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2015年08月22日

数学などにおける「解法」の扱い

※先ほど連続でツイートしたもの。

先週の土曜、高校の同期会があった。卒後31年ちょっと。そこに、高校時代に英語や数学などの勉強を一緒にやっていた男が来ていたのだが、彼に「数学に関しては大橋は天才型だった」と言われた。しかし、今から考えてみると、私の数学(物理なども)は原理原則重視型とでも呼ぶべきものだったと思う。

どういうことかというと、どんな問題を解くときにもできるだけ基本的な項目に立ち返って考えるようにしていたのだ。特に公式に関しては「自分で証明できない公式を使うのは卑怯だ」という考え方だった。「そこまでしなくても」と思われるかもしれないが、物理では期待以上の効果があったと思っている。

その一方で、私はいわゆる解法というものに無頓着だった。それでも問題の大半は解けたから、件の友人には「天才型」に見えたのだろう。解法というのは成績向上・大学合格という目的からは効率的なものではあるが、学習の目的をそれらに限定したくなかった私には、この方法が合っていたのだろうと思う。

では、現在学習中の人はどうすべきか。大学合格への最短距離を目指したいのならば、最初から解説を見て、解法も積極的に吸収するのがよい。いわゆる「数学は暗記だ」的方法だ。入試で出題される数学などの問題には必ず正解が存在するのだから、そういう問題が解ければよいのなら、この方法は合理的だ。

しかし、数学などについて自分の頭で考えられる人間(学者の類)になりたいのならば、安易に解法に頼らず、できるだけ自力で考えるようにすべきだろう。そしてその上で、入試対策として解法(=他人の考え)を学ぶ。自分で苦労した後であれば解法の価値も実感できるし、記憶にも残りやすくなるはずだ。

蛇足だが、いわゆる「数学は暗記だ」においても理解は必須とされる。こういう解法依存型の方法を高校生などが使うべきどうかは上に書いたとおりだが、語学に適用するのは問題ないと私は考えている。文法規則を自分で考えつく必要性は少ないからだ。ただし、文構造の体系的理解だけは丁寧にやるべきだ。

(以上、すべて140字ずつになっている。)

posted by 物好鬼 at 11:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

英文法学習に気乗りがしない大学受験生へ

Facebook 上の某公開グループで、「英会話は得意なのにそれを大学入試では評価してくれない」「どうして英会話を軽視して文法ばかり偏重する人が多いのか」「英会話は社会で役に立たないのか」と不満を述べている浪人生がいたので、私なりにコメントしてみた。
(コピペするのは私のコメントだけなので話の流れがわかりにくいかもしれないが、そこはご容赦を。)

経験者ならわかるはずですが、文法も発音も正確な方がコミュニケーションの質を高めてくれますよ。そもそも「文法をやりすぎたから話せない」なんて人がいるんでしょうか? 真実は「話す練習をしなかったから話せない」でしょ。

話せるようになるためには話す練習が必要ですが、そのとき、文法を学んだ人は学んだ文法を活かすことができますが、学んでない人にはそれができません。だから私は文法を重視します。発音も同様です。

だとしたら、文法についても(発音についても)、それをやらない理由を探すより、やる理由を探した方がいいと思うんですけどねえ。受験生ならなおさらですよ。

冒頭の質問に「皮肉にも英語の中で1番得意とする英会話だけ受験の役に立たず、とても悔しいのです」とありますが、そんなのは普通のことですよ。私は数学では特に記号論理学や集合論に興味がありましたが、それらが入試で問われることはありませんでした。趣味の武道なんて科目自体がありません(笑)。

やや極端な物言いに聞こえたかもしれません。しかし、入試であれ何であれ、試験対策は試験に合わせてやるしかないのですから、文句を言っても始まりません。社会に出てからの仕事もそうです。相手に合わせるんです。それでも今後は入試英語も4技能化が進みますから、状況は大きく変わるだろうとは思いますが。

他のスレによると質問者さんは時事問題について話すのにあまり困らないとのこと。もしそれが事実であるならば、私なんかよりも高い英語力を持っていることになります。そのくらいの英語力があれば、入試で問われる他の分野(読解や文法問題など)もあまり苦労はしないはずです。となれば、必要な部分だけ対策すればよいだけの話ではないでしょうか。

数学なんかもそうですが、人間は自分が苦手なものの価値を低く見る傾向があります(酸っぱいブドウ)。もちろんその逆の「甘いレモン」というのもあります。ここで私にハッキリと言えるのは、「○○が役に立つ」と実感できるのは、それをやった人だけだということです。

私も浪人経験者ですが、入試を甘くみたらダメです。

来年また大学を受験するんでしょ? ならば出題内容に不満を言うのは時間のムダです。そんな時間があったら1問でも正解できるように努力することをオススメしますよ。○○さんの実力があれば、それほど時間はかからないはず。そして、自分が成し遂げれば、後輩に対して適切なアドバイスをすることも可能になります。

これは社会に出てからもそうですが、人間は「やらなくてはいけないこと」と「やりたいこと」と「実際にやれること」の間に大なり小なりギャップがあるものです。これはどうしても避けられません。

そんなとき、そのギャップを広げることばかりしていたら目標から遠ざかってしまいます。それを避けるためには、「やらなくてはいけないこと」に少しでも価値を見出すように心掛けることです。そうすれば、目標到達(受験なら合格)は近付きます。

基本的に私は受験生の味方ですから、○○さんの受験も応援しています。しかし、あくまでも「基本的に」です。受験対策と真摯に向き合わない人は応援しません。

※浪人時代の私が「受験対策と真摯に向き合」っていたかと言われると必ずしもそうではなく、受験勉強以外のことに割いている時間の方がはるかに長かったのだが、上はあくまでも一般的な受験生に対するアドバイスとして書いている。
 とは言うものの、かつての私のような(=塾・予備校には行かず、自宅で哲学だの武道論だのの学習に多大なエネルギーを投下している一方で、肝心の受験科目は基礎・基本を中心にして過去問演習はほとんどせず、受験するのは第一志望の東大だけ、という)受験生がもっと増えれば面白いだろうなあ、という気持ちは今も持っている。

posted by 物好鬼 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月03日

勉強本の選び方

予想どおりと言うべきか、映画公開を機に『ビリギャル』が叩かれている。発刊当初からいろいろ言われていた本ではあるが、「映画化」という一種の成功に結びついた点が更なる反感を招いているのだろう。宣伝文句に問題がないとは思わない(むしろ少なからずある)が、ここではこの作品自体にはあまりこだわらない。

一般的に言って、勉強本とか合格体験記の類は「受かったもん勝ち」「書いたもん勝ち」なところがある。これは決して褒められた話でないのだが、30年前も現在も大差ない。いずれにしても読む側には相応の注意が求められる分野なのだ。カジュアルなテーマのように見えながら、的確な評価を下すことは実に難しい。

その意味からは、勉強法などに関する本はできるだけ現物を見てから購入した方が安全だと言える。最近は Amazon などを利用する人も増えているが、ネットを限定的にしか信頼しない(と同時に幸運にも都心近くに住んでいる)私は、今でも書店通いを続けている。結果、この作品については軽く立ち読みしただけで終わった。

もちろん、地理的あるいは時間的事情で Amazon などを利用せざるをえない人は多かろう。しかしそういう場合でも、発行直後に飛びつくことはできるだけ避け、カスタマーによるレビューを参照した方がよいと思う。それも★1つのものにも目を通すようにする。レビューにはステマやネガキャンも少なくはないが、いろんな見方がわかって面白い or 勉強になる面もあるはず。話題作ともなるとレビューの数もかなり多いことがある(『ビリギャル』は現時点で269件ある)が、新しいものだけでも読んでみることをオススメする。もっとも、潤沢な予算に恵まれている人は迷わず購入すればよい。

今回の騒動で思うのは、多くの人が「本当に "ビリ" から "難関" を突破した話」を読みたいと思っているんだろうなということ。しかし、<夢を見たい>という願望が選択を誤らせるケースも少なくはない。もっともこの点は私も例外ではなく、過去にたくさんの失敗をしながら学んできた部分が大きいし、それは勉強本の選択についても言える。

実のところ、私も最近は(歳のせいか?)少しずつ冷静になってきたようではある。それでも(というより「それだけに」かもしれないが)現状打破・限界突破のためには<夢を見たい>という願望もとても大事なのだということを再認識しつつある。現状に慣れすぎることに対する反省とも言える。

ただし、本からの情報収集に関しては、安直なノウハウ本ばかりでなくお堅い学術書にも目を向けるようにしている。また、自分でやって確認することも重視している。こういうテーマでも各種のバランスが大切だと考えるからだ。

読者各位におかれては、どうかリアル店舗で良書を見つけられんことを、そしてよい結果に結びつけられんことを……と締めくくってみる。

※関連記事
 「学習法に関する本の読み方」
 「上達論の参考文献など」

posted by 物好鬼 at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月23日

英語教育はヨリ大きな枠組みの中で考えるべし

これは英語教育に限らないが、学校における教科教育は「(公)教育とは」「学問とは」「いわゆる実学・虚学とは」などを踏まえる必要があり、公教育全体は「社会とは」「人間とは」「国家とは」などを踏まえて考える必要があるはずだ。なのに、昨今の英語教育に関する議論では、こういう大きな観点に触れる人はあまりいないように思う。私が知らないだけかもしれないが。

英語において実用性を重視することは(数学と同様の意味で)許容されるし、必要ですらあると私も思う。しかし、注意すべき点が少なくとも2つある。

その1は、英語教育改革は他の科目に皺寄せがいかない範囲で行うべきだということ。「身に付いていない生徒が少なくない」という問題は、他の全ての科目について言えることだからだ。その点、英語教師はどうしても英語の重要性を強調しすぎる傾向がある。端的には「国語も数学もやれ!」と言いたい。これは大人になった英語教師も例外ではない。

※国語や数学といった科目をどのくらいやるべきかだが、センター試験で平均点程度にすら達しないのでは話にならないだろう。英語教師は一般人よりも英語が得意だろうが、その英語力を身に付けるために他の科目を犠牲にしすぎているとしたら、それは高校生たちにとって適切なロールモデルとは言えまい。その意味で、センター平均点というのは一つの目安になるだろう。もちろん、これは他の科目についても同様だ。

その2は、英語が持つ自然言語としての特殊性を考慮すべきだということ。これは、母語というものが精神活動と不可分一体であること(これは数学などにはない側面である)からくるものだ。もちろん英語は大半の日本人にとっては外国語だが、英語を母語とする人は世界中にたくさんいるのだから、「英語はコミュニケーションの道具だから通じればよいのだ」ではなく、通じることを最低ラインとしたうえで、感情や論理にも可能な限り配慮した指導をすることが大切になってくるはずだ。

※これは数日前に立ち読みした本に書いてあったのだが、エリート層においては、発音は少しくらいおかしくても問題とされないが、文法を間違えると教養を疑われるとのこと。もちろん、カジュアルな会話はその限りではない。

以上、自分の英語力を棚に上げて、書きたいことを書いてみた。

posted by 物好鬼 at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

基本や形(かた)の重要性について(ツイート集)

ここ最近のツイート(いずれも140字ちょうど)の中に「基本や形(かた)の重要性」に関するものがいくつかあったので、新しいものから順に並べてみたい。特に整理されたものではないが、何らかの food for thought になればと思う。

発音をよくしたいのは、半分は他人(聞き手)のため、残り半分は自分のため。私みたいな性格だと、「自分のため」に力点を置いた方がうまくいく気がする。「自己満足」とも言うが、他人迷惑ではない以上、遠慮する必要はあるまい。僻むような手合いは遠慮なく放置。文法も同じだ。残るはボキャビルか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585256364462608384
上達のための最大のカギは、自分の弱点を明確にして克服することだ。仮に文法が弱い人であれば、文法を学ぶことで飛躍しうるだろう。しかし、たとえ自分がそうであっても、文法が他の人にも特効薬として機能するとは言えない。弱点には個人差があるからだ。それを無視して安易に一般化すると失敗する。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585012415173042176
This is a pen. という例文について「こんなの実際には使わない」と言ってる人たちは、小学校の算数の教科書に 2+3=5 とあっても「実際の足し算はもっといろんな組み合わせで行われるのだ」と文句を言うのだろうか。例は例なのだ。それを踏まえて各自が自分用に改造すればよい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584638854721708033
スラッシュに限らず構造解析系の作業というのは、@結果より方法を知ること、A自力でたくさんやること、B正確さを維持しつつスピードアップすること(同時に書く量は減ってくる)に注意することが大切だろう。その結果として書く必要性がなくなるのだ。数学の式変形などにも同じことが言えると思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584574379842867200
世の中には異様なほど頭の回転が速い人がいるが、中身の正しさは別の問題。長期的観点からは、少しくらい時間がかかっても的確な判断を下せるほうがよい。スピードは後からつければ足りる。これは言うほど簡単ではないが、スピードに慣れたあとで緻密さを高めるのは、多くの人が想像するよりも大変だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/583408321299816449
ディクテーションは時間がかかるが、相応の意義がある。書き出すことで一つひとつの文字・音と向き合うことができるからだ。これと同じことが英文和訳についても言える。助動詞の意味などは特にそうだが、母語で実際に書いてみることでニュアンスと向き合うことができる。内容面のディクテーションだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580865875324080128
「中高で6年やっても話せるようにならない」から「中高の英語は役に立たない」と帰結するのは短絡的だ。「中高の英語すらできていない」という可能性を忘れているからだ。実際のところ、まともなやりとりには中学英語の全体と高校英語の大半が必要だろう。ただ、それらをどう学ぶかはまた別の問題だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580394566752157696
かつてコンビニ店員などが「マニュアル人間」と呼ばれ揶揄された。これは本来なら「あらかじめ決められたことすら高々表面的にしか習得していない」と考えるべきところなのに、「決められたことをする=悪」と考える人もいた。知識を軽視する現在の風潮も同じだ。「守破離」の智恵はどこに行ったのか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/578331286944677889
私は「知識も思考力も」という考えだ。もし答えを自力で見出す努力を避けて他人の手になる答えに頼るような学び方ばかりしていたらどうなるか? その意味で、知識の集積を一時的に制限して思考力の訓練に集中する時期はあってよい。だが、最終的には膨大な知識を習得しないと文化遺産は継承できない。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577436690060472321
野球の練習は、ウェアに着替え、道具を持ってグラウンドに出て体をほぐすだけでなく、お手本を理解して真似るところまでが準備だろう。そこから後が練習だ。語学なら、辞書を引くのはもちろん、テキストの内容や音声などを押さえるまでが準備となる。だから、そこでやめたらほとんど何も残らないのだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577244841555292160
書店に行って学参をパラパラめくることが多いのだが、非常にわかりやすく書かれたものがたくさんある。こういうのを一通り買い揃えて本棚にさりげなく並べておくだけでも、そこそこの教育的効果があるのではないか。もちろん勉強以外でも同じだ。人間だけでなく、書物の交際範囲もとても大切だと思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/576245467111038977
「英語がうまくならないのはネイティブが使うような本物の言い回しを知らないからだ」というのは、「武道がうまくならないのは達人の師匠から秘伝の技を習ってないからだ」というのに似ている。そして多くの英語学習者が「秘伝の技」を求める。しかし、両者の本当の共通点は、基本訓練の重要性だろう。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/570183042553094145
形式より内容が大事とよく言われるが、内容が大切であればこそ、その内容に見合った形式を与えることも大切であるはずだ。それがまた内容への更なる切込みを可能にしたりもする。武道にしても数学にしてもそうやって発展してきた面があると思う。語学なら、内容に逃げず、文法・発音なども学ぶべきだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568943233545342976
知識については、@どんな知識を持っているか、A持っている知識をどれだけ使えるか、B持ってない知識をどうやって獲得するか、の3点を考慮する必要があろう。出題範囲が決まっている試験ではBの評価は難しいが、学者になりたい人は注意すべきだ。一方、大半の受験生は@とAの差がわかれば足りる。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568213805706014720
英語学習中なのに文法書を読んでないとおぼしき人が少なくない。どうせ文法と無縁ではいられないのだし、学ぶのであれば手元に本があった方が便利だ。あと、「文法や文法用語が使えるのはカッコイイ」と思えることも結構大事だと思う。必要性には個人差があるとしても、少なくともポジティブでいたい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/566014405830115329

posted by 物好鬼 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月04日

学習のバランスを変えてみる

医学教育に関するブログ記事を読んでいたら、基礎医学で覚えさせられる量が膨大なんだという話が書かれていた。たしかにそういう話は以前にも聞いたことがある。

記事を読みながら、私は医学部に行かなくて正解だったと思う反面、ブログ主らが体験したような機会に無縁なままここまで来たことは大きな損失でもあったな、とも思う。

もっとも、30年前の私が医学部に入っていたらはたしてその「機会」から学べたかどうかとなると、それはかなりアヤシイ、というか、まず間違いなく無理だっただろう。その原因は、私の「頭の使い方」の傾向にある。

その傾向(偏り)は中学時代にはかなり明瞭になっていたもので、大学受験時代には「共通一次における全失点の7割が社会によるものだった」というかたちで表れていた。しかし、私がその「偏り」を非常に大きな問題点として明確に認識するようになったのは、実はごく最近になってからだ。

学校教育の範囲に限定しても頭の使い方は科目ごとに違っていて、それは中学〜高校〜大学と進むにつれて鮮明になってくる。複数の科目に同じ方法を適用することもある程度は可能だが、レベルが上がるにつれて徐々に歪みが大きくなってくる。それは英語についても同様で、英語学習法についてこの観点から見直してみると、いろいろ見えてくるものがあるはずだ。

学習者として大切なのは、遅すぎない段階でその違いを認識し、対処できるかどうか、だろう。もちろん、指導者にとっても同様だ。そして対処するのが遅れすぎると、その遅れを取り戻すのは困難になる。蛇足だが、いわゆる「十で神童…」もその一種なのではないだろうか(ただし、私の場合とは逆向きの偏りではある)。

勉強とは、ことほど左様にバランスが大切なものなのだ。そしてこれは私にとっては今年の最重要課題でもある。「五十の手習い」という言葉もあることであるし、あえて新しい挑戦をしてみたいと考えている。その詳細も含め、今年の抱負については近々このブログに書くつもりでいる。

posted by 物好鬼 at 20:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月01日

酷使したい本のカバーは外す

(Tweet より)

私の場合、酷使したい本についてはカバーを外すことが多い。これは黒川康正氏が『資格三冠王』で勧めていたから。だが、カバーを付けたまま熟読した本も私の手元に何冊かあるので、カバーを外すことが必須とまでは言えない。それでも「この本の寿命は俺の手で全うさせるぞ!」という意思表示にはなる。

そういえば、カバーをとったときの表紙が水分に弱い作りになっていることが多い。『DUO 3.0』や『速読速聴・英単語』シリーズなどは数少ない例外だ。私の『英文構造図』第3版は最初からカバーがないが、そのかわり表紙はつや消しのコートを選んだ。酷使してもらうことを前提に作ってあるのだ。

では、水分に弱い表紙についてはどうするかというと、市販のフィルムを貼るとよい。私の場合、これも黒川氏の勧めで「フィルムルックス」という製品を浪人時代から使っているが、類似品でも大丈夫だと思う。大きめの本にうまく貼るには多少のテクが要るが、そういうことは失敗しながら覚えるのがよい。

posted by 物好鬼 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月27日

文字言語が音声言語習得の邪魔をする

Facebook を見ていたら、英語仲間の一人が非常に興味深い投稿をしていた。以下はそれに対する私のコメント。



○○さんの主張にだいたい賛成ですが、「書き言葉はおまけのようなものです」は言い過ぎでしょう。むしろ、人間は文字言語のおかげで文化・文明を発展させることができたのですから、「おまけ」と呼ぶには重要性が高すぎます。しかし、そこにこそ問題の根源があるのだと私は思います。

現代においても赤ん坊は文字が使えません。そしてそのおかげで何の問題もなく母語(音声言語)を身に付けることができるわけです。

一方、文字が使えるようになった後は、どうしても書かれた情報に頼ってしまいますね。文具や印刷物などが有り余るほど普及していることがそれに拍車を掛けています。計算するのでも、暗算よりも筆算の方が簡単かつ正確ですし、そのための紙がいつでも手元にあります(今では電卓が身近すぎて筆算すらほとんどしなくなりました)。

文字言語には正確性や保存性などのメリットがありますから、高度な社会生活を営むには不可欠です。そのせいか、入学試験もほとんどすべての科目が紙の上で行われていますし、その準備としての日常学習も試験対策も基本的に同じ方法をとっています。そのため大半の日本人(私を含む)は「視覚に頼らずに頭を使う」ということに慣れていません。

外国語学習についても同様で、おそらくは単に他科目の場合と同じようにしているだけなのでしょう。ただし、日本人の場合は漢文学習の影響もかなりあると思います。そんな視覚に依存した英語力でも入試は何とかなるのですから、入試の改善は確かに急務であると言えそうです。

私が3日前に書いた文章も参照してください。
http://dokomade.seesaa.net/article/405965715.html

posted by 物好鬼 at 12:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月24日

ソラで聞き、ソラで考え、ソラで言う

「学校英語は英文和訳中心だから生徒は話せるようにならない」という説がある。別に間違ってはいないと思うが、ここでは少し違う観点も挙げてみたい。

前提として「英文和訳」の現状を確認しておく必要がある。これは実際には「紙の上で英文を読み、紙の上で和文を書く」というかたちをとっている。つまり、単なる「英文和訳」ではなく「紙上での英文和訳」という特殊性を持った形態なのであり、「口頭での英文和訳」は検討の対象から漏れているのだ。逆工程つまり「和文英訳」についても似た状況がある。

ところで、入試科目には英語以外にも数学、国語(現代文・古文・漢文)、理科(物理・化学・生物・地学)、社会(日本史・世界史・地理・政治経済・倫理)といったものがあるが、これらのうち(英語のリスニングを除いた)全科目に共通していることがある。それは何かというと、「紙の上で問題を読み、紙の上で考え、紙の上で解答を書く」ということだ。

この状況のもとでは、日常学習も受験対策も「紙の上で…」となることは当然のことであり、学校の勉強は紙(視覚)に頼りっぱなしとなる。もちろん、特別な必要性が生じない限り、日常生活や仕事でも同じことをしてしまう。

しかし、その結果として「紙がないと簡単なことしか処理できない」頭になってしまってはいないだろうか。ちょっと試してみればわかることだが、紙に書けばかなり複雑な計算ができる人でも、紙に書けない状況下(つまり暗算)では2ケタ同士の掛け算にすら四苦八苦してしまうはずだ。別に「複雑な計算でも暗算でできるようになるべき」と言っているのではない。「暗算に関しては、2ケタ同士の掛け算すら訓練の機会を逸している」ということが問題なのだ。つまり、ワーキングメモリの訓練について、我々はあまりにも怠けすぎなのだ。

計算の話は措くとして、言語活動においては「ソラで(=視覚に頼らず)考えた意見や耳から入ってきた情報などに対して適切な表現形式をソラで与え、それをソラで表現できる」ことが理想だろう。しかし、現状では「紙の上で考えたことをソラで表現する」ことすらなかなか難しいはずだ。

その主な原因は、そういうことに慣れるための訓練が不足していることにあると考えられる。これは私自身も例外ではない。この点については特にここ最近のディベート学習などで痛感させられているが、その一方で予備校講師や政治家などの言語能力に感心することがたびたびある。

しかし、いかに訓練が大事だと言っても、基礎力に欠ける人がむやみにディベートなどに挑戦したところで玉砕するばかりであろうから、それだけではたいした上達は望めない。しかし、ここにこそ「学習法」や「上達論」の存在意義がある。

さて、英語で話すときに必要とされるものは何かというと、「言いたいことを適切な英語にする能力」は当然として、他に「言うべき内容を考え、決める能力」と「言うべき内容を頭の中に保持しながら(必要があれば修正などもしつつ)口に出していく能力」なども要求されるはずだ。ところが「視覚に頼りながら(たいていは時間をかけて)処理する」タイプの勉強ばかりをしていると、ワーキングメモリやリアルタイムでの反応力といったものが鍛えられないままになる。これでは英語で話すことがスムーズにいかないのも無理はない。

冒頭の問題に戻るなら、日本人が英語を話せるようにならない理由としては「英文和訳中心だから」以外に「普段の学習において視覚に頼りすぎるから」ということも含める必要がある、ということだ。そしてこれは、英語に限らず日本の学校教育全体に広く見られる問題だと私は考えている。

とは言うものの、学校に期待していても変革の実現はいつになるかわからない。幸いなことにこの「ソラで(視覚に頼らず)」は個人でも簡単に訓練できるので、各自でやってみるのが現実的だろう。以下のいくつかの例を挙げてみるので参考にされたい(英語でもトライできるはず)。

 (1) 他人が作った文や文章を暗唱する
  (内容中心にするか具体的表現法まで守るかは目的次第)
 (2) あらかじめ(紙上も可)考えた内容について自己講義する
  (物語的なものや論証などが使いやすく実用的)
 (3) ソラで考える
  (紙を使わない思索)
 (4) ソラで考えながら話す
  (即興スピーチ)
 (5) ソラで聞き、ソラで考え、ソラで応じる
  (ディスカッション、ディベート、ネゴシエーション)

いずれも昔から知られているありふれた作業ではあるが、こういったことを日常的に訓練するだけでも大きな違いを生むはずだ。

英語の基礎学習に絞るなら、例えば次のような課題はどうだろうか。

 (1) 簡単な例文を聞いて理解する(視覚に頼らずに)
 (2) 聞き取った例文をそのまま言ってみる(同上)
  (同時リピート(シャドーイング)ではなく逐次リピート)
 (3) 例文の一部を変えて言ってみる(同上)
  (置換、転換、その他)

最近の私が考えているのは、以上に述べたようなことだ。理論的な学習を深めるのは当然だが、「理論との実践との統一」を標榜する私としては自ら実践してフィードバックを得ることが大切だと考えている。「基礎を侮らず、さりとて変化を恐れず」をモットーに取り組んでいきたい。

※タイトルが五・七・五になっているのはただの偶然である。

posted by 物好鬼 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月05日

古いことと新しいこと

新しいことを学ぶときは自分自身の問題に引き付けて考えるとよい、といったことがよく言われる。具体的な問題意識は確かに役立つし、興味関心が強い方が熱心に根気よく学ぶことにもつながるだろう。

しかし、その「新しいこと」自体を本当に吸収したいのであれば、自分の具体的な問題の解決に役立てようといった考えを脇に置いて、与えられた素材と虚心坦懐に向かい合うことが大切だ。

武道でもそうだ。私のところに来る人の中には先に他の流派(バレエや体操なども含め)を学んでいる人がいる。私がときとして彼らに言うのは「自分がこれまでに学んできたことを役立てようと思いすぎない方がよい」ということだ。

更に私は続ける。「自分がこれまでに学んだことを役立てようという気持ちが強すぎると、今学ぼうとしている『新しいこと』が入って来づらくなる。それを避けるには、一旦は『これまで学んだこと』を忘れ、今ここでやっていることに向き合うこと。とは言っても別に『これまで学んだこと』が消えてしまうわけではないから、その中に役立つ部分があれば新しい素材と次第に繋がってきて、役立てられるようになる」と。

ここまで読んできたところで「それは心理学でいうところの順行抑制とかのことか?」のように考えた人は注意が必要だ。理由は言うまでもあるまい。


補足1)

関連して考えたのが、「(たとえば)三角関数は何の役に立つんだ?」という発想方法をとる人は、数学(この場合は三角関数)が苦手でありつづける可能性が高い…のではないかということ。

数学などはある種のゲームのように、与えられたものを素直に受け取って楽しんで学べるようなタイプの人間が一番伸びるのではないだろうか。何の役に立つかなどということは、ある程度学んだ後に考えるくらいでちょうどいいのではないか。

パソコンにも語学にも(程度の差はあれ)同じことが言えると思う。

補足2)

相手(教科書も先生も)が提供する世界に身をゆだねる、という感じだろうか。学びのときに斜に構えているといいことはない。それは充分な実力を付けたあとで批評的に行うべきこと。

posted by 物好鬼 at 05:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月23日

ささやかな習慣の話

最近の私は遅くとも6時には起床しているが、出社に関してはおそらく8時に起床しても充分間に合う。そこをあえて2時間ほど早く起きて、浮いた貴重な時間を Facebook と Twitter に充てているわけだ(笑)。

さて、これは10年くらい前だったろうか、当時はたしか7時に起きる生活をしていたのだが、ある外国人の友達が遠距離通勤の関係で毎朝5時に起きているという話を聞いた。

 「5時起きかあ。ちょっと試してみるべかな」

と思った私は翌日(たまたま月曜)から5日連続でチャレンジしてみた。

しかし、二度寝せずにすんだのは1回だけ。成功率2割。起きないと他人に迷惑がかかるというのなら別だろうが、自分一人だとどうしても甘えが出る。当時は SNS もなかったから、「明日から5時に起きるぞ」なんて宣言もしていない。

 「こりゃ思ったより大変だなあ」

というのが正直なところだったが、それと同時に

 「6時起きだったら全然ラクなのに」

とも思った。そして翌週から6時起きに変更。5時起きにトライしたあとだったので、これは何の問題もなかった。

ただ、トイレに行きたくなったりといった理由で6時になる前に目覚めてしまうことがある。そんな場合にはたして二度寝すべきかどうかと考えた。最近では次のようにしている。

 ・30分以上早く目覚めた場合は任意
 ・30分以下ならそのまま起きる
 (「30分ちょうどの場合はどっちだ?」などと言ってはいけない。)

11月に入ってからは仕事の行き帰りに合計5時間程度歩いている。そのおかげで適度な疲労もあるため夜更かしも減り、目覚めもよくなってきた。

ちなみに先週の火曜と今週の金曜(つまり昨日だが)は3時20分に起きた。これはやや極端な例ではあるが、習慣なんてそんなもんだという話。

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2013年05月12日

上達論の参考文献など

雨の中、昨晩の稽古(武道の)にやって来たのは女性1名のみ。稽古自体は雨でできなかったので、技とか上達に関して2時間ほど喋りまくった。(最初の方では健康法の話とかもあった。)

内容は、私がここ数年温めてきたものが中心。それはすでに数百枚のメモがあって、それなりに体系化されてきてはいるものの、まだ整理した原稿にはなっておらず、特に核心的な部分についてはこのブログにも一切書いたことがない。そういうテーマを私自身の具体的な経験と関連づけながら説明してみた。

弟子の言うところによると、今回話した内容は彼女自身の問題意識とマッチしていたらしく、かなり興味深く聞いてもらえたようだった。肝心の内容については……そのうち書きたい(笑)。

以下に、その弟子のために参考文献を少し列挙しておく。それぞれに長所・短所がある以上、あくまでも「参考」にとどめるべきものではあるが、これらはいずれも読みつぶすに値する良書でもある。入手困難なものもあると思うが、機会があればお読みいただきたいものばかりである。



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2013年05月05日

教えるよりも学ばせる 〜学習主体のあり方〜

(Facebook に書いたもの。)

先週の(武道の)稽古には年配の新人さんがやって来た。その日は見学ということだったのだが、「ちょっとやってみますか?」と言ったら乗ってきたので、六尺棒の回し方を教えてみた。

私はこれまで何十人もの初心者に同じことを教えているし、一人ひとりの得手不得手に応じて最短距離で教えるだけのノウハウもあるつもりだが、それでもさすがに今回の見学者は少し年配なので若い人よりは手間取るのではないかと思った。しかし実際には、これまで教えた中でも特にスムーズに習得した。

そして、昨日の稽古。その新人さんも今回は正式参加した。最初の課題は先週教えた「棒回し」。たとえ一旦は「習得」したことであっても、1週間も放置していると信じられないくらい抜け落ちてしまうものだ。そこで今回は、「先週はかなりいいところまで行っていたので、そのレベルまで自力で復原するように」と指示した。(実は先週の段階で今回の指導を予測して教えているのだが、教えられた側はそんなことは知らない。)

彼は黙々と棒を回し続けた。私はアドバイスを一切せずに見守った。最初はぎこちない動きだったが、30〜40分も続けているうちに先週達成したレベルに近いところまで戻ってきた。

この新人さんはなかなかストイックな稽古に耐えられる人だ。これも一つの<個性>なのだろう。ちなみに、こういうタイプの人は、基礎の動きはうまくなる。ただし、それだけでは創造性を鍛える機会が不足してしまうから、いわゆるマニュアル人間で終わる可能性も否定できない。

それをカバーするために行っていることの一つが、上記の「自力で」という部分。指導者として「丁寧な教え方をする」のはとても重要なことではあるが、それ以上に「教えすぎない」ということを私は重視している。学習者が自分で答えを見出せるようにように日頃から訓練しておけば、基礎から応用に進むときにぶつかる壁を低くすることができるからだ。

これはとても大事なことなのだが、これを実行するには指導者と学習者の双方に忍耐力や論理的先見力が要求されるし、ときには耐えられずに逃げてしまう者もいる。しかし、学びの成果を高めるには、この種の苦労は避けられないはずだ。「聞き流すだけで英語が…」ではないが、自身に対する負荷が小さすぎると、いつまでたっても鍛えられないからだ。

もちろん人間である以上、誰にでも(もちろん私にも)分野・テーマによる向き・不向きというものがある。一方で「一事が万事…」ということも事実だろう。言い方を変えるなら、向き・不向きについても学習者一人ひとりの中に<個別性/特殊性/一般性>が階層構造を成していて、その全体がその人の<学習主体としての個性>であるわけだ。

学びに関しては<対象>(往々にして教材)や<方法>ばかりが注目され、この<学習主体としての個性>が説かれることは比較的少ないと思う。しかし、「自らの中にこの<学習主体としての個性>をいかに創造するか」という観点から学習・指導のプロセスを見直してみると、日常に近い部分でのマメな積み重ねが極めて大きな影響力を持っているという事実を痛感させられることが多いはずだ。

いわゆる<才能>も<学習主体としての個性>の一部であろう。その大半は<無意識的な積み重ね>により形成されるものだと私は考えている。つまり、形成過程が無意識であるなどのせいで原因がわかりにくいという特殊性はあるとしても、他の<学習主体としての個性>と本質的に違うわけではないということだ。少なくとも神秘的なものではない。

となれば、われわれ凡才が<才能不足>を補うためにとるべき方法は、<無意識的な積み重ね>の逆、つまり<方法論に裏打ちされた意識的・目的的な努力の積み重ね>だろう。そして、それを可能とするような<学習主体としての個性>を創造することこそ学習・指導の基礎として特に重要なテーマだ、ということになるのではないだろうか。

バックボーンとなるべき<方法論>を構築し具体的素材を準備するのは、研究者・指導者の役目だと思う。一方の学習者は、何よりも<学習主体としての個性>を創造し、「学習」を実践することが求められる。この両者を区別することは極めて大切だ。

もちろん私自身は両方をやりたいと考えている。いわゆる「理論と実践との統一」であり、30年来の関心事でもある。このたびの大掃除(2週間前から行っている)もそのための環境整備なのだ。

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2013年04月06日

学びの軸を作る

私が中学・高校〜浪人時代にやった数学の勉強については「私が東大合格のためにやったこと・1(数学)」にも少し書いた。そしてそこでは「指数関数・対数関数・三角関数が面白く感じられた」ことを一つの転機として挙げているのだが、この点に関して少し補足しておきたい。

それは「学びの軸を作る」ということ。数学の場合であれば、幾何でもベクトルでも確率でも、自分の好きな三角関数に可能な限り結びつけて考えてみたのだ。実際、数学の多くのテーマが三角関数と関連しているため、この方法はとても有効だった。(高校数学に三角関数と無関係なテーマがあるのかどうかは確認していない。)

三角関数さえやれば高校数学は攻略できる、ということではもちろんない。三角関数という(自分が強い関心を持っている←ここ重要)テーマと関連づけることによって、他のテーマが身近に感じられるようになるのだ。これは少なくとも私には大きな効果があって、ほどなく高校数学全体が得意科目になった。もちろん、三角関数以外のテーマを軸にしてもよいし、最悪の場合(?)数学の外に「軸」を置くことも不可能ではない。

当然のことながら、これと同じことを英語についても行っている。ここ最近は「英文構造」と「発音」が軸になっているが、このうちの「英文構造」はさらに「プログラミング」や「論理学」といった学生時代からの関心とも結びついている(もともと文法は得意ではなかったし、細かい知識については今でも少しアヤシイ)。

現在はそれらを踏まえて「語句」「言い回し」というテーマに本格的に進んでいこうとしているところだ。情報量が多いため相当な時間・労力がかかるテーマなのだが、あいにく「大量・正確な記憶」というのはこれまでの私があまり力を入れてこなかった分野でもある(ただし歌詞は例外)。

そのあたりをうまく攻略するためにも、何か新しい「軸」を追加したいところだ。おそらくは、古くからの哲学的関心を利用することになると思う。構造図同様、何らかのツールを用意することも考えている。(こうやっていくつかの「軸」が出揃ったときに大きな力を発揮するのだ、と信じたい。)

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2013年02月24日

チャンスはピンチの顔をしてやって来る

「テンプレートエンジン」と呼ばれるものがある。それは、「テンプレートと呼ばれる雛形と、あるデータモデルで表現される入力データを合成し、成果ドキュメントを出力するソフトウェアまたはソフトウェアコンポーネント」(Wikipedia)のことである。私はこの用語こそ知らなかったが、内容的にはほぼ同じことを10年以上前から JavaScript でやっていた。

そのキッカケは、e-Learning 教材制作の時間が圧倒的に不足していたこと。その時点での方法(ほとんどゼロだったが)では、制作スタッフたちが他の仕事をストップしなければ間に合わないくらいの作業量があり、たとえ間に合ったとしてもかなりのストレスが予想されるような状況だった。各ページの中に JavaScript による機能を含めようとしたことがその原因だったのだが、そのような仕様を考えたのは他でもない私自身だった。

制作リーダーの私は頭をかかえた。よい解決策が見つからないまま冬期休暇に入ったが、その直後に「機械的な作業は機械にやらせればいいじゃないか!」と閃いた。そして、ネット上で見つけた簡単な記述を参考にしながら、4日4晩にわたって悪戦苦闘した(食事と睡眠は欠かさなかったが)。

その甲斐あって、休み明けには職場の仲間に解決策を提示することができた。ストレスも少なく、はるかに短い時間で制作できるようになった。皆が驚いてくれたのが何とも心地よかった(笑)。

ちなみに、その新作ツールの名は「ページネータ」だった。Pagenation という語の派生語。

そのノウハウはその後もいろいろテーマに活用しながら進化を続け、結果的には何百枚もの HTML をボタン1つで書き出せるようになった。もちろん、他にもさまざまなツールを作成して、仲間に使ってもらった。

そうやって学んだことの多くは現在も違う職場で活用しているし、英文構造図のツールにもいろいろなかたちで含まれている。追い詰められて工夫したことが、計り知れないほど大きな成果を生んだわけだ。

「チャンスはピンチの顔をしてやって来る」とはよく言ったものだと思う。

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2013年02月08日

上達論のノートをどうするか

3連休の準備という意味もあって、これまでに書きためてきた上達論関連のノートを引っ繰り返してみたが、あまりの量の多さに途方に暮れているような、いないような。

紙のノートが500〜700枚くらいあるだろうか(数える気にもならない)。まずをこれを並べ替えたいのだが、最大の問題は、並べる順序が確定していないこと。

オリジナルな部分が多いから、ということもあるが、それだけではない。端的には、

 「技の過程的構造」という流れ
 「上達の過程的構造」という流れ
 「一般−特殊−個別」という関係

という3つの柱を内包させながら、なおかつ「編−章−節…」というツリー構造に押し込まなくてはならないからだ(もちろんハイパーリンクによるクロスリファレンスは活用するつもりだが、それはツリーにしたあとの話)。

他にも、ブログに書いたこと、拙著に書いたこと、TreeMemo というアウトラインプロセッサ(注)にまとめつつあったことも体系に組み込む必要がある。
注:「コンピュータで文書のアウトライン構造(全体の構造)を定めてから、細部を編集していくために用いられる文書作成ソフトウェア」(Wikipedia)

TreeMemo のノートは、最後にさわってから1年半もたっている。内容の再確認からやりなおしだが、このときに作った目次は今後の整理に役立ちそうだ。

というわけで、ノートの整理を本格的にやったら、とてもとても3日で終わるようなものではない。整理を始めてからも内容は増えるだろうから、かなり長い期間を見込む必要があろう。

となると、急ぐのは得策ではない。まずはすべての内容をどこかに一元化していくなかで、使えるネタがあったらそれをブログに載せたり本に書いたりする…というやり方が一番現実的なのかもしれない。

さて、その「どこか」とは、いったいどこなのか?

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2013年02月05日

学習法に関する本の読み方

発音検定の後は池袋に行き、ジュンク堂とリブロで英語関係書を漁ってみた。2冊購入したうちの1冊は、英語学習法に関して書かれたものだった。著者は日本における同時通訳の先駆けの一人。

やはり、こういう<第一人者>による本には説得力を感じさせるものがある。実力者の経験は重要なものであり、学習者としては学ぶべきところも多い。自分で経験できないことについては特にそうだ。

しかしながら、この種の本を読む際には特別な注意が必要であることも否定できない。というのは、この種の本に書かれているのは、著者自身の個人的経験を基礎にしたものが中心だからだ。

そのため、「著者の考えはどのような事実に基づくものなのか」、そして「その事実というのはどのような条件のもとで成立したものなのか」といったことに注意して読む必要があるのだ。実際、まだ最初の方しか読んでいないにもかかわらず、条件が明示されていない論点がすでに2箇所ばかり見つかっている。

このように、読む側としては用心深く論理を抽出する作業(もちろん書かれてないことまで読み取らなくてはならない)が必須だ。それも、バランスを偏らせすぎないためには、自分なりの一般論を措定しながら幅広い素材について長期にわたって検討する必要がある。

なお、Amazon のレビューは星1つ・2つのものまで必ず目を通すべきだ。星5つのものは(己の支出が妥当だったと思わせてくれることもあって)気分よく読めるものだが、ときとしてサクラが書いたと思われるものある。逆もまた真ではあるが、両方を満遍なく読むようにすると比較的バランスをとりやすい。

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2013年01月20日

言語と〈言語規範〉

22年前に東大教育学部に提出した卒論より。

 言語とは表現の一種である。ここで表現とは、「精神のあり方を認識するための物質的な鏡」(三浦つとむ『認識と言語の理論T』p.31)のことであるが、言語においてはその表現と鑑賞とが規範に媒介されながら行なわれるという点に特徴がある。では、その〈規範〉とは何かと言うと、それは一般的には社会的認識の一形態であり、その人の行動を規定するようなものである。もっと言えば、各個人が行動するに際してその個の意志を「外から」規定してくるような、「観念的に対象化された意志」の一種である。そして、〈言語規範〉とは、言語活動(表現と鑑賞)を媒介するような規範のことである。
 さて、言語において〈単語〉と呼ばれているのは、表現者の1概念が表現されている部分=単位である。だから、いわゆる「単語を覚える」とは(これは外国語に限らず、学術用語などでもよい)、@何らかの情報を元にして概念構成をし、Aそれと語彙(単語の種類を把握した表象であって、これはこれで覚えなくてはならない)とを対応させて記憶し、更に、Bそれを元情報とは独立して使用できるようになる、という過程的構造を持った作業である。
 しかし、単語だけを覚えても不充分であることは言うまでもない。では、いわゆる「言語を習得する」とは何なのか、ということになるのであるが、これは上の議論を踏まえれば容易に予想できるように、〈言語規範の習得〉なのである。また同様に、その一部としての「単語を覚える」とは、「語彙を習得する」ということである。
 では、肝心の〈言語規範の習得〉とは何であろうか。問題は、その「習得」の意味である。
 普通、規範を「覚える」と言った場合、@法律の条文のように知識として覚える場合と、Aこういうときはこうしてしまう、というようにクセとして覚える場合との2形態があるであろう。そして、ここで問題にしている〈言語規範の習得〉とはAの方であり、@つまり〈文法の記憶〉は過程としてのみ認めるものである。しかし実情は……である。
 言うまでもなく、ここに誤解があるからこそ、子供だましでしかない「文法否定論」がまかり通るのである。別に文法が不要なわけでは決してなく、逆に、文法を意識しなくても文法にかなった言語活動ができるようになるまで自らを訓練する必要があるのである。そして、そのための最良の方法は、あくまでも意識的に訓練を行なうことなのである。

現在の私も基本的な考え方としてはまったく変わっていない。ただし、「言語を習得する」には〈言語規範の習得〉とともに〈それに対応した音声や文字をアウトプットできる運動能力の養成〉が必要とされるという点は付記しておく必要があろう。

なお、「@法律の条文のように知識として覚える場合」と「Aこういうときはこうしてしまう、というようにクセとして覚える場合」というのは、心理学の世界ではそれぞれ「宣言的知識」「手続的知識」と呼ばれているものである。

当時の私は南郷上達論と三浦認識論に心酔しており、心理学には(教科書や辞典は持っていたが)まったく依拠することなく理論構築をしていたため、上記のような表現になった。表現こそ自前のものではあったが、どのような学説に依拠するにしても、この2者の違いを知ることは学習について考える際に必須であると思う。

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問題演習の仕方

(Facebook に書いたもの)
NAVERに「大学受験や資格試験で役立つ!実際に試して効果があった暗記法3選」というのがあるのを見つけた。

リンク先のテーマは「暗記法」ということになっているが、その一番目については、同じようなことを私も数学などの演習でやっていた。私はマークシート向けの演習は全然やらなかったが、記述式での演習に際しては問題番号脇の余白に

 「完」
 「半」
 「ダメ」

と記入していた。もちろん各問が「完」になるまで解きなおしていたわけだ。(時間があれば2回連続「完」できるまでやるのが望ましいし、別解があるものはそれも攻略すべきだったと今では思っている。)

当時使った赤本『東大の数学 '86』(105問掲載)をめくってみると、最初から「完」の問題もあれば、6回目にしてようやく「完」に達した問題もある。最後まで攻略できなかった問題も3問あった(これは残り日数の関係で攻略を諦めたもの)。

たいていの試験では過去問がそのまま出ることはないが、同じ「発想」が使える問題なら珍しくない。だから、問題演習にあたっては個別具体的な解き方を表面的になめるだけでなく、その背後にある発想とかノウハウといった部分(特に基本事項への還元方法)まで確実に吸収するようにすれば、試験本番での役立ち方も違ってくる。逆に、解きっぱなしでは大した効果はない。

関連記事:私が東大合格のためにやったこと・1(数学)

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2012年10月13日

知識や理論を蓄えただけでは足りない

人類史上もっとも天才?との呼び声高いノイマン氏の伝説

知る人ぞ知る大天才の話。それほど詳しく書かれているわけではないが、私にとって興味深いのは次の部分。曰く、

「脳内には装着された面積1ヘクタールほどもあるバーチャル ホワイトボードがあり、ノイマンは、紙と鉛筆を使わず、この脳キャンパスだけで、人間が及びもつかない複雑で込みいった思考をすることができた」

心理学で言うところのワーキングメモリのことだろうが、1ha と形容されるのは凄まじい広さだ。かなり便利だったに違いない。

たとえたくさんの本や道具があっても、机が狭いと仕事しづらいものだが、それと同じで、どんなに豊富な知識や理論があっても、ワーキングメモリが鍛えられていないと、頭の良さが発揮されづらいようだ。

その意味でこの「1ha」というのは、ノイマンのすごさの基盤なのだろうと私は考えている。彼のケースが先天的な要因に基づくものだったのかどうかは素人の私には分からないが、後天的に強化できる可能性も少なからずあると信じたい。


現在の日本の教育では、数学でも英語でもそうだが、ある程度複雑な問題は紙の上でしか解かない。

それは正確さを担保するためには必要なことであるが、決して充分ではないと私は考えている。なぜならば、紙の上でばかり考えていると、紙(視覚的補助)がないと考えられない頭になってしまうからだ。

それを克服するにはどうするか。紙の上で処理できるようになった課題は、今度はソラで解けるように訓練する。上に「英語でも」と書いたが、(口頭での)文法ドリルなどはこれの一形態であると考えられる。

そういう取り組みを続けることでWMが鍛えられるし、鍛えられたWMを携えて紙に向かえば、ヨリ複雑な問題に対応できるようになる。以下、繰り返し。(簡単な例としては、数学の式変形がヨリ少ないステップでできるようになるなど。)

頭脳明晰とされる人の中には子どもの頃に(多くは遊びを通してだろうが)WMを鍛えている人が少なくないと私は想像しているが、残念ながらその仮説を証明するに充分な資料は持ち合わせていない。

posted by 物好鬼 at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする