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2017年06月07日

医学生が弁護士を目指してはいかんのか?

今日は「医学部在学中に司法試験合格の東大生 資格取得への発言に番組でブーイング」という記事を読んで思ったことをツラツラと。

この種の尖った学生は批判されがちだが、批判する側は「自分は僻んでいるだけではないか」と自問することも必要だろう。批判するなら根拠を示すことが大事だ。

まず「いまいち将来像が明確になっていない」だが、これは何ら珍しいことではなく、一概に責められるべきことでもないと思う。私なんか今でも不明確なままだが、そこにはメリットもデメリットもあるというのが実際のところだ。まして若い学生となればなおさらだろう。

次に、この学生さんの「資格を持っておくと、発言に力があるじゃないですか」という発言。妙に反感を持たれてしまったようだが、それ自体としては間違ってはいない。そもそも発言に力を与えることができないのだとしたら何のための資格なのか?という話だ。もちろんここの「資格」というのは、専門性の高いものを想定している。その資格を保有している者の人格というのは(きわめて大事ではあるものの)また別の話だ。

以上の2点からだけでも、感情的な反発が強すぎることが見て取れる。

では、私はこの学生さんの主張に全面的に賛成なのかというと、必ずしもそうではない。こちらも2点指摘しておきたい。

まず、医学部というのはコストがかかるところなのに、国立だと他学部と同様の学費ですむ。そこにはつまり「他人のお金で勉強している」という側面があるわけだ。この点は、この学生さんのやり方に対する批判につながりうる。

また、特に東大理Vは90人という小さな枠だから、「彼のような人物が受かることによって、本来受かるべきだった人材が一人落とされた」ということもクローズアップされやすいだろう。

とは言え、いずれも禁止されていることではないから、「望ましくない」以上のことは言えないだろう。(私立大学の大きめの医学部だったらこのような問題自体がない、とは言えそうだが。)

結論は特にないのだが、この学生さんには「医療問題に強い法曹を目指します」くらいのことは言えるようになってほしいと思う。実際、医師で弁護士という人はこれまでにも存在しているのだ。将来についての見方はいろいろあるのだから、彼の今後に期待したい。

posted by 物好鬼 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月03日

スポーツが好きか嫌いかと言われても…

今日は「スポーツ嫌いダメ?国の目標波紋 『体育の恨み』影響も」という記事。

何事もそうだが、好きである方が取り組む際のストレスは少なくてすむし、上達にも有利だろう。そう考えると、スポーツ嫌いの比率を減らすのは望ましいことと言える。もちろん、すでにスポーツ嫌いになってしまっている子供たちの嗜好を変えるのはなかなか難しいだろうから、子供たちへの教育の仕方を工夫することで今後(←ここ重要)スポーツ嫌いに陥ってしまう子供を減らすという手段をとることによって全体的に(←ここも重要)スポーツ嫌いの比率を下げていく、というのが現実的だろう。

スポーツ庁の「第2期スポーツ基本計画」に関するページをざっと見たところでは、そのための具体的な方法は読み取れなかった。しかし同庁とて、まさか個々の中学生の嗜好を無理矢理変えようとしているわけではあるまい。それが困難であることは、「スポーツ」を「数学」などに置き換えてみれば、いわゆる「脳筋」な人たちにだってわかるはずだからだ。(買いかぶりすぎか?)

もっとも、「スポーツ嫌い」という括り方では議論が大雑把すぎるという点は指摘しておきたい。

私自身はというと、体育のうち器械体操(特にマット運動と跳び箱)と格技(相撲・柔道)は得意かつ「好き」だった(組み体操も得意だったが常に支える側だった)のに対し、水泳・陸上(特に長距離走)・球技(バレーのサーブ以外?)は平均以下だった。そして一番苦手だったのが踏み台昇降(笑)。苦手なもののすべてが明確に「嫌い」だったわけではないが、さりとて「好き」だったとも思えない。

しかし、あえてこのように分野別に見てみると、好き嫌いにもかなりの幅があるとわかるし、得手不得手の原因の大半が(授業外も含めた)積み重ねの多寡によるものだということも実感できる。例えば私が水泳や球技などを苦手としているのは、単に投下労働量が少なすぎたからでしかない(と自らを慰めることができる)わけだ。

こういう認識を持っていれば、新しい分野にチャレンジするときにも、あるいは苦手だった分野に再チャレンジするときにも、背中を押してくれる効果が多少はあるだろう。取り組んでいれば、もともとハッキリと「嫌い」だったものでも(「好き」まで行くのは難しいとしても)「取り組みの邪魔になるほど嫌いではない」という程度には好転する可能性はかなりあるはずだ。ときには「大好き」に豹変する可能性すらなくはない。

ついでだが、記事中にある「体を動かすこと自体が嫌いなわけじゃない。うまい人とやるから嫌いになる。レベル別に完全に分けてくれればいいのに」という意見には一理あると思う一方、一面的なものだとも思う。

というのは、自分よりもうまい人を身近な目標とすることは有益でありうる(私も何度か経験した)し、生徒をレベル別に分けたところで「○年生にもなってあのレベルにいるなんて」と言われたのでは状況はよくならない(ひょっとすると現状より悪くなる)からだ。

となると(少し話が飛んでいるかもしれないが)、
・個人差に対する寛容さ
・上達の可能性についての理解
といったことを文化の一部として根付かせることもまた大事なのではないか、と思われてくる。特に後者に関しては、学習者に「これならちょっと頑張ればうまくなれそうだぞ」と思ってもらえるような指導方法を工夫する必要があるし、それには競技性を強調しすぎないことも要求されるだろう。

※なお、以上のすべては勉強を含めた他の分野についても言えることだ。英語も数学も国語も…もちろん音楽や家庭科も、地図を読むことも人の話を聞くことも、だ。現時点で個別科目の指導をしている人は、苦手科目に再チャレンジすることでも新たな気付きが得られると思う。

(ところで、記事冒頭に "運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%" と書かれているが、他の科目はどうなんだろうか? 政策を打ち出す際に科目間のバランスを考慮することは極めて大切だと思うのだが。)

posted by 物好鬼 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

小学校でプログラミング?

今日は「<学習指導要領>知識使う力、重視 異例の指導法言及」という記事。

英語教育の前倒しにプログラミングの必修化だそうだ。何でも早く始めればよいというものではあるまい。特にその方法が気になるところだ。

そもそも「知識を使いこなし、試行錯誤しながら課題を解決する力を学校教育で養う必要がある」と言うのであれば、まずは既存の科目(特に国語と算数か)を充実させるのが筋だろう。一応「読解力を育成するため小中の国語で語彙(ごい)指導などを拡充」とは書かれているが、英語やプログラミングを追加すれば必然的に既存の科目にもしわ寄せが来るだろう。これでは何だか、教材を取っ替え引っ替えして浅い学びに終始する一部の受験生みたいだ。その意味で今回の文科省の方針は、彼らが掲げる目的と矛盾しているようにすら私には思える。

もしプログラミングの学習が知的能力の向上に役立つと本当に考えているのであれば、まずは文科省のお偉いさん方自身が率先して学んではどうか? そういう経験なしに子供たちにだけ押し付けるようでは、日本の教育はなかなかよくならないだろう。

ところで、このプログラミングというものは、すべての子供たちが一律に学ぶ必要があるような分野ではないと私は考えている。文科省としてはかつての「読み書き算盤」のような効用を狙っているのかもしれないが、そうであればなおのこと、プログラミングそのものを急いでやらせる必要はない。むしろ、既存科目である国語や算数が活かせるのであれば、できるだけ活かした方がよい。大切なのは、プログラミングにしろ何にしろ、後からやりたくなったときにスムーズに学べるように、知的な基礎体力を身に付けさせることであるはずだ。

言うまでもなく、知識にも技能にも階層構造がある。だから、それを無視して「いろいろやらせればいろいろできるようになる」的にやらせるのでは、先生方が大変なのは(記事にも書かれているように)もちろんのこと、子供たちはもっと大変だ。特に子供たちに対しては、知識の詰め込みを否定しながらさらなる詰め込みをしようとしているとも言える。これらは英語についても言える(特に国語との連繋はもっと重視される必要がある)。

さて、記事を見ると「全教科で『主体的・対話的で深い学び』の視点による授業改善を図る」とも書かれている。要するにアクティブ・ラーニングを導入すると言っているわけだが、そこで大切なのは
  <対象←→認識(具体←→抽象)←→表現>
という過程的構造を踏まえることだろうと私は考えている。そういったポイントを見逃すと、お題目とは裏腹に表面的な学びに終わる可能性が高いと思うのだ。

ではどうするか? あくまでも試案だが、小学生に対してはたとえば
 ・身近な素材をもとにして算数の文章題を作成する
 ・その内容を書面や口頭で解説(可能なら議論も)する
といったことを丁寧にやらせてはどうか。この方が、安易に英語やプログラミングを早期導入するよりも、よほど多面的な基礎力養成に資するのではないか。

ところで、プログラミングについては、私はちょうど30年前に勉強を始めた。それはとても順調に進んだのだが、その原因は
 @高校までの数学をしっかりやっていた
 A解決したい具体的課題があった(それも易しいものから段階的に進めることができた)
の2点だったと現在では認識している。それらのおかげでプログラミングに必要なアタマの使い方が身についたのだと思う。
※このあたりについては「思考と言語」を参照されたい。

こういう「アタマの使い方」というのは個別のプログラミング言語の知識よりも普遍性が高く、賞味期限も長い(それでもオブジェクト指向は追加で学ぶ必要があったが)。そして、その「アタマの使い方」の基礎づくりになるものを小学生にやらせるとしたら、先に挙げた試案のように国語や算数を利用した方法をとるのがよいのではないかというのが、冒頭のリンク先記事を読んで私が考えたことだ。

以上、food for thought として書いてみた。

posted by 物好鬼 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

九九の暗記をやめると学力が上がる?

今回は「学力世界一のフィンランドでは『九九』を暗記せず、『電卓』を使う」という記事。

なかなか面白い記事ではある。中でも「ダイソンは、子どもたちを勉強好きにさせたいなら遊びの要素が不可欠と指摘する」という部分には大いに共感を覚える。(先日は私も30年ぶりに有機化学の大学入試予想問題に挑戦してみたが、知識は少ないながらもパズルのように楽しむことができた。)

しかし、素直に受け取れない部分もある。それは、冒頭にある「学力世界トップのフィンランド人学生が、九九を覚えない理由」という部分。実に興味深いし、記事のライターもそれを意識してタイトルに含めたのだと想像できる部分ではあるのだが…。

Wikipedia の「九九」によると、「英語圏では成年者も掛け算九九を完全に言えないことが多く、アメリカの大学生・大学院生の実に38%が九九を完全には覚えていないという調査もある」のだそうだ。日本とはかなり違うように思われるのだが、何が違うのか?

すぐに思い付くのは教育の内容・水準だろうが、実は九九そのものの覚えやすさの違いに原因がある可能性が大きいのではないかというのが私の考えだ(cf. 等時的拍音形式などの影響)。九九の有用性はたいていの日本人が同意すると思うが、そうであるならば、覚えやすさとのトレードオフは考慮される必要があるはずだ。

そこで Wikipedia の英語版フィンランド語版をはじめさまざまなサイト(とりあえず日本語のもの)を見てみたのだが、日本語以外では覚え方らしき項目を見つけることはできなかった。この「覚えやすさの違い」という点について記事内で配慮していないのは、私としては大いに不満だ。

つまるところ、フィンランドについては九九の暗記をやめて正解だったのだとしても、それゆえにも日本も、とはいかないのだ。もしかすると、「日本の場合は九九を覚えるのをやめさせても学力向上にはつながらない」、あるいはさらに「やめさせない方がよい」という可能性すらあるのだ。これでは、せっかくの(煽るような?)記事タイトルも説得力を持たないものになってしまう。

蛇足ながら、この記事の中で私の興味を最も引いたのは「フィンランドでは、就学年齢が他国と比べて1年遅い」という部分だった。これは案外大きなポイントかもしれないと感じた。
(ただし、この点については、子供たちが社会性を身に付けるのも遅くなってしまうというデメリットがある。となると、就学年齢は現状のままとして、一部の教科について習熟度別の教育を導入するといった方法をとるのが現実的な線なのかもしれない。)

posted by 物好鬼 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

Sentence Diagram と英文構造図

今日は Facebook 上で「A Picture Of Language: The Fading Art Of Diagramming Sentences」という記事を紹介されたので、関連して少し書いてみたい。
 
まず、こういう図式化は構造理解のための(そしてその理解力を高めるための)手段であるから、これ自体が読み・書き・聞き・話す能力の向上にそれほど寄与しないとしても、まあ、それは当然のことであろう。

おそらくであるが、この Sentence Diagram という方法は、すでに直感的・自然成長的なかたちで英語を習得しているネイティブスピーカーが自らの英語能力について反省するための道具としては、少なくとも普及当初においてはうまく機能していたのだと思う。逆に言うと、そういう前提を満たさない人には役立ちにくいだろうとも想像できる。

「そういう前提を満たさない人」の代表格は我々のように英語を外国語として学習している者であるが、そういった人たちにとって<理解>の後に必要なのは、その理解を実用に結びつけるための練習であるはずだ。なのにそれがうまくいっていないのだとすれば、その原因を探る必要がある。
 
私の考えでは、この Sentence Diagram という方法には、

 ・なかなか緻密である

という長所がある一方で

 ・図式化の作業が面倒臭い
 ・構造がわかりにくい

という短所がある。

最後の「構造がわかりにくい」には複数の側面があるが、実際の言語は語順どおりに処理されていくものであることを考えると、「原文の語順が維持されていない」という点は致命的だろう。

そしてそれゆえにこの種の図式から実用訓練への接続は困難なのであろう、と私は考えている。
 
…というわけで、リンク先の例文を私の方法で図式化したものを提示しておきたい(右側は Sentence Diagram)。

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自画自賛ではあるが、私の構造図は

 @各要素をタテヨコに整然と配置してあるので、肝心の文構造がわかりやすい
  (ある程度慣れれば書かずにソラで処理できるようにもなる)

 A原文の語順が維持されているので、読み・書き・聞き・話すことにもつなげやすい

という特長を持っていることが見て取れると思う。

※アメリカの教育関係者さんたちにしても、既存の Sentence Diagram を批判的に扱うのであれば、安直に投げ捨てるのではなく、その方法のどこに問題があるのかを分析したうえで、その問題を解消する方法を探るべきだったのではないだろうか。

posted by 物好鬼 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月21日

学校の勉強は仕事に役立ってないらしい

今回は「あの努力はいったい……男性が思う『仕事役立たない教科』ランキング」という記事。(タイトルにタイポがある気がするが…。)

記事によると、「学生時代(小中高大)に習った教科で今の仕事にまったく役に立っていないと思うものは?」という質問に対する回答が

 第1位   数学……9.9%
 同率第1位 英語……9.9%
 第3位   理科……9.4%
 第4位   歴史……7.9%
 第5位   家庭科…6.9%

なのだという。(アンケート対象は男だけ。)

私に言わせると、「意外に少ないなあ」といったところ。

これは逆に考えてみればわかりやすい。そもそも、数学も英語も理科も(以下略)ぜーんぶ必要とされるような職場なんて、滅多にないはずだ。
(ちなみに私の職場では、ごくまれに英文メールを書かされるくらい。あとは四則演算。理科の知識は機会があれば使うが、使えなくても仕事自体はできる。)

だから、どの科目についても「そんなの使わないよ」という人はもっと多くいても不思議はない。なのに数学や英語でさえ「まったく役に立っていない」が1割を切っているのなら、何の問題もないのではないか?
(ところでこのアンケート、複数回答は可能だったのかしらん?)

さて、数学的な領域について言うと、私の職場で必要とされるのは四則演算程度だが、だからと言ってそれ以上の勉強が無意味だったとは私は思っていない。

もし「実社会では四則演算以外はほとんど必要ないから」という理由で四則演算しか学ばないとしたら、その人にとってはその「四則演算」が数学的能力の上限ということになってしまう。しかし、「微分積分も行列もできるくらいにやっていればこそ、四則演算は苦にならなくなる」という面があることは否定できないのではないか。問題解決に必要なものは単純な知識だけではないから、本人も気付いてない部分が役に立っていることは大いにありうる。それに、私の周囲を見る限り、数学が苦手な人は四則演算の活用すらあまり上手ではないという印象がある。

これを少し皮肉っぽく言い直すなら、直接的には不要と思われるレベルのことを学んでおくことが実は必要(少なくとも有用)なのだということだ。(これは語学の場合で言うと、話す能力と読む能力との関係に似ている。)

なお、記事の末尾にある

「学生時代に何日も徹夜して覚えたことが、社会で全く意味をなさない……なんて、あの当時は思いもよらなかったですよね。ただ覚えたことはどこかで自分の役に立ち、自分の基礎を作ってくれているはず。そう信じておくしかない!?」

という「まとめ」はあまりにシンプルすぎると思う。学生時代にある程度以上まじめに勉強した人なら、後半の「どこかで自分の役に立ち云々」に関しても具体的なことがいろいろ書けるのではないだろうか。ということは…(笑)。

蛇足)20年近く前のことだが、理工系の大学教授が書いた文章を仕事で扱ったときには、内容の正確さをチェックするために化学命名法や SI 単位系について勉強したことがあった。誰かに頼まれたわけではなく自発的にやったのだが、こういうことがスムーズにできたのは、高校・浪人時代に物理と化学を勉強していたおかげ。

なお、関連記事として、「学校の勉強は役に立たない?」がある。

posted by 物好鬼 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

大学で勉強する ≠ 大学時代に勉強する

今回読んだのは「かつて『レジャーランド』と呼ばれた『大学』でうごめいていた『あまりにダークな共犯関係』」という記事。書かれていることにとりたてて反対というわけではないのだが、思いついたことをツラツラ書いてみる。

まず、大学の授業と言ってもピンキリだ。特に人文社会系は学者の数だけ学派(つまり内容面の違い)があると言ってもいいくらいだし、授業の能力にも個人差が大きい(これは自然系もそうだろう)。少なくとも私の在学中はそうだったし、その点は今でも大差あるまい。

それに、授業が仮に「ピン」ばかりだとしても(仮定法過去)、個々の学生が持つ興味関心や必要性といったものにはかなりの幅があるはずだ。これはたとえ同じ学部・学科に所属して同じ分野を専攻していても、だ。

つまり、大学(もちろん東大も含めて)で教えていることの全てが自分にとって同じように大事であるとは言えないわけだ。と同時に、大学で教えていないことの中にも価値あるものがありうる、という点にも注意が必要だろう。

もちろん、大学で教えられている内容が自分自身の興味関心や必要性にピッタリ合っているということもありえなくはないが、まずは疑ってかかった方が健全だと思う。判断するにあたっては、学生が自身の主観に頼りすぎることは危険だろうから周囲の意見も参考にすべきだが、大学生ともなれば最終的な判断は自己責任でなすべきだろう。

実際、私などは、教官たち(概して仲はよかった)が教えていることを横目で見ながら学外者の学説を学ん(で教官たちに論戦を挑ん)だり、授業と無関係なところで司法試験対策をしたり(あるいはパソコンでプログラミングに沈潜したり…)していたから、当然のごとく(?)大学の成績はよくなかった(結果として予定どおり単位数ピッタリで卒業した)。そのため私はやや自虐的に「オレは大学ではあまり勉強しなかった」と言ったりもするのだが、それは「大学時代にあまり勉強しなかった」というのとは明確に異なる。

結局のところ、大学というのは「学びの場(の一つ)」であり「学びのキッカケとなる場(の一つ)」なのであって、他の「場」とのバランスの取り方は個人によって違って当然のものなのだ。ゆえに、その選択によって「その人にとっての大学の意義」も違ってくる。そして、社会的存在としての大学は、そういう状況に応じていくことを求められる。

だから、著者の言う「大学教育を創造するポジティブな共創関係」としては、「学生と学問の双方に存在している多様性というものに、学生自身はもちろん、大学という組織が今後どう対応していくのか」といったことが大きなテーマとして存在しているのだと思う。

posted by 物好鬼 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

教科書における「真実」の扱い方

今回は「教科書の右か左か議論は不毛」という記事を読んで思ったこと。

記事に曰く
検定教科書なんてそもそもいらない。教科書に書いてあることを「真実」として覚えるのが目的ではなく、教科書に書いてあることをもとにして「真実」に近づく方法を学ぶのが教育なのだから。
という。"「真実」に近づく方法を学ぶ" のはよいと思う。というより、必須だろう。しかし、その「方法」が正しく活用できているのかどうかを判定するには、しかるべき目的地(判定基準)としての「真実」が必要なはずだ。

もちろん、教科書で扱うべき事実や法則にはさまざまなものがある。専門家の間で確定的な共通認識となっているようなものであればそれを「正しいこと」として掲載し、そうでない場合にはその旨記載しておくべきだろう。

ところで、歴史などの科目には膨大な事実(科目によっては法則も)が含まれているが、それらの一部にはそれらに対する「評価」というものが付きまとっている。これは社会的なテーマが持つ特殊性であり、すべての科目に共通しているわけではない。なのにリンク先の記事では「真実」の中に「しかるべき評価」のようなものまでが含まれてしまっているように見える。

そもそもの問題は、記事の冒頭に「歴史教科書の採択を巡る報道について」と書かれているのに、そこから先の展開が教科・科目によらない普遍的なことであるかのような書き方になっていることだろう。科目間にはさまざまな共通性・相違性があってそれらがそれなりの体系を織りなしているものだが、そういった点が考慮されていない。

そのせいか、著者が冒頭から使用している「真実」という語の意味も不明なままだ。私は途中から「真実」の代わりに(もう少しわかりやすいと思われる)「事実」と「法則」という語を使ってみたのだが、記事を書くなら「真実」のような多義的な語については自分なりの概念規定を示すことが必要だと思う。(もしかするとたかがブログ記事に期待しすぎなのかもしれないが。)

ならばお前の概念規定は?と問われそうなので少し書いてみる。

まず、私が使った「事実」と「法則」だが、ここでは仮に、「事実」とは個別的な事象であり、「法則」とは一定領域内の任意の事実間に共通する性質(法則性)をとらえた認識のこと、と規定しておく。不充分なのは承知しているが、ここでの議論には足りるのではないか。

肝心の「真実」はというと、ネットで検索してみたところでは「人間の主観に基づき導いた結論だから人によって異なる」という考え方もあるらしく、私が予想していたよりも意味の範囲が広いもののようだ。法律学では「事実」の中に「真実」と「虚偽の事実」を含めるのが普通だが、問題の記事では「しかるべき評価」のようなものまでが「真実」に含まれているように思われることは既述のとおり。私としては、少なくともこの種の記事で使用する概念としては、「真実」に評価的側面は含めないで「事実」の一種として理解する(つまり法律学と同じ)のがよいと考える。

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2016年05月16日

親の学習と子の学習

今回は「勉強嫌いな子は、親の劣等感が伝染している」という記事。

いつものことだが「学歴」という言葉の曖昧さが気にかかる。これが学校歴のことを意味するのであれば、親のそれが子供に影響するということはあるべきではないと私も思う。しかし、実際にはかなりの影響があるだろう。それはおそらく学校歴そのものよりも学習歴を介したものだと想像する。

よく言われることではあるが、子供に勉強してほしいなら「勉強しろ」はお勧めできない。それは泣いている幼児に向かって「泣くんじゃありませんっっ!」と叱りつけるのに似ている。容易に想像できるように、逆効果になりがちなのだ。

では、どうするか。何よりも大切なのは、親自身が勉強することだろう。願わくば、勉強を楽しんでいる姿と、それが役立っているという事実とを、自分の子供に対して具体的に示すようにしたいところ。つまり、背中で語るわけだ。

そして財政的に可能な範囲でよいから、役に立つライブラリを自宅内に構築しておくことが望ましい。そのライブラリは、子供たちのために構築するというより、親自身が活用するためのものであることが大事だろう。もちろん子供に利用可能なものも少なからず混ぜておく。そういった素材が身近にあればいつでも接することができるし、それらが実際に身近な人間によって使われていれば、子供はその事実を当然のこととしてとらえるようになる。

また、多種多様な分野の本に馴染んでもらうための一つの方法として、家族で書店や図書館に行くこともできる。これは貧弱な自宅内ライブラリを補うという面はもちろんあるが、「人間はこれほどまでにさまざまなテーマに取り組んでいるんだ」ということを(本という媒体を通してではあるが)実感してもらえることも大きいはずだ。

結局のところ、子供に勉強させたければ親による率先垂範が何よりもモノを言うのであり、その意味で親の学習歴が子供に影響するわけだ。もちろん「昔は勉強したが最近は…」よりも「現在勉強している」の方が大事だから、たとえ俄仕込みでも何もしないよりはよい。「子は親の言うとおりにはしないが、するとおりにはする」── かつて何かの本で見かけた金言を思い出す。

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2016年04月24日

既成の解法に頼りすぎない学びを

たまたま「なぜMARCHの学生は、大学に入ったら東大生より勉強しなければならないのか」という記事を読んだ。この記事に対する論評ということでは必ずしもないのだが、関連して少し書いてみたい。

記事中に

"入試までは「正解がある学び」で、大学からは「正解がない学び」になる"

とある。この考え方自体は間違っていないと思うが、さりとて充分でもないだろうと私は考える。というのは、一口に「正解がある学び」と言っても、解法を人から教えてもらう場合もあれば、解法を自分で見つけるべく努力する場合もあるからだ。

つまり、全体としては

 1.正解がある学び
  (a) 解法を人から教えてもらう場合
  (b) 解法を自分で見つけるべく努力する場合
 2.正解がない学び
  (c) 解法を自分で見つけるべく努力する場合

と分類することができるわけだ。そして、(c) の基礎になるのは (a) ではなく (b) だということに注意が必要だ。

さて、受験を目的とする場合、解法は人から教えてもらった方が効率がよい。そのため、いわゆる受験秀才の中には「解法を人から教えてもらう」ことを当然のこととして実行してきた人が多いはずだ。

しかしそれは、「解法を自分で見つけるべく努力する」機会をあまり持たないまま大学に進学するということでもある。大学合格まではそれでもよい(むしろ有利ですらあろう)としても、進学後に「正解がない学び」(そこには既成の解法もないのが普通と考えられる)に取り組もうとする際には、そのことが大きな足枷となる可能性が高い。

となると、大学進学以降にどのような学びをするつもりなのかによって、受験勉強の方法も違ってきて当然だ。私は (b) を重視した学びを「骨太な学習」などと呼んでいるのだが、入試対策という当面の目標にウェイトを置けば置くほど「骨太の学習」は難しくなる。

もっとも、何でもかんでも自分で考え出そうとしていたら、おそらくは二次方程式の解の公式すら見つけられないまま死んでしまうだろうとも考えられる。だから (a) (b) 間のバランスあるいは兼ね合いが問題になるわけだ。このことは極めて重要な論点であるはずなのだが、話題になっているのを見ることがあまりないと思う。

元記事との関連で言うと、大学合格までに (a) (b) のどちらをどのくらいやってきたかには大きな個人差があるはずであり、それは「トップ校」合格者にも「MARCH」合格者にも言えることだろう(ただし、分布はかなり違う可能性もある)。となると、「努力」という量的側面をグラフの縦軸にするだけでは不充分で、「何をどのように」といった質的な側面(方向性)も加味したグラフにしなくてはならないはずだ。

なお、生まれつきの違いや偶然など、本人の意志でコントロールできない部分は誰にでもあるのだが、それを言っても仕方がないのも事実だろう。結局のところ、人間は工夫と努力を積み重ねた部分が強くなるものなのだ。だからまずは自分が進みたい方向を見極めて、それに見合った目標をクリアしていくしかないということになると思う。ただし、現状を正しく認識することも忘れてはならない。

(自戒を込めて…。)

posted by 物好鬼 at 14:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

正確に覚えつつ、変化も試みよう

今回読んだのは「Japanese Twitter User Finally Finds Use For “Most Useless English Sentence”」という記事。半分ネタなのは承知しつつ…。

教科書で学んだのが This is a pen. という文だったとして、その文をそのままの形で使うことはもちろんかまわない。それは「学んだ文を使う」の典型例と言える。リンク先の例がそうだ。

しかし、「学んだ文を使う」とはそれだけなのか? たとえば、先の文をもとに

 ・平叙文を疑問文にする
 ・a pen を a dog に置き換える
 ・修飾語として really を付ける

という変化を施して

 Is this really a dog?
(It looks like a mop!)

という発言をすることも「学んだ文を使う」ことなのではないか。
(これがどんな状況なのか想像できない人は「コモンドール」でググるべし。)
 
ここまでは前振り。

しばらく前に Facebook 上の某グループで一人の高校生から「1冊のテキストを100回近く音読しているのに、初めての素材ではリスニングがうまくいかない」という相談があった。そして

私「音読素材の文構造や語句などはしっかり理解しているか?」
彼「かなり意識していて自信がある」
私「リスニング素材のスクリプトはスラスラ読んで理解できるか?」
彼「音読だと理解度は半分以下」

というやりとりになった。そんな相談者に対して私は次のような提案をした。
 
まだ詳細がわからないので明確なことは言えないのですが、文の構造を自力で変化させる訓練はしてますか? あまりしてないのであれば、試してみてください。

たとえば教材の中に

Can the rumor be true?

という文(今し方、手元の文法書で見つけました)が出てきたとして、それを

The rumor is true.
Is the rumor true?
The rumor isn't true.
Isn't the rumor true?

The rumor was true.
Was the rumor true?
The rumor wasn't true.
Wasn't the rumor true?

The rumor can be true.
Can the rumor be true?
The rumor can't be true.
Can't the rumor be true?

I think the rumor can be true.
Do you think the rumor can be true?
I don't think the rumor can be true.
Don't you think the rumor can be true?

のように変化させてみます。最初は紙の上でやってかまいませんが、慣れてきたら何も見ずにやるようにします。

こういう変化についての訓練(必ずしも上記のようなドリルである必要はありませんが)を日頃からやっておかないと、反復した素材と違うかたちのものにイキナリ出会ったときにはスムーズに対応するのは難しいだろうと思います。
 
私が提案したのは「転換」と呼ばれるドリルだが、語句の「置換」についても同様のことが言える。また、音読中心に学んでいる場合、音声面の正確さに問題がある可能性もありうる。

さて、私が上で「変化についての訓練」と呼んだものを学習の中に取り入れておけば、少量の素材を最大限に活かすことにもつながるだろう。しかし、学んだことをそのままの形で反復するばかりでは、大量の素材を完全に覚えてもそれほど役立てられない可能性が高い。それは見えない壁として学習者や指導者の前に立ちはだかる。
 
「学んだことを使えるようになるには」は古くて新しい問題で、武道においては「形(かた)は実戦に役立つか」といったかたちで現在も問われ続けている。数学や物理でも、あるいはおそらく(私はよく知らないが)芸術的な分野にも同様の問題はあるだろう。もっとも、英語などの場合は、文法の助けが得られるという長所があるのは紛れもない事実だ。

なお、英語や武道を自分のペースで使ってみる機会に恵まれている人の場合、その自発的な試行錯誤の積み重ねが変化の能力を育ててくれるから、上のような問題は比較的起こりにくいだろう。それだけに、そういうかたちで上達した人がそうでない人を指導する際には注意が必要だとも言える。

今回のタイトルは「正確に覚えつつ、変化も試みよう」としてみた。@正確に覚えることとA変化の能力を付けることのうちどちらがヨリ大切かというと、それは各人の学習の目的によって違ってくる。ただ、Aを急ぎすぎると往々にして@を犠牲にしてしまうということは否定できないから、@の進捗を自らの必要性との関係で評価しながらAを徐々に進めていく、という方法がよいだろう。

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2016年02月14日

英語教育は必要性とバランスを考えて

今回は「英語は幼いうちに打て? 進む早期化、アジア追う」という記事。

その記事に曰く、ある小学校では

「2年生の生活科の授業をのぞくと、記者には聞き取れないほど流ちょうな英語で児童と教師がやりとりを繰り広げていた」

のだそうだ。一見すばらしいことのように聞こえるが、言葉というものは流暢さとともに正確さや適切さといったものもあわせて評価される必要があるはずだ。

なのに「記者には聞き取れないほど」という部分から考えるに、この記者さんにはそれらについて自立的な評価ができるだけの能力があるのか不安になってしまう。もちろん謙遜しているという可能性もなくはないのだが、いずれにしても正確さや適切さなどの側面に触れていない点で記述が不充分と言えよう。
 
また、

「国語(日本語)以外の大半の授業を英語で受ける」

とも書かれている。しかし、通常の日本人は「国語」だけでなく他教科も含めたあらゆる時間における日本語使用を通じて日本語力を伸ばしていくものだろう(それでも足りない場合が多々あるのだが)。

となれば、記事の中ではそういう機会が減ってしまうことによるデメリットにも触れる必要があるはずなのだが、残念ながら一面的な観察になってしまっている。

言うまでもないことだが、そもそも授業というのは「わかってなんぼ」のものだろう。もちろんこういう授業を受ける子どもがいてもいいのだが、世の中には日本語での授業ですら付いていけない子どもがたくさんいることを考えると、かなり相手を選ぶ方法だと言えるのではないか。


英語による授業以外のところでも、そもそも英語をどこまで学ぶべきかは各人の必要性と他教科(あるいは勉強以外の分野も含めて)とのバランスによって判断されるべき問題だと思う。すべての人に高度な英語力を求めるのは、すべての人に高度な数学力を求めるのと同様に無理があろう。となると、自身が将来的に必要としそうなものにウェイトを置いてやるのが現実的だということになる。

最近はオリンピックが近いこともあってか英語教育狂想曲といった感を呈しているが、私に言わせれば「国語や数学や理科も忘れるなよ」なのだ(本当は社会も音楽も体育も同様なのだが、私は苦手だったから偉そうなことは言えない)。率直に言って、英語をやるために他の教科・分野を犠牲にした人は、他の教科・分野をやるために英語を犠牲にしている人のことを笑えないはずだ。それはその人の生き方なのであり、英語をどこまで学ぶかについても、最終的には各人が自己責任で判断するしかないということになる。

もちろん英語は(他の教科・分野と同様に)できた方がよいし、それも高い能力があればそれだけ大きなメリットが得られるとは私も思う。だから、国民全体の英語力を引き上げようという考え自体を否定するつもりはさらさらない。ただ、公教育、特に中等レベルのそれに関しては、他の教科・分野をあまり犠牲にしないで進めるのでないかぎり、私としては批判的にならざるをえない。

なお、英語と言えば最近は「4技能の使用」という意味での実用性ばかりが強調される傾向がある。それは従来の英語教育が期待されたほどの「実用性」に繋がっていないという事実への反省という面もある。しかし、それでもそういう意味での実用性とは異なる理由(たとえば理論的関心であれ単なる好みに由来する興味であれ)で英語や他の外国語を学ぶということも否定されてはならないだろう。その点まで含めての選択が問われるということだ。


以下、つけたり。

私見だが、外国語と母語との関係としては

 @両者の言語としての類似性の度合い
  (学習に要する労力が違ってくる)
 A現代社会で生きるのに母語だけで充分か否か
  (不充分な場合、英語を優先した方がよいことすらありうる)
 B日常生活においてその外国語に接する機会が多いか

といった側面が考慮されるべきだろう。日本の場合は

 @日本語は英語との言語間距離が極めて大きい
 A日本語だけでも最先端の知的生活までカバーしうる
 Bあまり高度な英語に接する機会はそれほど多くはない

という点でやや特殊な立場にあるのだから、「他の国がそうだから」のようなものは根拠として不充分すぎよう。

ここで非印欧系言語を公用語とする国をいくつか見てみたい。まず、フィンランドは@Aでは日本に近いものの、日常生活で英語やスウェーデン語に接する機会が多いようなので、Bに大きな違いがあると考えられる。韓国は@Bで日本に近そうだが、漢字教育が一部に限定されている現状ではAに違いがある可能性がある。(他にも検討すべき国はたくさんあるが、よく知らないから今は触れない。) あくまでも現時点での個人的印象だが、ハンガリーなどの方が参考になる点が多そうだと感じる。
 

以下、つけたりのつけたり。

教育はすべての人に関係する問題ではあるが、論争が繰り広げられているようなテーマを取材して記事を書くには相当量の準備(教養も含め)が必要なのであって、誰にでも簡単にできるようなことではないだろうと思う。正直なところ、私もあまり深く踏み込むことはできないでいる。

しかし、この種の領域は上辺だけ見ると簡単そうに見えるから安易に首を突っ込みやすいという傾向はあって(おそらく新聞社もこの点を甘く見ていて)、<重力波>のような見るからに難しそうなテーマとは違った状況にあるように見える。もっとも、大手紙ですらサイエンス系ではトンチンカンな記事をたまに見かけるから、実際にはそれほど違わないのかもしれない。結局、どっちなんだ?(笑)

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2016年02月03日

応用の前に基礎の徹底を

「文科省、高3対象の英語力調査公表 7〜9割が中学卒業レベル以下」という記事を読んだ。

文科省のサイトにはまだ載ってないようだが、上の記事を読む限り、

 4技能試験の結果、高3なのに中卒レベルの人が多いとわかった。
 Sで89.0%、Wで82.1%、Lで73.6%、Rで68.0%。
 前回よりは改善しているが、依然としてよくない。

で、

「文科省は引き続き、コミュニケーションの向上などに課題があるとしている」

と言っている。

しかし、4技能の試験結果が悪いからと言って、その原因が4技能そのものの能力不足であるとは限らないだろう。ましてコミュニケーション??? 点数が伸び悩んでいる理由は、各技能に対するもの以外にもいろいろ考えられる。たとえば

 ・語彙力が不足している
 ・文法力が不足している
 ・スピードに対する慣れが不足している
 ・英文の内容についていけない
 ・日本語の問題文が読めていない
 ・長時間の試験に耐える精神力がない

などなどだ。おそらく上記の全部が大なり小なり関連しているだろう。

※「英文の内容についていけない」については、テスト全体を(内容はそのままで)日本語に置き換えてテストしてみることで明確になるはずだ。

中3対象の試験も散々だったことからすると、中学段階で躓いている生徒が少なくないのは間違いない。もちろん、試験だけでは測れないものがありうる点にも注意が必要だ(コミュニケーションとやらもここに属するような…)。

いずれにしても、応用志向であればあるほど基礎力の重要性が高くなることは上達論の基本であるはず。英語教育に限らず数学などでも同様だが、そういう基礎的な認識の重要性はいくら強調してもしすぎることはないだろう。「教育専門家」とされる人たちについてはなおさらだ。


ところで、だ。

半世紀ほど前、日本は体操王国と呼ばれた。そしてライバルだったソビエトは基本を重視する姿勢を日本から盗んだ。一方の日本はというと、モントリオール五輪(1976)で5連覇を達成した頃から高難度の技にばかりに目を向けた結果、「着地の乱れが当たり前の状態」となり、長期にわたって低迷する。

日本体操界はシドニー五輪(2000)惨敗を機に大改革に着手する。その背後で、日本の一部若手選手はアンドリアノフ氏(かつてのソビエトの雄)らから基本重視の指導を受けることで、正確な技をシッカリと身に付けていた。そうしてアテネ五輪(2004)では日本男子が団体優勝を果たした…。

参考)http://plaza.rakuten.co.jp/hydrange/diary/200408180000/

高難度の技云々のくだりが現在の英語教育論議に似ていないこともない。決定的に違うのは、日本には「英語王国」としての過去がないことだろうか。基本の重要性は「同時通訳の神様」こと國弘正雄氏も主著の中で力説していることであるが、そういったことを抜きにして夢ばかり追っているとロクなことはないと思う。

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2015年12月31日

入試の制度は現実的なものに

今年最後の記事は入試関連。対象は "新共通テスト、「記述式」分離先行案 50万人分「採点に数カ月」 「高校生活に影響大」" というニュース記事。

記述式を分離先行させてはというのだが、正気なんだろうか。記事を読むと部活との兼ね合いを気にしている校長もいるらしいが、そんなことは大した問題ではあるまい。学校では部活よりも勉強を優先するのが基本なのだから。

もっと大きな問題なのは、生徒たち自身にとって、記述式の方が準備に時間がかかるということだ。高校生活はたった3年間しかないのに、その中で数ヵ月も前倒しで実施されたのでは当の受験生たちはたまらないだろう。

その意味で、分離先行案はウルトラCでも何でもない。採点側ばかりに配慮した身勝手なものであり、高校生側から見れば「斜め上」の発想でしかないとすら言える。採点の手間を考えると費用も馬鹿にならないはずなのだが、それは受験料でまかなうのだろうか。もちろん指導する高校側もいろいろ大変だろう。

結局のところ、この問題は昨年12月の中教審答申「新しい時代にふさわしい……一体的改革について」が足枷になっているわけだが、できないことを無理にやったところで、そのしわ寄せを受けるのは高校生たちだ。そんな拙速はできるだけ避けなくてはならない。

ちなみに、中教審は「文部科学大臣の諮問機関で,文部科学省に置かれている多数の審議会のうち最高の位置を占め,最も基本的な重要事項を取り扱う」(コトバンク)ものだ。しかし、審議会とはいっても参与機関ではなく諮問機関であり、その答申に法的拘束力はない(参議院法制局 HP のコラムによる)ということに注意が必要だ。もちろん文科省としては中教審の答申を軽視するわけにはいかないだろうが、答申の内容をそのまま受け入れる場合であっても、その判断についての責任は全面的に文科省(そのトップは文科大臣)にある。

つまり最終的には文科省の当事者能力が問われるわけだ。となれば、ここは文科省自身の責任において答申内容の当否について英断を下すべきところだろう。そもそも大学受験生全員に統一的な記述式試験を受けさせる必要があるのか? 入試制度に関して皆が驚くほど無理筋な案を出してくるのは、当の官僚たちがマークシート世代のトップランナーであったことと関係があるのか、あるいは一般国民には見えない特殊な「力」が背後で働いているのか、それは私にはわからない。いずれにしても、受験生たちのためにも現実的な判断をしてほしいものだ。

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2015年12月22日

英語にはスピーキングより暗唱のテストはいかが?

ニュースをチェックしていたら、「大学入試改革 新テスト 記述式をまず国語と数学で」という記事を見つけた(英語にも触れられている)。

ざっと見たところ、国立大学協会の「数十万人が受験する規模のテストで、物理的に実現可能かどうかが最大のポイントになる」に尽きると思った。理想は理解できるとしても、何でもかんでもテストに盛り込もうとしすぎなのだ。

以下、入試に関する私見(試験だけに)。

国語は現状(センター試験+2次試験)のままでよい。それ以上の測定が必要ならその範囲でやればよいのであって、全員に高度なテストを受けさせる必要はない。

数学もほぼ同様だが、マークであれ筆記であれ、公式・定理の証明を扱うとよいと思う(この方法はおそらく物理でヨリ有効)。

英語については、現状のものに加うるに

 @英語の音声(100語程度の未知のパラグラフ)を
  30分で答案用紙に書き取る

 A書き取ったものを
  30分で暗記する

 B暗記したものを
  20分で別の答案用紙に書き出す
  (@の答案用紙は見ないで行う)

というテストを課してはどうか(時間や語数は仮のもの)。課題のパラグラフは、文法・語法・語彙・音声などに関する知識や能力によって聞き取りやすさや覚えやすさが違ってくるように作成しておく。

この方式には

 ・受験者の英語力が多面的に測定できる
  (Bを口頭で行えば更に総合性が高まる)
 ・創造性を問わないので
   ・採点の手間が比較的小さくてすむ
   ・採点結果のバラツキも少ない
 ・試験対策がそのまま英語力向上につながる

といったメリットがあろう。

これで散々な結果に終わる受験生は英語の基礎力が不足しているはずだから、スピーキングテストなどを課してもあまり意味があるとは思えない(基礎力不足のまま無理に対策してもブロークンを加速するのみであろう)。つまり、パラグラフ書き取り・暗記・書き出しのテストはスピーキングテストなどへの足切りとしても有用であると考えられる。

蛇足:センター英語のリスニングについては、@スピードを5割くらい上げる(内容が易しいのだからスピードを落とす必要はない)、A1度しか聞かせない、の2点を提案したい。リーディングは制限時間を短くするとよい。完璧にはほど遠いとは思うが、これだけでもかなり実戦的になるはずだ。

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2015年12月01日

脳科学的に専門家とは何?

今度は "中野信子氏「日本人は、脳科学的に英語が下手」" という記事。

脳科学者さん曰く、
大まかには、プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています。だからIT系の人はそれほど抵抗をもたずに、語学の学習ができると考えられます。

 「ユニバーサルグラマー(普遍文法)」という概念があって、日本語、英語、どの言語であっても、言葉による認知の方法は、大きく違わないといわれています。たとえば「話す」とか「取る」といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもありますよね。それらを概念化して認知し、単語を組み合わせて文章を構築するという基本的な流れは、どの言語でも違わないだろうという考え方です。プログラミング言語も同様です。
との由。せっかくなので私なりにツッコミを入れておきたい。

まず、「『話す』とか『取る』といった基本的な動作を表す動詞や、身近な物を指示する名詞は、どの言語にもあります」という部分だが、これは人間が生活している現実世界に基礎を持つものであって、普遍文法を云々するまでもない問題だ。人間は対象から得た像をもとにさまざまな認識を創りだすのだから、自然言語の語彙や構造を扱うときにはその点を無視してはうまくいかないのだ。

それから、「プログラミング言語は人間の言語(自然言語)の認知方法を基に作られています」という部分。自然言語にもプログラミング言語にも人間が扱う「言語」としての共通点は多々あるし「習得に共通の基盤があると考えるのが自然だろう」もある程度までは正しいとは思う。

しかし、日本人が特に苦手としていると言われるスピーキングがプログラミング言語には存在していない点は特に注意が必要だ。また、プログラミング言語の内部にもアセンブラから手続型、関数型などさまざまな種類があり、自然言語との距離にもかなり大きな幅があるということも忘れてはならない。この脳科学者さんはこういった事情をまったく認識していないと見える(東大工学部出身らしいのだが)。

次に、終わりの方(現在は登録しないと読めなくなっている)にある「失敗しても心の痛みを感じにくい環境を工夫して作り、積極的に話せる機会を持つことが最善の方法だと思います」という部分。積極的に話すことは大事ではあるが、この点ばかりに注目するのは正しくあるまい。球技におけるドリブル練習や壁打ちテニスなどと同様、文法ドリルや独り言といった一人練習も大いに役立つのだ。むしろ、試合や乱捕りばかりでは高いレベルには到達しづらいということは上達論の世界では何十年も前から指摘されていることであり、すでに常識でなくてはならないことだ。

それに、一人練習にはもう一つの利点がある。それは「人に見られなければ恥をかく心配もない」ということだ。指導者によるフィードバックはもちろん大切ではあるが、語学については文法などの助けが借りられる強みがある。また、語学にしろ他の分野にしろ「ある程度できるようになると、人前でやってみせたくなることが多い」ということも言える。

そもそもだが、セロトニントランスポーターの有無が学習に対してそれほど大きな意味を持つのであれば、多くの日本人は英語以外にもいろいろなこと(特に人前でやるようなこと)を苦手にしていそうなものだが、実際はどうなのだろうか。そのあたりを含めて「風が吹けば桶屋が儲かる」的という印象を受けたし、「専門家とは何?」とも思わされた。脳科学は英語で no science と言うに違いない!などと言ったら真面目な専門家に叱られるかもしれないが、専門家同士での相互批判がもっと必要なのではないかとは思う。

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2015年11月29日

解答用紙の体裁が創造性を邪魔する?

たまたま "東大卒はなぜノーベル賞で苦戦するか?「東大入試問題の『解答用紙』から考える」" という記事を読んだ。たいした記事ではないのだが、私の母校に関することなので少し書いてみたい。


まず、東大入試の解答用紙がどのくらい特殊なのかについては、私はよく知らない。しかし、仮にかなり特殊なものなのだとしても、それに対処するくらいで芽を摘まれてしまうような貧弱な「創造性」「頭の良さ」「発想力」ならば、それはどこの世界でもあまり役立たないのではないか。ちなみにだが、学者が書く学術論文にしても、決められたルールに従うことを求められるのだ。

そもそも受験生としては試験問題のクセへの対処は必須であろう。もちろんその中には、解答用紙の特殊性というのも含まれる。そして、その対処法を見出すには、それなりの「創造性」「頭の良さ」「発想力」が必要とされるだろう。

となると、「その対処法を<自分で>考え出すのかそれとも予備校などに教えてもらうのか」ということの方が、当人の知的発達に対する影響が大きいはずだ。一般化して言うと、予備校などの意義・役割にも言及する必要があるということだ。もちろん、受験に関するありとあらゆる対処法(解法なども含む)がここで問われることになる。

なお、東大生と創造力の関係というテーマを取り上げるのであれば、進学振り分けの存在を忘れるわけにはいかない。すでに大昔からよく知られた問題ではあるが、なぜか記事中では一言も触れられていない。

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2015年11月09日

指導について少々

※今朝、連続でツイートしたもの。

語学でも武道でも同じだろうが、いわゆる「できる」人たちは「できない」人たちの苦労が理解できない場合が少なくない。苦労した過去を持っている指導者でも、昔の記憶は薄れてしまいがちだ。それをカバーするには、身近にいる「できない」人たちを指導しながら事実を論理化していく積み重ねが必要だ。

そこから派生する問題として、基礎の扱いが挙げられる。多くの指導者は「基礎は大切」と言うが、実際には形式的にできただけで安易に次に進んでしまうケースをよく見かける。しかし、基礎は一生ものであり、それは一流バッターが毎日の素振りを欠かさないのと同じだ。その重要性を甘く見てはならない。

とはいえ、それはいつまでも基礎しかやらないという意味ではない。基礎はそれ自体としては基礎ではなく、応用への道筋ができることによって基礎に転化するものだ。しかし、見事なる応用を実現するためにこそ、それに見合った見事なる基礎が要求されるのであり、指導者には急がない勇気も必要とされる。

最初の点に似た問題として、タイプの違いというのもある。たとえ同じ分野を学んでいても、個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない。それゆえ、もし個々の方法ではなく方法「論」を構築したいなら、自身を含むさまざまなタイプの学習者を検討する必要がある。

ついでに述べると、目標とするものの違いにも配慮する必要がある。実用性を重んじるのも、試験や試合での結果を求めるのも、学びの過程を楽しむのも、あるいは教材のコレクションに励むのも、基本的に各自の自由であり、他者がとやかく言うことではない。ただし、目的と方法との齟齬には気を付けたい。

(すべて140字)

翌日の追記(いずれも140字)。

先に「個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない」と書いたが、それは「短所は気にせず長所を伸ばせ」という意味ではない。なぜならば、たとえ苦手でも必要なものは必要だからだ。そういった苦手を克服することで壁を突破できることも少なくないのではないか。

「基礎」というのは「何ができるようになりたいか」という目的に応じて設定されるものだが、そこで反復されるもの自体が直接「実戦的」であるとは限らない。バッターの素振りはボールが飛んでこない環境で行われる点で実戦とは異なるが、練習としての意味は大きい。このことはさまざまな分野で言える。


参考:冒頭部分は南郷継正『武道への道』(三一新書)所収の次の文章(p.95)に触発されたものである。
 秀才的人間の忘れっぽさ
 そもそも人間は、そのなかでもとくに秀才的人間は、一に<忘れっぽく>できており、二に<自負心>の塊であるからです。一の忘れっぽいというのは記憶力云々という一般的なことではなく、自分がその道での<初心者>であった頃、何についてどれほどの心配をし苦労をしそして悩んだかという事実を、<具体的>なかたちではほとんど憶えていないということです。それを生々しいかたちでは忘れてしまっているものだから、現在の弟子たちの苦労・悩みを前にしても、それほどのものとは思えずともかく努力しさえすれば何とかなるものという信念で支えてやろうとするだけなのです。しかし、問題はそれだけではないのです。現在ある自分は、仮に同じ苦労、同じ悩みをも過去にもったにせよ。それは<秀才>レベルのものでしかなかったということを考えにいれないのです。つまり、自分は素材的に恵まれていたのであり、それゆえにいささかの論理を無視した練習であっても何とかやってこれたのだという反省がでてこないのであり、結果として自分の過去と同じものを押しつけたりすることになるのです。ここまでだったらまだよいのですが、もっとまずいことが現実には起きるのです。それは、自分の秀才であった過去にすら必要とされた<つらい苦労と悩みの事実>をも忘却の彼方へ追いやってしまいかねないのです。自分のともかくも駄目だった昔を<きれいさっぱり>と忘れてしまって、「ほら、こうやって使えばいいんですよ、簡単でしょう。悩むことなどありませんよ」といとも気軽に受け止めてしまいがちなのです。
(本当はもっと引用したいが、長くなりすぎるのでここまでとする。)

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2015年11月07日

試験対策だけが試験対策ではない

来年5月から TOEIC テストの出題形式が変わるという話が英語学習者の間を駆けめぐっている。試験の出題形式・傾向といったものは、受験生にとっては非常に気になるものなのだろう。しかし、考え方はいろいろある。

少し長いが引用から入りたい。
もし、習ったことのない新傾向の問題が出たらという不安は、受験生の脳裏から片時も離れることはないでしょう。しかし、私はそれではいけないと思うのです。どんな問題が出題されても、本当に英語を理解していたら、解けて当たりまえです。そのような応用のきく文法力は、通り一遍の勉強では身につくものではありません。本書の目的の1つは、英文法の知識と、理解を一段深く掘りさげることです。数学の得意な学生が、初めて見る問題を、楽しみながら解けるように、英語力も出題傾向を超越した域まで持っていってほしいと願うのです。また、それは実に簡単な道なのです。本書は、皆さんの英語の理解力を、かならず高めることを確信します。

これは私が高校時代に読んだ(そして今でも愛読している)長崎玄弥『奇跡の英文法』の序章に書かれている言葉だ。この主張を真に受けた私は、ほとんどこのままの姿勢で受験生活を乗り切った。そうしたのは英文法だけではなかったから、私に対する氏の影響は極めて大きかったということなのだろう。

正確に言うと、数学だけは2浪目の最後に赤本『東大の数学』をやったし、それはとても大きな効果があった。しかし、その他の科目は赤本をやらず、特に英語と国語については(英語は赤本『東大の英語』を持っていたのに)、たま〜に受ける模擬試験の機会を除いて、問題演習と呼ばれるものをまったくと言ってよいほどやらなかった。正直に言うと、数学と物理以外で問題演習をするのが面倒臭かったというのが最大の理由であって、それが許されてしまったのはまさに自宅浪人なればこそではあった。

それでも何とか合格できたのだから、「出題傾向を超越した域まで持ってい(く)」ことにはそれなりに成功したと言ってよいのだろう(実際、東大の出題傾向は今でもよく知らない)。他人のペースで勉強することが苦手だった(お金もなかった)私は塾や予備校に行かない道を選択したが、それだけに「自分の力でやりたい」という気持ちは人一倍強かったし、合格後の「自分ひとりでやったぞ!」という感慨もひとしおだった。多分に僥倖(棚ぼた)だったという可能性を考慮しても、だ。

もちろんこんなやり方をすべての人に勧めようとは思わない。しかし、試験と言えば「傾向と対策」だという風潮に対する一つのアンチテーゼとしてであれば、こんな前例にも存在価値があるのではないかと考えている。自分なりのジンテーゼを見つける参考にしてもらえばよい。


これは蛇足だが、TOEIC に限らずどんな試験でも、プロパーな対策をすればするほどそのスコアは「実力」から遠ざかるものだ。もちろん現在の TOEIC などは小手先で何とかなるような試験ではないと思うが、ルールを設けて公平・公正に実施しようとするかぎり対策の余地があるのであり、この種のギャップはゼロにはならないだろう。

だからこそ、個別の試験にプロパーな対策はできるだけ少なくすませたい(特に試験以外で役立たない「テクニック」なるものは皆無にしたい)と私は考えてしまう。それは「問題演習が面倒臭い」という私の個性(?)に根ざすものではあるが、その背後には「基礎を重視してそれを最大限に活用したい」という大義名分(?)もある。だから、多くの受験指導者がそういう考え方を私と共有するようになったら面白いと思うし、そのとき受験産業はどう変わるのか?…などと妄想することもある。

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2015年09月27日

英語学習の目的は人それぞれ

TOEIC の得点力と「英語力」との間には重なる部分もそうでない部分もあろうが、そのうちのどの部分を重視するかは各自が自己責任で決めればよい。仮に「TOEIC の Part7 で全問正解することが私の生き甲斐」でもいいのだ。そもそも「英語はやらない」という選択肢すらあるのだから。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/647613421324660737

このテーマについてはいろんな意見があるように見える。Twitter なんかで荒れることもある。しかし、実際にはそれほど違わないことが多いのではないだろうか。というのも、結局のところ、多様性を否定する発言はしづらいからだ。

荒れてしまう原因の一つとして、「せっかく TOEIC の勉強をするのなら、英語力の向上にもつなげないともったいない」といった種類の主張があると思う。

「もったいない」は発言者の主観であり、この主張自体も「英語力の向上にも努めることが TOEIC 学習者の義務だ」とまでは言っていないのだが、読み手の中には「押しつけ」ととらえてしまう人が存在する。もちろんそれは深読みのしすぎであり、本来ならば発言者に確認をすべきものだ。反論するのはそのあとでよい。振り上げた手は下ろしにくいものだからだ。

Twitter での炎上にはいろいろなパターンがあるのだろうが、上記のような主張に対して必要な確認をとらずに反論(いわゆる脊髄反射)することから始まる場合も少なくないだろう。それを避けるには、論理的思考力や日本語力を鍛えることが大切なのだと思う。まずは落ち着いて、「他の解釈はありえないか」などと考えてみることだ。(cf. 合憲限定解釈

一方で、投稿する側も、このような反応を見越して表現方法を調整することが望ましいと言える。最初からスキのない表現をしておくわけだ。ただし、これがかなりの難題であることは私も重々承知している(実際、この記事は Facebook 投稿後に何度も何度も書きなおした)が、それでも取り組むべきであると思う。

なお、不要なトラブルを避けるには、普段からの人間関係が大きく物を言う。特に、直接会って何度も(できれば飲みながら長時間)話し合ったことのある相手とは、意見の相違があってもあまりギクシャクしないものだ。

それだけに、Twitter 上などで私の知人同士が互いに未対面のままトラブっているのを見ると、それこそ「もったいない」と思ってしまう。「会いたければいつでも紹介するぞ」と言いたくなる。

その意味からはやはりネット上でのやりとりだけでなく、機会を見つけて直接会うようにすることをオススメしたい。いわゆるオフ会はもちろん、勉強会の類(たいていは懇親の場がある)も大いに役立つ。ある程度の人脈ができると、そこから更に芋づる式に広がっていく。

私自身はというと、一昨日には英語関係者たちと昼過ぎから夜遅くまでカラオケ+肉食パーティをやったし、今日も ICEE 見学でいろいろな人と会うことにしている。健全な人間関係があればこそ、健全な議論ができるのだと思っている。

posted by 物好鬼 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする