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2010年08月17日

学び方を学んでばかりいる人間は…

どんな分野でもそうであるが、学ぶだけの人間は、自分で創造できない人間である。学んだ後が大切なのだ。

同じことは学び方についても言える。学び方について学ぶことは結構なことではあるが、学ぶばかりではダメである。ちょっと良さそうだと思って着いて行っても、他の人から批判されると簡単に宗旨替えしてしまう可能性が高い。それでは何事も一貫できないだろう。

学び方であれ何であれ、他人から学ぶのは悪いことではない。必要なことですらある。しかし、それを主体的に摂取したあとは、自分なりの<何か>を作り出すことができなくてはならないと思う。

さて、世の中を見ると、信じられないくらい優れた人間が存在する(末尾「オマケ」参照)。学ぶスピードだけでもエライ違いだ。凡人なら10年はかかりそうなところをほんの数ヶ月で通過している。いったい何が違うのか?

要するに、彼らは学び方を知っているのである。と同時に、それを実践することができている。何よりも勤勉さが尋常ではない。もちろん記憶力などの違いもあるであろうが、そういった面ばかりを強調しても(自身の能力向上につながらないのであれば)あまり意味はないと思う。

他人の学び方を参照してばかりいる人間は、自信を持って実践することが難しいかもしれない。しかし、ある程度の実践ができないと、実績も生まれない。実績がないと、自分の学び方に自信を持つことができない。悪循環である。

それを克服するためには、ガムシャラということも必要だろう。石橋を叩いてばかりではダメなのだ。リスク管理は必要だが、その管理に投入する資源は多すぎてはならない。たとえば100万円の損害を防ぐために1000万円投資するなどはナンセンスである。

学ぶ能力を育てるには、学び方を学ぶだけでは不十分で、学んだ内容(=学び方)を実践する必要がある。具体的なことを実際に学ぶ、ということがそれである。うまくいくかどうかは、運によって左右される部分がどうしても残るであろう。しかしそれは仕方のないことであるから、素直に観念して猛進することが大切である。以上、反省の意味も込めて。

オマケ
たとえば弥永真生氏。司法試験受験生の間では知らない人はいない有名人である。その履歴だが、リンク先によると、
1980年 広島三育学院高等学校卒業
1981年 司法試験一次試験合格
1982年 公認会計士試験二次試験合格
1983年 不動産鑑定士試験二次試験合格
1984年 明治大学政治経済学部経済学科卒業(首席・経済学士)
1984年 司法試験二次試験合格
1986年 公認会計士試験三次試験合格
1986年 東京大学法学部第1類(私法コース)卒業(首席・法学士)
ということである。挙げられている試験の難度を知っている人にとっては、まさに驚異的な実績であろう。それも2度の「首席」卒業のオマケつき。それだけではない。リンク先には書かれていないが、この前後の数年間には、当時の情報処理技術者試験5部門(第1種・第2種・特種・オンライン・システム監査)全てにも合格している(試験関連雑誌に載っていた)。

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2010年08月12日

上達の最近接領域(ヴィゴツキー批判)

ロシアの発達心理学者のヴィゴツキーが提唱した考え方に「発達の最近接領域」というのがある(簡単な説明は例えばここ)。

リンク先にも書かれているように、この理論では「自力でできること」と「支援を受けたときにできること」とのギャップを問題にしている。しかし、それは目の付け所がオカシイ、というのが私の考えである。

そもそも他人から何らかの支援を受けるとしても、本人に残される部分が存在しているはずである。そしてその部分を、その人が「自力で」やるわけである。であるから、問題にすべきはあくまでも「本人に残された(自力でやらなくてはならない)部分」であって、他人からの支援云々で区別するのは的外れである。

では、どう考えるべきか?

私たちは気楽に「できる」「できない」と口にするが、実際には中間的なものが存在している。例えば「意識してやればできるが、無意識にはできない」「ユックリならできるが、スピーディにはできない」「静かなところでならできるが、雑音があるとできない」などである。大切なのは、こういったグレイゾーンの存在である。

例えば、このブログで紹介しているいくつかの文法ドリルは、ほとんどの人にとって「意識してやればできるが、無意識にはできない」レベルのものであるはずである。そういった課題については何よりも「意識して何度もやる」ことが大切である。何度も何度もやっていれば、次第に慣れてきて、あまり意識しなくてもできるようになってくる。

そもそも何かを身に付けるためには反復練習が必要とされるが、「意識してもできない」ようなことは、要するにどんなに頑張ってもできないのだから、反復のしようがないわけである。つまり、そのようなレベルのことに取り組もうとするのは、時間と労力の無駄でしかない。大切なのは上記のようなグレイゾーンを見極めて、そこに力を注ぐことである。

さて、そのような努力をしばらく続けていくと、「意識してやればできるが、無意識にはできない」レベルだったことが「あまり意識しなくてもできる」ように変化してくるはずである。そしてそのときには、これまでは「意識してもできない」レベルだったことの一部が、「意識してやればできる」範囲に入って来ているはずである。このようなことが起きるのは、様々な能力が互いにつながりあっているからである。

以上の考え方を私は(いささかの皮肉を込めて)「上達の最近接領域」と呼んでいる。これは別に最近になって思いついたものではなく、20年前に書いた卒論(東大教育学部)でもすでに簡単ながら触れている。その結論に曰く、《人間は「できること」を繰り返すことによってのみ、「できないこと」を「できること」に転化させることができる》と。

蛇足ではあるが、グレイゾーンの一種としては例えば「お手本を見た(聞いた)直後ならできる」といったものも考えられる。また、バク転の練習などでは他人の介助によって正しい形を経験できる場合もある。決して他人による支援自体を否定しているわけではない。誤解があるといけないので、念のため付記しておく。
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2010年07月25日

自分本位のノートを作れ

 語句にしろ文法・構文にしろ、あるいは例文にしろ、さまざまな教材が市販されている。そしてそれらのうちのいくつかについては、ネット上でその善し悪しが議論されたりしている。

 しかし、必要性にも好みにも個人差がある以上、絶対的な順位があろうはずもない。もし自分に適した教材がないのであれば、自分でまとめてみてはどうだろうか。

 まず語句に関してだが、分野別・場面別を基本とするのがよかろう。語源別などについては、活用できる範囲で活用すればよい。使用頻度は重要ではあるが、それはあくまでも平均的なものでしかないのだから、気にしすぎるのは無駄である。

 次に、文法・構文については、「最も簡単な構造の文からどのようにして複雑化させていくか」を考えて整理する。
 ちなみに「最も簡単な構造の文」は名詞・動詞・(叙述用法の)形容詞から成り立っている。それを複雑化していく方法としては、(1)付加(名詞←形容詞←副詞←副詞、動詞←副詞←副詞、文←副詞←副詞)と、(2)ヨリ複雑な要素(名詞節・名詞句・形容詞節・形容詞句・副詞節・副詞句)への置き換えとがある。

 また、例文については、自分が実際に言いたい内容に書き直してしまう。
 模範例文に手を加えるのは気が引けるかもしれないが、その作業自体が勉強になるし、その作業の結果としての例文も役に立つ。実際に使用するときにはどのみち修正しなくてはならないのだから、早い段階で具体的な問題意識を持って取り組んだ方がよい。もちろん、疑問点は徹底的に調べるようにする。

 なお、ノートはワープロで作成し、単元ごとに改ページするように設定しておく(対応する見出しにスタイル設定する)とよい。そうすれば、内容の改訂があっても、単元ごとの差し替えで済むからである。
 前にも書いたが、ノートはA5の無地リーフに片面印刷して、バインダーに入れて使うのが便利である。いつでもどこでもマメに参照し、気付いたことはどんどん書き込んでいくようにする。いつまでも完成形にしないことが大切である。
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2010年06月23日

A5バインダーは最強かもしれない

 昨日のこと、ふと思い立ってA5サイズのバインダーと無地リーフ(いずれも20穴のもの)をまとめ買いしてきた。これは以前から自分の本(右上リンク参照)を綴じるのに使っていたものだが、今回は自分自身の創作物全般に範囲を広げてみることにした。

 今日作成したのはカラオケレパートリーの一覧。私は数年前に約1000曲(うち半数はアニメ・特撮)のリストを一太郎で作成していたのだが、A4の用紙では大きすぎて扱いにくいと感じていた。また、ワープロ文書では、リンクを張ることはできても、本サイトの「一覧用ページ」(これも右上参照)ほど使いやすくはできない、ということもあった。どうせなら、いつでも動画を見ることができるようにしたほうが便利に違いない。

 そこで、「一覧用ページ」のスクリプトを改造して、YouTube動画リンクに特化したものを作ってみた。もちろん、スタイルシートを活用して、ビジュアル面にも工夫をしてある。

 数時間におよぶ格闘の結果、曲名リストだけは一通りHTMLに移行できたので、それをA5無地リーフに片面印刷してバインダーに綴じた。(HTMLでのリンクはこれから徐々に張っていく予定。)

 結果はというと、文句なしである。サイズが手頃なので非常に扱いやすいし、見た目がキレイなので何度も見なおすことが苦にならない。これなら、他のいろいろな素材もどんどんA5ファイル化してしまえば、非常に便利なのではないかと思う。英語の分類単語集なんかも作ろう作ろうと思いつつ作らないままになっているが、これならやりやすいだろう。英語以外のテーマについても同様だ。具体的な形をもったものが目の前にあるとハッキリした達成感が出てくるので、学習・作業のモチベーションも高まる。

 ちなみにカラオケレパートリーは見出し(3階層計)266個+曲名1004個(自動的に数える機能も付けてある)で、A5に印刷すると36ページになった。私が購入したバインダーは少し厚めのもので、リーフも200枚くらいは入りそうだから、1冊で6000曲近くまで載せられる計算だ。もちろんカラオケレパートリーがそこまで肥大することはないだろうが、これが分類単語集なら本格的なものになるのではないだろうか。考えるだけでもワクワクしてくる。安易かな?
posted by 物好鬼 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月17日

東大ノートが売れているとか

 朝日新聞によると、「東大ノート」なるものが売れているらしい。しばらく前に出た本の影響がまだ続いているのだろう。これは別にこのブログに直接関連するというほどのテーマではないのだが、東大出身者の一人として少しコメントしておこう。

 このノートの特徴である「ドット入り罫線」は、なかなかよいアイディアだと思う。最初に知ったときはちょっと感心した。しかし、某掲示板の書き込みを見ると、点々が邪魔だという意見もあるようだ。たしかにあの点々は、ノートするときには便利でも、ノート作成後は不要なものだから、目障りだと思うことは理解できる。

 では、そういう人たちのために何かよい代案があるのかというと、実はある。それは、縦罫が印刷された下敷きを使うことだ。無地のルーズリーフにオマケとして紙製の下敷きが入っていることがあるが、あんな感じのものを普通の下敷きにするのだ。そういうものがあれば、通常のノートでも問題なく活用できるのではないだろうか。

 既製品があるのかどうか知らないが、もしないのであれば、紙製のものをプラスチックケースに入れたりラミネート加工したりしてもよいであろう。いずれの場合も、パソコンを使っていろんな罫のものを作ることができる。

 とはいえ、東大に合格したいのであれば、綺麗なノートを作ることよりも、頭の中を整理することのほうがはるかに大切だ。頭の中を整理した結果が綺麗なノートとして現れるのであれば問題ないが、綺麗なノートを作ることが自己目的化するとあまり良い結果につながらないと思う。その点は、TOEIC対策と英語力との関係に似たところがある(と無理やり英語学習に結び付けておく)。
posted by 物好鬼 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月02日

書くことの重要性と情報一元化

 数日の試行の後にちょっと考え事をしていた。それは記事タイトルにもあるように、「書くことの重要性と情報一元化」の問題である。

 私の方式では例文について構造図を作成することを重視しているし、このたびの実践でも一つひとつの例文について構造図を作成してノートに書いてきた。

 さて、作図による恩恵は前にも述べたとおりなのであるが、その一方でデメリットがあることに気が付いた。それは、見るべきものがテキストとノートの2カ所になってしまうことにより、復習がやりづらくなってしまっている、ということだ。

 そこで、それを克服するための工夫を何日かしてきたわけである。その結果、いわゆる「基本書主義」に準じた方法をとることが効率的であるという結論に達した。これは同時に、図式化という作業があくまでも手段でしかない、という事実を再確認することでもある。

 現在、この方針にしたがって拙著を改訂中である。図式化の方法などに変更はないので、関心のある方は現在の版をご利用いただいてもまったく問題はない。改訂版の発行は週明け頃になる見込みである。
 この実践の基礎となっている方法論については、右上のリンクをご覧ください。

posted by 物好鬼 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

勉強することを楽しもう!

 これは今に始まったことではないが、英語にしろ何にしろ、ラクをして身に付けようという発想をする人が多すぎるのではないだろうか。そんな都合の良い方法が本当にあるのであれば、とっくの昔に学会で取り上げられ、学校教育にも取り入れられているはずであるが、そんな事実はない。どんな分野でも努力は必要なのであり、肝心なところで甘い夢を見るべきではない。一度しかない人生をドブに捨ててはならない。

 私の数少ない経験から言っても、実力が最も向上したのは、夢中になって(あるいは必死になって)取り組んだときである。

 大学受験で言えば、英語、数学、物理、国語についてそれを経験したし、パソコンなどいくつかの趣味でも似たような経験をした。30年前(中学時代)にルービック・キューブが流行ったときも同様で、地道にコツコツ考える習慣を含め、非常に大きな恩恵を受けた(東大理T合格の遠因になったとすら考えている)。

中学時代はいろいろなことに関心を持っていたが、そのせいか、プロレスごっこですら空間把握能力の向上に寄与してくれた。30代後半のときには、短期間でJavaScriptを学習して、大きな業務改革を成し遂げたりもした。

 分野も方法もマチマチではあるが、いずれも熱心さによるところが大きいと思う。

 となれば、何よりも大切なのは「勉強を楽しむ」ことだ、ということになる。かつての私のように適当なキッカケがあればよいが、それがないときは工夫が必要だ。一般的には、具体的な問題意識を明確化する、といった作業が有効である(このブログにもいくつか関連するエントリーがあるので、上部の「目次一覧」から探していただきたい)。

 英語の例文学習の場合なら、英文構造図(上部リンク参照)を活用することが大きな助けになる。今の自分に不足しているものを正確に把握できるという意味からも、ぜひ皆さんにお勧めしたい。
posted by 物好鬼 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月07日

分割並行読書

 昔話から始めたい。

 高校生の頃、理系ではあったものの、物理はあまり得意ではなかった。それでも数学は得意だったので、運が良ければ物理でもそれなりの得点は可能であったが、それは決して実力に基づくものではなく、あくまでも運任せだった。そのため「実力テスト」なるものでは惨憺たる点数に終わってしまったこともあった。

 さて、高校3年の夏が終わった頃、当時旺文社から出ていた『物理のクイック整理』とかいう参考書を手に入れた。比較的コンパクトにまとめられた公式集のようなものだったのだが、これがなぜか気に入って、それからの約1ヶ月間、その本に没頭することになった。

 何をしたのかというと、各公式の証明を余白に書き込んでいったのだ。必要に応じて他の参考書を参照し、ときには先生のところに質問しに行ったりもした。書き込みは全て青色のボールペンで、それもかなり丁寧に行った。これは非常に楽しいものだった。

 さて、その成果は? この<修行>は10月頃のことだったが、終了直後にはこれといった成果は表れなかった。しかし共通一次(現在のセンター試験)対策で演習を重ねていくうちに問題を解く要領が分かってきて、どんどん解けるようになっていった。結局、翌1月中頃に受けた共通一次本番では物理で100点を取ることができた。その後は浪人生活に突入するハメになったものの、物理は二次試験においても「攻めの科目」となり、これが東大合格への原動力の一つとなった。

 昔話はここまで。

 なぜ上記のような学習にハマったのかだが、今考えると、自分の頭の中が整理・体系化されていくことが楽しかったのではないか、と思う。学習そのものから直接に報酬(特に快感・満足感の類)が得られるというのは、ダレずに熱中し続けていくためには非常に大切なことだ。

 何につけてもこのような状況になれば効率が上がるのだろうが、それはなかなか難しい。私はどうも好き嫌いが激しいらしく、「その気」にさせてくれるような教材に出会うことは滅多にない。

 ところが先日紹介した『実例解説英文法』にはかなり強い魅力を感じている。文法が体系的に、それも分かりやすいレイアウトで提示されているだけでなく、「実例」は読解・音読の練習にも使えそうだからだ。そこでこの教材を1ヶ月かけて徹底的に攻略することにした。

 …というわけで、最初のページから丁寧に読み始めたのだが、いかに理論的・体系的に整理された教材とはいえ、同じようなテーマが続くと飽きてしまうのも事実だ。特に動詞の型に関する章は、とても充実(笑)している。

 実は大学1年の夏学期、ドイツ語を独習しようとしていたときに、前置詞の章であえなく挫折してしまったことがあった。その原因は、前置詞がなかなか覚えきれなかったことによる「疲れ」だった。もっと気楽に反復すればよかったのだろうが、当時の私にはそれはできなかった。一旦先に進んでから戻ってくるような方法には、あまり気乗りがしなかったのだ。今回は、そのような失敗を繰り返したくない。

 さて、「疲れ」への対策としては「休む」というのが基本原則だろう。その意味からは、英文法の学習を中断して別の勉強をするという方法も考えられるのだが、今月は英文法に、それもこの教材1冊に集中したいのだ。そこで考えたのが、複数箇所を同時に読み進める方法だった。

 具体的には、1章からの精読(現在は3章にいるが)と並行して、6章、13章、19章からの精読も行うようにしたのだ。4ブロックのうちの一つを読んでいて飽きてきたら、別のブロックに乗り換える。それを数ページ単位で行っている。ひょっとするとブロック数を増やす可能性もある。

 これは我ながらなかなかの妙案だったようで、勉強が非常にしやすくなった。こんなやり方で頭が混乱しないかな、とも最初は思ったが、今回は最初から順に読んでいかなくてはならないような教材・状況ではないので、特に問題はなさそうだ。むしろ、こういうやり方をしたほうが全体構造に気を使うことになるので、かえって体系的な理解も進むようですらある。

 というわけで、当面はこの方法で学習を進め、この1冊をボロボロにしたい。進捗はときおりこのブログで報告する予定である。
posted by 物好鬼 at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月29日

学習の目的・方法 ←→ 教材の内容・形式

 数日前に『英語文型完全トレーニング』について書いた。そこでは「隠れた名著」とも書いたのだが、それはこの教材の内容がかなり充実したものだからだ。この点については、私の考えは今も変わらない。

 しかし、実際に使ってみて思ったのは、「自分の方法に合わないなあ」ということだ。その原因は何だろうか?

 問題をもっと一般化してみると、「どんな教材にも(どんなものにも)内容と形式とがある」ということが言える。では、内容・形式のそれぞれについては、いったい何を基準として評価・選択をすればよいのだろうか?

 まず内容のほうだが、これは主に学習の目的に応じて選択する必要があると思う。例えば、英検1級レベルの語句を習得するのが目的であれば、それに応じた内容の教材を使わなくてはならない。3級レベルの教材では不足なわけだ。

 一方、形式のほうはというと、これは主に学習の方法に応じて選択する必要があるのではないだろうか。例えば、英文をまとめて音読したいのであれば、それに見合ったレイアウトのものを選んだほうが効率がよい。具体的には、左右のページで対訳になっているようなものだ。

 上記『完トレ』はどうかというと、内容面では申し分ないのだが、形式面では私が採用している方法に合わない。私としては「まとめて音読する」ことを中心に何度も反復したいのに対して、この教材では各例文の次の行に和訳が書かれている。そのため、私個人としてはこの教材に使いづらさを感じている。あまり効率がよくないし、それが積み重なればストレスにもなる。

 ただし、これは私が「まとめて音読する」という方法を採用しているからだということは強調しておきたい。例えば「一つひとつ丁寧に読み解いていく」などの方法を採用する場合には、何の問題もない。

 そのようなわけで、久しぶりに市橋モノに戻ろうかと考えている。市橋モノの多く(例外もある)は英語の例文とその和訳とが分けて表示してあるので、「まとめて音読する」とか「まとめてサイトラする」という方法が使いやすいのだ。

 しかし、ここ最近、私は市橋モノを主軸とすることを避けてきた。なぜかというと、それは市橋モノの多くが会話に重点を置いているからだ。会話だけでなく固めの素材(ビジネス文書や論文の読み書き、あるいは公式な場での討論など)にも力を入れたい私としては、市橋モノだけでは不足するのだ。これはいうまでもなく「学習の目的」と「教材の内容」の問題である。

 しかし、上にも述べたように、市橋モノの多くは「まとめて音読する」などの方法に適した形式を持っているのだから、それを有効活用しないのはもったいない。となれば、「足りない部分は他の教材で補充しよう」と考えるのが合理的だろう。例えば『スーパーレベルリーディング』『スーパーレベルライティング』などを併用するわけだ。そうすることで、<自らの学習目的に適した内容>と<自らの学習方法に適した形式>の双方を両立させながら教材を選択することができる。
posted by 物好鬼 at 06:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月26日

問題意識のバランス

 問題意識を持つことが主体的な学習に有効であると先に書いた。しかし、一つ気を付けるべきことがあると思う。

 確かに問題意識を持っていれば、それに関わる部分については理解が進むであろう。しかし、問題意識を持っていない部分はどうなのか。また、問題意識はあっても、それが偏っている(例えば正しくない結論に自らを向かわせたい等のような)場合はどうか。

 その場合、問題意識があることが却ってアダになってしまうであろう。

 では、どうするか。

 一旦は問題意識を棚上げして、対象の全体像を把握するように努める、というのが私の考えだ。そして、全体像をそれなりに(完全に、はありえないので)把握したところで、再度、自らの問題意識について考え直してみるわけだ。そうすることで、バランスの悪さをかなりのところまで修正できるのではないだろうか。

 先に、書籍の場合に目次を利用することについて述べたが、この「バランス」の点からも非常に意味があると思う。もちろんその目次は著者の立場を大なり小なり反映したものだから、場合によっては複数の教材を比較してみることも必要であろう。(この点については、『レトリック流法律学習法』で詳しく触れられている。)

 そんなわけで、自分が学ぼうとしている・学んでいる・ことについて、自分なりの目次を構築する作業を進めていくことにしようと思う。実は、学生時代にはこのようなことも随分熱心にやっていたのだが、いつの間にか何年もご無沙汰している。やらなくなると、知らないうちに時間が過ぎてしまう。コワイことだ。せっかくなので、かつての習慣を復活させたい。
posted by 物好鬼 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月23日

主体的な学習の前提としての<知識の棚卸し>

 『佐々木和彦の基礎からがっちり!英文法』は非常によい本だと思うが、残念ながら主体的に読めているとはとてもじゃないが言えた状態ではない。

 これはどんな教材についても起きることであり、私にとっても決して珍しいことではない。とはいえ、このままでよいとも思ってはいない。では、どうするか?

 比較の対象として、逆の場合を思い出してみたい。例えば、少し難しい理論系のものに徹底的にハマることがときどきある。分野もレベルも様々だ。現代数学だったり、法解釈学だったり、プログラミングのためのアルゴリズムだったり、といった具合だ。

 それらのケースに何か共通しているものはないかと考えてみると、それらしきものがないこともない。端的に言えば「どこかそこら辺に穴がある」という認識だ。その欠けた部分を補いたいという強い気持ちがある場合には、少しぐらい難しい専門書でも貪るように読んでしまうわけだ。逆にそのような気持ちが弱い場合には、簡単な本でもなかなか捗らない。

 もちろん「どこからそこら辺に穴がある」という認識があるからと言って、必ずしも「そこを補いたい」と思うとは限らない。しかし、前者がなければ後者は生まれにくいだろう。

 となれば、「穴がある」という認識を持つことと、その位置を(おおまかにでも)把握することとが、テキストを読む前に必要だ(少なくとも有用だ)ということになる。

 では、具体的にどのような手順を踏めばよいのであろうか。

 ここでやりたいのは、
  ・「穴がある」という認識を持つこと
  ・その位置を把握すること
である。

 これらのために必要なのは「知識の棚卸し」とでも言うべき作業である。

 しかし、これは単なる一問一答式によるチェックとは少し異なる。

 一問一答式の場合、その「一問」が単位として認識されてしまいがちであるため、「そのことを知っているか知らないか」というかたちでしか認識されないで終わってしまうことが多い。

 これはそれなりに意味のあることではあるが、これだけでは少し勿体ないと思う。

 というのは、「穴がある」という認識を持つためには「そこに穴が空いているナニカ」を同時に認識している必要があるからである。

 例えば仮に同じ10cmの穴がある場合でも、それが近所の土手にあるのであればほとんど気にならないであろうが、もし自宅の壁にあったら「大変だ!」となるはずだ。つまり、その「穴」がどこにあるかによって問題意識(=問題を解決したいという意欲)の大きさに違いが出てくるということだ。

 これを学習の場合に置き換えると、
「ある事項についての知識を問題にしたいときは、原則としてその一段階上から見下ろすかたちで(少なくとも周囲の他者との関係に注意して)検討する」
ということになるだろう。

 このために有効なのは、(書籍の場合であれば)目次を活用することである。つまり、目次の見出し(というかたちで示された体系的構造)を基準にして知識の棚卸しをするわけだ。その際、編−章−節…といった構造に特に注意を払うべきであることは言うまでもない。

 具体的な方法論として「自己講義法」(その後「コメント法」と改称)と呼ばれるものがある。これに関しては『マルチ速学術入門』『キャリアアップの勉強法』(いずれも栗山実)という本があったし、『レトリック流法律学習法』(フリチョフ・ハフト)という本にも似たような考えが見られる。しかし、いずれも手に入りにくくなってしまったようだ。

posted by 物好鬼 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする