にとどめておきたいということもあってブログに載せることにした。もちろん読者に対する何らかの刺激になればさらに嬉しいところなのだが、はたして…。

参考:サピア=ウォーフの仮説

posted by 物好鬼 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

特別疑問文の作り方について

※さきほど連続でツイートしたもの。

特別疑問文の作り方だが、安藤『現代英文法講義』では「主語・助動詞倒置→wh移動」という順序になっている。しかし、話し手は語順どおりに考えるのだと仮定するなら、「まず疑問詞を言い、その後に〈その疑問詞に対応する部分を欠いた一般疑問文〉を続ける」という手順の方が合理的ではあるまいか。

一方、whの移動先について生成文法は「指定部」であるとし、助動詞の移動先とは違うと考えている。そうすることのメリットは、主語を問う場合を主語以外を問う場合とほぼ同様に扱うことができることだ。とは言うものの、あくまでも「ほぼ同様」であって、doの扱い方まで同じにすることはできない。

さて、whの移動先が助動詞のそれと違うと考えることが合理的なのであれば、意味順においてもそれぞれのために箱を用意した方がよいということになるのだろうか。箱の数を増やすことは複雑化を意味するという面もあるが、これはどこかで妥協する必要があるのかもしれない。私の仕事ではないが(笑)。

話は少しそれるのだが、意味順の箱は部屋のようなもので、語句たちはあらかじめ用意された部屋に住んだり、別の部屋に引っ越したりする。だから理論を考える際には、「どのような部屋をどこに・いくつ用意しておくべきか」を検討することが不可欠のはずだ。同じことは生成文法に関しても言えると思う。

ちなみに英文構造図の場合は、語句たちを(ときに入れ子の)枠で囲み、その「枠囲みされた語句たち」自身が移動するというズルい方法をとっているので、部屋の数には(表向きは)悩まされずにすむ。ただし、同時に何らかのデメリットが生じている可能性も否定できないから、優劣を決するつもりはない。

以上、思い付いたことをツラツラと書いてきた。英語学や言語学についての専門的勉強が不足していることは自覚しているが、こういった思索を積み重ねることで自分の考えを整理し、拙著改訂の糧にしたい。思索のための刺激が得られる点でSNSも有用だと再確認できたことも、今日の収穫の一つだと思う。

(すべて140字)

posted by 物好鬼 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

思考と言語

私がパソコンを使い始めたのは1987年の春休みのことだが、その直後から BASIC によるプログラミングを開始した。これはパソコンを得意としていた同級生の影響によるものだ。ちなみに同じ理由で練習を開始したタイピングは1ヵ月ほどでマスターした。

さて、勉強を始めたのはいいものの、当時はパソコンそのものについても初心者だったから、「プログラムを書けばどんなことができるのか」ということもよくわからない状態だった。そのため、学ぶことの一つひとつが新鮮で面白かった。学んだことというのは、例えば
  ・変数や定数の考え方、使い方
  ・if による場合分け
  ・for によるループ(さらに多重ループ)
  ・サブルーチン呼び出し(さらに再帰呼び出し)
  ・文字列の扱い方
  ・図形描画の仕方
といったものだ。私はこれらの一つひとつを具体的なテーマ(つまりはパソコン画面上に表示したいもの)に当たりながら使ってみることで確実に学んでいった。達成感の助けもあり、比較的短期間のうちに BASIC の大半を習得し、駒場のパソコン仲間からは「BASIC を究めた男」という名誉ある渾名を頂戴したりもした。

さて、それから2年くらいして今度はC言語を学びはじめた。
定石どおり、まずは入門書を読んだ。C言語も BASIC と同様「手続き型言語」と呼ばれるものだから、基本的な考え方の多くは共通している。おかげでC言語の入門書に書かれている内容を理解するのにほとんど支障はなかった。ポインタや構造体のように BASIC には存在しない概念もいくつか出てきたが、数学的な思考が比較的得意な私にとっては特に問題とはならなかった。

そのおかげでC言語の習得は非常にスムーズに進んだ……と言いたいところだが、ところがどっこい(←死語?)これが全然そうではなかった。なぜか?

上にも書いたように、私がBASIC を学んだときには、「プログラムを書けばどんなことができるのか」もよくわからない段階からスタートした。しかし、Cではその部分はあまり問題にならなかったがゆえに、「実際にC言語で表現する能力」とのギャップが大きくなったのだ。

C言語で書かれたサンプルプログラムを理解することはできた。しかし、同じようなものを自力で書くためには、理解できているだけでは足りず、具体的に何をどう書くのか(←ここ大事)を覚えておかなくてはいけない(それもある程度スムーズに出てこなくてはやる気がそがれる)。

つまり、理解力と表現力との間に大きなギャップがあったことが障害になったわけだ。これは当時の私にとって予想以上に大きな問題だったらしく、結局C言語はマスターしないまま放置することになった。(C言語でなければ書けないような具体的な課題を持っていなかったということも大きな要因であろうと今になって思う。)

この「理解力と表現力との間」のギャップの問題、何かに似てないだろうか。そう、母語と外国語の関係にそっくりなのだ。私が BASIC で経験したことは通常の日本人が日本語を学ぶ過程で経験することであり、私がC言語で経験したことは多くの日本人が英語学習で経験することだ。

そんなこともあって私は教育学部の卒論(91年1月に提出)の1項目として「母語の習得と思考力の発展」という文章を認(したた)めておいた。

そういった経験が生きたのか、卒論後10年くらいたって JavaScript を学んだ際にはこの問題はうまくクリアすることができた。おかげで、JavaScript は趣味と仕事の双方で大きく役立ってくれている(英文構造図もその一つ)。しかし、立ち戻る機会がないC言語については、いまだに習得できないままになっている。さて、どうしたものか。

「立ち戻る機会がない」というのはつまり「C言語を使って実現したい具体的なテーマを見つけていない」と言い換えてもよいかもしれない。こういう「実現したい!」と思えるテーマに出会えるかどうかはプログラミング言語の習得にはとても大切で、JavaScript の学習ではこのあたりをうまくコントロールすることができたように思う。これと同様のことは外国語学習についても言えるのではないだろうか。

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2015年10月07日

英語の偏り?

※昨日、連続でツイートしたもの。

「大学入試の英語は偏っている」「TOEIC の英語は偏っている」と言う人がいたら、「それはタイム誌の英語でも医療英語でも観光英語でも同じでしょ?」と言い返せば足りる。どうせ全部をやっている人などいない。試験対策の是非は自身が掲げる目的との関係次第であり、方法単独での批判は難しい。

というわけで、偏りは本質的に不可避だ。とはいえ、基礎的な部分(だいたい高校レベルまでの範囲)については万遍なく学んでおいた方がよいと思う。もちろんこれも各自の目的次第ではあるのだが、基礎的な部分に穴があると持ちうる目的も自ずと狭まってしまう。それが基礎の基礎たる所以というものだ。

蛇足ながら、「偏り」も多義的である点には注意が必要だろう。私がここで書いているのは「全面的ではない」ということであり、英語のように巨大な対象を扱うときには不可避なものだ。しかし、このことと「英検を受けるのに難単語の勉強ばかりしている」といった種類の「偏り」とは区別する必要がある。

これらはどちらも「基準に対するズレ」として理解可能ではある。しかし、英語全体に対するズレは不可避であっても、限定された目的に対するズレは比較的避けやすい、という大きな違いがある。そしてこの「限定された目的」には、特定の試験に合格することや特定分野の素材に習熟することも含まれうる。

(いずれも140字)

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2015年04月26日

言葉のルールは理屈と感情と

つい先日、「『簡体字はキモい』 香港で渦巻く“中国本土化への嫌悪感”」という記事を見つけた。

気持ちは分かる。言葉のルールは理屈だけでなく慣れの部分が大きいから、馴染めないときの感情的反発はバカにならないのだろう。まして政治的な背景がある場合はなおさらだ。

私個人としては、漢字の略し方でバランスがとれているのは中国の繁体字でも簡体字でもなく日本の新字体だと信じたいが、これも主観的なものでしかない。(ダジャレではあるが。)

そういえばだが、私なんかより若い世代の人は(世代だけでなく年齢の問題もあろうが)、旧漢字や旧仮名遣いに慣れていないことが多いように感じる。ちなみに私自身は、駒場時代に『世界言語概説』という分厚い2巻本を気の向くままに読み漁っていたら、いつのまにか旧漢字旧仮名遣いに馴染んでしまった。そういう意味では全然苦労しなかったと言える。ただし、読むだけだが。

これは一種のイマ―ジョン教育だろう。この方法は、学習内容について勘違い・覚え間違いが発生しづらい場合には非常に有効だと思う。感情移入できる場合にはとりわけ大きな威力を発揮するはずだ。過去の経験からも、「ハマる」「熱中する」ことにはたしかに大きな威力があると感じる。

かなり前のことだが、「うちの子(就学前)はなかなか文字を覚えない。どうしたらよいか」という投稿を新聞か何かで読んだことがある。私が回答者だったら「子供と一緒にカラオケに行って子供番組の主題歌をたくさん歌ってみてはどうか」とアドバイスするのにと思った記憶がある。それがたとえ完璧な方法でないとしても、本人が好むこと(もちろんカラオケ以外でもよい)から入るのはやはり有効だろう。その意味では、いわゆる勉強だけが勉強ではないわけで、親の「ものの見方」が問われるところでもある。




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2015年04月16日

日常の会話は文法的にブロークンなのか?

「“受験英語”を“使える英語”に変える実践的会話術」という記事を見つけた。著者は鈴木寛氏(東京大学・慶応義塾大学教授、文部科学大臣補佐官)。

一番最初の見出しに「東大を出ても話せない」などと書かれているが、何かというと東大を引き合いに出すのはナントカの一つ覚えではないか? まあ、それはさておき…。

書かれている内容をざっと読んだが、特に異論はない。ただ、
私たちの日本語での会話に置き換えても当たり前のことですが、英語のネイティブも日常の会話では文法的には「ブロークン」な形で話しています。英語は日本語と違い、主語を多用しますが、2人と話していると頻繁に省略しています。たとえば「あなたは日本人ですか?」を英訳すると、教科書どおりなら主語と動詞の順番を入れ替えて「Are you Japanese?」と話すところですが、実際の会話では「You are Japanese?」と語尾を上げるだけでいい、という具合です。
という部分は、実践的にはそのとおりだが、文法というものに対する理解の仕方は間違っていると私は考える。なぜか?

「You are Japanese?」のような言い方は、フォーマルな場面では避けられるべきものだろう。しかし、たとえそうだとしても、「日常の会話」においては十分に正しい(適切)とされる言い方なのだ。つまり、これもまた文法に従ったものなのであって、文法を逸脱した「ブロークン」とは根本的に異なるものであると理解する必要がある。フォーマルなものだけが文法ではない、ということだ。

もしフォーマルな場面で「日常の会話」的な話し方をしてしまえば、それは「不自然」「不適切」と評価されるだろう。しかし、それとまったく同様に、「日常の会話」的な場面でフォーマルすぎる話し方をすることもまた、「不自然」「不適切」と評価されるはずだ。後者は失礼ではないから許容度は比較的高いけれども、文法からの逸脱という意味においては、これもまた「ブロークン」と呼ふべきものなのだ。

そういえば、最近は何かにつけて「文法は間違ってもよいから話すべき」と言われることが多くなってきた。たしかに間違いを恐れて話し出せない日本人は少なくないし、そのような人たちのメンタルバリア(?)を取っ払う効果はあろう。

しかし、旅行や買い物以上のレベルを求めて外国語を学ぶのであれば、言語の大きな柱の一つである文法を軽視することは大きな誤りだ。以前にもどこかに書いたと思うが、ここは「文法的に正しく話すことができないのなら、できるように訓練しよう」と考えるべきところだ。こんなことは他の科目(たとえば数学の計算方法や楽器の演奏方法など)では当然のことなのに、なぜか英語だけ例外扱いされてしまっている。言語とは人間の精神と不可分一体のものなのに、はたしてそれでよいのか?

そもそも…と大仰に構えるまでもなく、言葉を大切にすることは、相手を大切にすることだろう。となれば、文法を守ることはその一歩であり、発音にも同様の側面がある。そして適切な語彙選択などの課題がそれに続くのだと私は思う。

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2015年04月02日

言語の本質は音声ではない

今日のニュースで「手話法の制定求め意見書可決 全都道府県議会」という記事があった。そしてそこには
手話を言語として認め、使用しやすい環境整備を目指す「日本手話言語法」の制定を求める意見書が全ての都道府県議会で可決された
と書かれていた。私自身も中学時代に手話の勉強をしたことがあるから思うのだが、手話法の制定を求めることは聴覚障害者らのために望ましいことであるし、また、当然のことでもあろう。
※なお、「障害者の権利に関する条約」第2条には「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」とあり、「障害者基本法」第3条三号には「言語(手話を含む。)」という文言がある点をここで指摘しておきたい。

ところで、Wikipedia で「音声言語」の項を見ると、
ヨーロッパで成立した近代言語学では人類の言語の発生、並びに本質は音声言語であるとされる。これを「音声言語中心主義」という。
と書かれている。音声言語が「人類の言語の発生」だけでなく「(人類の言語の)本質」でもあると言っているところに注目していただきたい。似たような主張は昨今の英語教育改革論の中でも見かけるが、それは「話す」を4技能の中心ないし基礎と考えるにあたって、音声言語中心主義的発想が(意図的か否かはともかく)その根拠として使われているからかもしれない。

これは一見したところ正しいように見える主張ではある(何せ近代言語学で言われていることなのだ)が、この立場に立つと音声を媒介にしない表現(論理的には手話に限定されない)を言語であると認めることができなくなってしまう。本当にそれでよいのだろうか。

最初から結論的に言うならば、私見では
「言語」とは、人間が「規範に従って感性的な形式を運用することで自らの認識を表現し、同じ規範を裏返し(逆向き)に使うことで他者の表現を鑑賞する」という過程的構造を使用するときの、その<表現>(行為ではなく物質的に外化された成果物)のことである
とでも考えるべきものだ。(ここでは詳しい論証まではしないが、この考えが三浦つとむに多くを負うものであることだけは記しておきたい。)

さて、ここに登場する「感性的な形式」というのは、本来的には、当事者双方が操作および認識できるような形態であれば何でもよい。しかし、目・耳・口に大きな問題がない場合には、まず間違いなく「人の口から発せられた音声」がその人にとっての「感性的な形式」となるだろう。逆に、生まれつき耳が聞こえない人が手話使用者に囲まれて育った場合には、手話の形式が「感性的な形式」となる可能性が高い、ということでもある。

「言語」一般をこのように捉えれば、手話のようなものも言語であると容易に認めることができる。それがこの考え方の決定的なメリットと言えるかもしれない。その一方で、具体的なレベルで見ると、大半の人(より正確には目・耳・口に大きな問題がない人)にとって音声言語が母語となりやすいということも否定されない。つまり、現状との関係では、何の問題も発生しない。

言い方を変えるならば、ここには2階建ての構造があるということでもある。そこを誤って平屋(ひらや)的に理解すると「言語の本質は音声言語である」となってしまう。しかし、特に専門家たる者は、このような論理的ミスをしていてはならない。

もちろんこういう考え方の相違というのは、「大半の人」に対する教育ではほとんど問題にならないであろう。しかし、実践だけでなく理論にも関心がある人にとっては、決して無視すべきではない、大切な区別であると私は考える。ぜひ food for thought にしていただきたい。

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2015年03月27日

通じればよい?

(Facebook に書いたもの)

まずは引用を一つ。

単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。 (種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』pp.187-188)

言葉を学ぶときに「通じればよい」とのみ考えるのは、相手の人間性を軽視するものだ。基本はあくまでも「通じなくてはならない」(通じることは十分条件ではなく必要条件)であり、そこから先の部分で学習者自身の人間性を問われることになるのだろう。これはもちろん母語についてはなおさらである。

人間性に関してここでもう一つ(かなり長いが)引用する。

本来、直接に必要がないと思える<学校教育>の本質は、人間を一時<生産>から解放することによって、その期間に<全人類の歴史性>、すなわち文化遺産を受継ぐ基盤を築かせるのに存する。これなくしては、その社会における<歴史性>をもった人間にはなれないからなのである。
(中略)
だから、現在の学校教育の欠陥を、単に<落ちこぼれ救済>のレベルで考えるなどはナンセンスであり、全体系を<人類の歴史性>の観点から把えなおすべきであり、それ以外ではないのである。現場での一例をあげるならば、教師は、数学を通して<人間>を教えるのであり、歴史を通して<人間>を教えるのであって、けっして、<数学>・<歴史>を個として教えるのではないという自覚が出発点なのである。
(中略)
人間が情熱燃やして学ぶすべてのことに<歴史性をふまえた人間論>が必ず要求されるべきなのである。
(中略)
人間にとっては、単なる<強さ>といえども、かかる歴史性をふまえて把えなければならないものであり、結果さえよければよいというのは、あまりにも人間の動物化であろう。もっといえば、<強さ>もそのなかに含まれる<人間性>の、<歴史性をふまえた人間性>の<強さ>でなければならず、別言すれば、文化遺産としての<技>を正統にひきつげる、そして<歴史性をもった技>をより<見事なる歴史性>へと転化できる技での<強さ>でなければならず、そうでなければ人間の価値は、<ゴリラ>以下となってしまうであろう。
(南郷継正『武道とは何か』pp.81-83)

何を学ぶにしても、その目的・対象・方法は人間論の中に位置づけて問い直す必要があるということだろう。30年前の私は上記引用のようなものを熱心に読んでいたものだが、ここ最近はどうもその「志」を忘れつつあったようだ。引用文を入力しながらそのことを強く感じた。

英語にしろ数学にしろ「使えてなんぼ」であることは事実なのだが、その側面に流されすぎて<ゴリラ的な強さ>ばかりを習得してしまうことのないように心掛けたい。「言うは易く」であることは知っている。しかし、学びは日々の積み重ねであり、その積み重ねこそが人間としての己を創るものだ。

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2015年02月22日

わが卒論より「母語の習得と思考力の発展」

これも24年前に提出した卒論の一部。先月投稿した「言語と〈言語規範〉」の2つ後の項目。注意事項も同じ。

母語の習得と思考力の発展

 表現とは一般的には認識の逆反映である以上、「ワケも分からずに……」というのを除けば、人間は自身の認識のレベルに応じてしか表現できないはずである。
 であるから特に母語の場合は、元々ゼロに等しかった認識が複雑化していくのに並行して、言語表現も複雑化していくことになる(ただし機械的に対応しているわけではない)のであり、また、そうならざるをえないわけである。

  (図1つ割愛)

 参考までに述べておけば、日常生活における体の動きの習得について、「……これとても、初めはやはり力強くやることで創ったものではなく、幼児から成年になる過程で、つまり、力を入れようにも力がないレベルで形をとることから始まったものです」(南郷継正『武道への道』p.122)と言われているのであるが、これと同様のことが言語についても言えるのである。
 そして、それなりの言語能力が身に付くと、今度は逆に(音声)言語表象を使って概念の運用が積極的に行われるようになる(二重ラセン状)。もちろん、他人の言語表現をとおして他人の思想について学ぶ(文化遺産などの習得)、ということも並行して行われることになる。
 ところが、そのようにして発展した認識能力の持ち主が他の言語(規範)を習得しようとする場合、大いなるジレンマにぶつかることとなるのである。つまり、表現したいことはあるのに、それにふさわしい表現形式が(少なくとも即座には)思い浮かばない、というジレンマである。これは、母語習得の場合には、認識能力と表現能力とのギャップが小さい関係上あまり問題にならないのであるが、大人(中学生でも同様)の場合には、いわゆるブロークンへの道を進む最大のキッカケになるものである。
 そこで、「外国語で考える」実力を付けるためにも、初めのうち(といっても発音の基礎は習得した上でのことである)は、内容面にはあまりとらわれすぎずに形式的な訓練をシッカリと行わなければならない。その意味では、外人とのオシャベリなどは、余程注意しない限りは危険なものである。
 なおここで「外国語で考える」とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である。
 ちなみに、後述の速読理論における「視読」の場合は、単語の文字表象から直接(音声表象を介さずに)概念構成し、更に追体験していくのであり、認識の論理構造は同じである。

オマケ:最後の段落に関しては、この卒論よりも少し早い1988年に「2重アクセスモデル」というものが門田修平氏によって発表されているらしい。

以上、何らかの参考になれば…。

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2015年01月17日

わが卒論より「言語と〈言語規範〉」

これは24年前に提出した卒論の一部。当時の私は(現在も大差ないが)三浦つとむ・南郷継正らの認識論に全面的に依拠していたため心理学はほとんど知らなかったが、この程度の考えには到達していた。今こうやって読み直してみても、内容的には特に修正の必要性を感じない。なお、卒論では文献名は略記していたが、転載にあたって参照しやすいよう復元しておいた。それ以外は24年前のままである。

言語と〈言語規範〉

 言語とは表現の一種である。ここで表現とは、「精神のあり方を認識するための物質的な鏡」(三浦『認識と言語の理論 第一部』p.31)のことであるが、言語においてはその表現と鑑賞とは何かと言うと、それは一般的には社会的認識の一形態であり、その人の行動を規定するような、「観念的に対象化された意志」の一種である。そして、〈言語規範〉とは、言語活動(表現と鑑賞)を媒介するような規範のことである。
 さて、言語において〈単語〉と呼ばれているのは、表現者の1概念が表現されている部分=単位である。だから、いわゆる「単語を覚える」とは(これは外国語に限らず、学術用語などでもよい)、@何らかの情報を元にして概念構成をし、Aそれと語彙(単語の種類を把握した表象であって、これはこれで覚えなくてはならない)とを対応させて記憶し、更に、Bそれを元情報とは独立して使用できるようになる、という過程的構造を持った作業である。
 しかし、単語だけ覚えても不充分であることは言うまでもない。では、いわゆる「言語を習得する」とは何なのか、ということになるのであるが、これは上の議論を踏まえれば容易に予想できるように、〈言語規範の習得〉なのである。また同様に、その一部としての「単語を覚える」とは、「語彙を習得する」ということである。
 では、肝心の〈言語規範の習得〉とは何であろうか。問題は、その「習得」の意味である。
 普通、規範を「覚える」と言った場合、@法律の条文のように知識として覚える場合と、Aこういうときはこうしてしまう、というようにクセとして覚える場合との2形態があるであろう。そして、ここで問題にしている〈言語規範の習得〉とは、Aの方であり、@つまり〈文法の記憶〉は過程としてのみ認めるものである。しかし実情は……である。
 言うまでもなく、ここに誤解があるからこそ、子供だましでしかない「文法否定論」がまかり通るのである。別に文法が不要なわけでは決してなく、逆に、文法を意識しなくても文法にかなった言語活動ができるようになるまで自らを訓練する必要があるのである。そして、そのための最良の方法は、あくまでも意識的に訓練を行うことなのである。

オマケ:同じ論文の中で私は次のようも述べている。
 なおここで「外国語で考える」とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である。

何らかの参考になれば…。

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2014年11月14日

英語に求める正確さ、その基準

私は主に武道の関係でこれまでに40ヵ国以上の人と会ってきた(今でも Facebook 友達の出身地は40ヵ国以上のはず)。私が話せるのは日本語以外にはそれなりの英語だけ(ちなみにドイツ語は挨拶+α程度)だったから、彼らのほとんどとは英語でやりとりしたわけだが、40ヵ国以上ともなると相手の英語力の方はまさにピンキリだった(※)。なかでも非ゲルマン語圏の人が話す英語は文法的にも語彙的にも発音的にも破格(?)な場合が多かったが、そのような相手と話すときは、私の方もかなり気楽だったことは否定できない。なぜか? それは、私が何か間違ってもほとんど気付かれないからだ(笑)。

※ギリシャ人の中には自分の名前をラテンアルファベット(ローマ字)に転写できない人もいた。もちろんそういう人たちは英語を喋るのもできなかった。一口に外国人といっても、英語力にはそれだけの開きがあるということ。

しかし、そういう状況に甘えてばかりいると、自分の英語の正確さが伸びなくなる危険性もある。だから私個人としては、
与えられた言葉を母国語とする人々が、それを読み書き話すことを基準にして、正しく理解でき、使えるようになること
(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』p.244)
を今後も大切にしたいと気持ちを新たにしている。ちなみに私にとっての英語の基準は、教養あるアメリカ人のそれだ。

もちろんこれは私個人の、それも「英(米)語」という言語に対する考え方でしかない。だから、他の人が皆そうすべきだと言うつもりはないし、同じ人でも言語によって違う対応をとることはあってよいと思う。たとえば、単に海外旅行を楽しみたいだけなら、正確さについてあまり難しく考える必要はないだろう。ただ、そのレベルでは本格的なビジネスには不向きだろうとも思う。

このあたりはその人の必要性次第ではある。しかし、いったん雑な、荒っぽいものを身に付けてしまうと、それを後からキッチリしたものに置き換えるのは大変であろうことは簡単に予想できる。となるとやはり、最初はあまりカジュアルすぎないものを丁寧に押さえておいた方が、後から無用な苦労をせずに済むのではないかと思う。たとえ学習開始時に「この言語はビジネスには使わない」と思っていても、ある程度話せるようになると気が変わるということは、大いにありうることだ。

それで思い出したが、最近よく耳にする「通じればいい」という考えは正しくないと私は考えている。本当は「通じればいい」ではなく「通じなくてはならない」のはずだ。つまり、通じることは十分条件ではなくて必要条件なのだ。そしてそれにどれだけ上乗せするか(できるか)が、その人の人間としてあるいは専門家としての評価に繋がるのだと思う。これは「言うは易く」ではあるが、だからこそ価値があるのだと考えたい。

最後に前掲書のpp.187-188よりもう一つ引用して終わりにする。
 単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。
 わたしはいつもそういう点に、人一倍注意している。私に相手の外人は「タネダはどうして完全にしゃべりたいのか?」とたずねたことがある。要するに、多少ブロークンでもかまわないではないか、というわけである。しかし、わたしはそれをしない。話しているうちに詰まると、わたしはだまってしまう。その方が身のためだからである。
 そこでその外人は、他人にわたしを紹介するとき「この人は絶対にまちがわず、正しく話す人だよ」といつもつけ加えてくれるのである。
 わたしは正しく話すものでありたいし、そうあるのが、その国語にたいする正しい態度だと信じている。
まさにまさに。

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2013年09月23日

英語と日本語の語順を比べてみる

10年近く前に購入した『通訳教本英語通訳への道』(日本通訳協会編、大修館書店刊、1976年初版)を久しぶりにめくっていたら、英語と日本語の語順を比較した図が載っていた(p.37)。それは英文・和文それぞれをチャンクに区切ってタテに並べ(左が英文、右が和文)、対応するチャンク同士を矢印で結んだものだ(スキャン省略)。

この種の図というのは(タテかヨコかを除けば)決して珍しいものではなく、あちこちで見かけた記憶がある。ただ、今回改めて感じたのは「わかりにくいなあ」ということだった。こういう対応関係を示す場合、矢印による表示では線が交錯して見づらいのだ。

文句を言っていてもしかたないので、同じ内容をマトリックス表示で書き直してみた。
こちらのPDF参照)

これを見てわかるのは、日本語でも英語でも表現したい内容はほぼ共通していて、ただ各項目をピックアップしていくときの順序が日本語と英語とで違っているだけなのだ、ということ。

それはちょうど自分の部屋に何があるかを説明するときに、右から左に進めるか etc. というのに似ている。大事なのは
 (1)含まれるべき要素 および
 (2)それら要素(ときに話し手自身や聞き手をも含む)間の関係
を正確に伝えることだから、それを満たしてさえいればいろんな順序がありうるわけだ。そしてたまたま日本語と英語とでは違う順序になってしまっているせいで多くの日本人が苦しめられている、ということだ。

ただ、語順が似通っていたら簡単かというと、どうやらそうでもないらしい。例えばドイツ語の入門書には「実際のドイツ語の文では動詞の位置だけが日本語と異なります」(滝田『本気で学ぶドイツ語』p.31)といった文言が書かれていて、「なので日本人にもとっつきやすいんですよ〜」と言わんばかりなのだが、実際にやってみるとうまくいかない。

それはそうだ。ドイツ語で喋ろうとするときには日本語の単語は頭から排除されているのだから、仮に対応する独単語を知っていても(むしろ熟知していればいるほど?)、それを日本語の語順で並べることは一種の曲芸なのだ(もちろん書くときは別)。

結局のところ、英語であれドイツ語であれ、語順というものはそれぞれの言語の具体例を通して身につけていくしかない。それには私の前回の記事「数学と英語の意外な共通点 〜スパイラルリプロダクションのすすめ〜」で紹介した方法が役立つはずだ。詳細は現在準備中なのでご期待いただきたい。

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2013年09月21日

数学と英語の意外な共通点 〜スパイラルリプロダクションのすすめ〜

数日前のこと、Twitter で数学の問題を見かけたので挑戦してみた。それは対数関数の問題だった。高校・浪人時代には数学は得意科目で、対数関数はその最たるものだったが、1986年に受けた東大二次試験以降、対数に関する問題を解いた記憶がない。家庭教師をしているときに接した可能性がなくはないとしても、かなり長期のご無沙汰だったのは間違いない。

さて、その問題を解くには基本的な公式が必要であるにもかかわらず、それらの公式もすっかり忘れていた。万事休す!のはずだったが、対数の定義は覚えていたので、そこから公式を再現して利用し、無事に正解に辿り着くことができた。では、公式の再現はなぜ可能だったのか?

それは、「私が東大合格のためにやったこと・1(数学)」や「同・2(物理)」にも書いたように、若い頃の私が公式というものをかなり丁寧に学んでいたからだ。

「かなり丁寧」とは何かだが、それは公式の徹底暗記ではなく、一つひとつの公式を自力で証明(=再現)できるようにすることだった。私がそのような学習法をとったのは

当時の私には「公式というのは互いに了解していることを省略するために使うものだから、自力で証明できない公式を使うことは許されない」という考えがあった

からだ(詳細は上記のリンク先を参照されたい)。すっかり忘れていた対数関数の公式を自力で再現することができたのも、そのような丁寧な学習のおかげだと思う。つまり、丁寧に学んだことというのは、かなり長期間放置していても役立ってくれる可能性が高いのだ。どうせ学ぶなら、そのような学び方の方がよいだろう。特に長期的な観点からは。


ところで、これと同じことが英語教材(特に模範例文の類)にも言えないだろうか?

模範例文などの素材は読みっぱなしではもったいない。そこで、文法や語句について丁寧に理解した後に音読やシャドーイングを徹底的に繰り返したり丸ごと暗記したりとかの方法がとられることが多い。それらはいずれも有効な方法ではあるものの、ほとんどの場合、残念ながら<ある重要な手順>が欠けている。それは何か?

それはずばり、「言いたい内容からスタートして、適切な英文を自分で組み立てること」である。これは数学や物理における公式の再現と同じだ。<導出された結果としての公式や例文>を丸呑みするのではなく、公式や例文が導出されるプロセスを大切にし、身に付けるわけだ。(細かい過程まで丁寧に追うという意味で、いわゆる「瞬間英作文」よりもさらにプロセス重視のものである。)

実際、目の前に模範的な素材があるのに、そこに至るまでのプロセスを追体験してみないのではもったいない。それは英語学習における極めて大きなロスだと私は考えている。

ためしに、世にある英語教材や英語学習法に関する本を見てみるとよい(私は大書店で渉猟した)。「言いたい内容からスタートして、適切な英文を自分で組み立てること」の重要性を指摘しているものは驚くほど少ないはずだ。英文法や英作文の参考書の中には文の組み立て方を詳しく解説しているものが何冊かあるが、個々の例文について組み立てプロセスを丁寧に自力で追体験することまでを要求しているものは見つけられなかった。

私見ではあるが、この肝心なポイントが抜けているのでは、教材の数がどれほど増えたところで日本人の英語力向上にはそれほど寄与してはくれないはずだ。喩えるならば、野球選手になりたい人が野球評論家になるための勉強をしているようなもの、と言えるだろうか。もっとも、近年は音読やシャドーイングによって口を動かす学習者が多くなってきたのがせめてもの救いではある。

ちなみに上記の方法は、音読やシャドーイングの「仕込み」としても大いに役立つものであり、従来からある様々な方法と併用することが可能だと考えている(これらの点については営為実験中)。肝心なのはあくまでも方法だから、旧態依然とした教材を使用しても一向にかまわない。ただし、音声面の正確さを担保するには、音声素材が付属しているものの方がよいだろう(音声素材があると復習もしやすい)。

概略、以上のような考えを現在の私は持っている。実はこれに類する考えは数年前から持っていて、しばらく前にも「英文構造図+再措定的学習による階層的作文力養成法」において提示したことがあるのだが、現在は理論的検討も進み、さらに進化した考え・ノウハウに到達している。

そこで現在は、現時点での考えとノウハウに基づいた新著を執筆している。仮題は『スパイラルリプロダクション(螺旋再生) 〜言語演算を自動化するための理論と実践〜』で、そこでは英文構造図(詳細は画面上部から公式サイトへ!)とは異なる新しい図式が大活躍する。

欲張った内容であるため完成には相応の時間と手間がかかりそうではあるが、遅くとも来月中旬には刊行したいと考えている(形態は例によって PDF を予定しているが、1冊にまとめるか3冊程度の分冊にするかはやや流動的)。

乞うご期待!

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2013年06月08日

辰巳『「日本人は外国語が苦手」は本当か』



先月出たばかりの本。著者は言語学とか英語学の人ではない。現役時代は発電所のエンジニアで、若い頃の英語学習には失敗したが、定年後に独学した中国語では短期間で成果を上げたという人(日本語講師でもある)。

自らが開発した方法に関してこの著者は

エンジニアとして、私は在職中ずっと「理論と実践」を座右の銘としてきた。結局、語学にも理論と実践を極めたかったのである。

と書いている(p.6)のだが、この気持ちは私にもよくわかる。

肝心の内容だが、冒頭部分では言語に関連する脳の話から始まる。よく知られている内容ではあるが、それを「会話に必要な全経路」として提示しているところが特徴と言える。

蛇足だが、この「全経路」は私が「言語における技の過程的構造」と呼んでいるものとそっくり同じと言ってよい。あまりにも似ているので驚いたほどだ。

その後は英語教授法の歴史に触れ、さらに「練習にどれだけの範囲の神経回路を使うか、練習時間はどうか」を基準としてそれぞれの方法を数値によって比較評価していく。数値による比較評価というのは考えたことがなかったので、非常に参考になった。と同時に、自分の考えにも自信を持つことができた。

結論として本書で提唱されている方法というのは、決して新しいものではない。誰でも知っているようなものだし、かなりシンプルだ。ただ、それがなぜ効果的であるのかを「全経路」から照らして見せているところに本書の最大の特徴がある。納得ができれば継続もしやすいのだから、これは決してバカにはならない。

本書はあくまでも学び方に関する本であり、記憶や練習のための素材は一切含まれていない。読みやすく書かれているので、第二言語習得論などに手を付ける前に読むのにも適しているが、英語の学習だけならこの本1冊で充分であろう。本当に難しいのは、「独習の場合は本を1冊しゃぶりつくすことから始める」(p.106)ことの方だと思う。

なお、著者が経験しているのは主に英語・中国語・日本語の学習であるから、活用変化が激しい言語を学ぶ際には文法ドリルの比率を増やすなどの工夫が必要であろう点は指摘しておきたい。

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2012年09月13日

音声言語/文字言語、言語表現/非言語表現

(Facebook に書いたもの。)

言語というのはとても便利なものではあるが、人間が表現したいことの全てが言語で表現できるわけではないし、その範囲・程度は文字言語と音声言語とで異なる(もちろん日本語と英語とでも異なる)。

アクセントは多くの場合、語句の種類や切れ目の判別に影響する。文字言語では(特別に記号を付加しないかぎり)アクセントは表示されないが、日本語の場合は漢字という表意文字を使っている関係で、アクセント不表示が問題になることは少ない。もちろん、常識や文脈でわかる場合も多い。

一方、イントネーションなどは語句の種類等の判別にはあまり影響しない。しかし、だからと言って表現内容に無関係だということにはならない。いわゆるニュアンスに大きな影響を及ぼすからだ。

さて、いわゆる言語としての表現にも、言語規範によって媒介された部分(三浦つとむはこれを「言語表現」と呼ぶ)と言語規範によって媒介されていない部分(同じく「非言語表現」)とがある。
(両者は一体化しているので、「部分」というより「側面」と呼んだほうがよいであろう。)

音声言語における非言語表現としては、先述のイントネーションの他に、文アクセントや声色、スピード変化などがあり、それは言語表現だけでは表せない部分をカバーするのに使われる。
(この部分に重点を置くことで「音読」が「朗読」に変わるのだと私は考えている。)

文字言語の場合はというと、書体(太さや飾りも含め)やサイズなどで表されることが多いが、他にも下線・傍線や傍点などの記号が併用されることもある。これはちょうど「字」に対する「書」の関係だ。

先に「いわゆるニュアンスに大きな影響を及ぼす」と書いたが、何がどの範囲で影響するかは、「言語表現」との兼ね合いに依存する。つまり、言語規範次第である。両者は裏と表の関係にあるからだ。

ところで、文字言語を黙読するとき、たとえ声は出さないとしても、その人の頭の中では、その音声がそれなりの声色・強さ etc. を伴った具体的なかたちでイメージされる(無色透明なイメージは不可能なので)。

イメージ化にあたっては、相手のキャラクタに関する読み手の理解、文章が置かれているコンテキスト、さらにはその時点における読み手の感情など、さまざまな要因が影響する。ただし、読み手自身もそれを自覚していないことが多い。

このことは、プレーンテキストしか使えない環境で特に問題になりうる。というのは、書き手の意図とは異なった音声イメージを読み手が持ってしまうことがあって、それが往々にしてトラブルの原因になるからだ。

古くはメーリングリストや掲示板でそういう問題が繰り返された(私も経験した)。しかし、多少の顔文字が追加されていることを除けば Facebook や Twitter も大差ないのだから、我々もこの問題にはよくよく注意する必要があろう。

posted by 物好鬼 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする