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2017年01月01日

今年は体も鍛えよう

立位体前屈についてググっていたら「息こらえ」に関する記述を見付けた。統計値はビックリするほど低い。何でも男の場合は33秒以上で「強健者」だと書かれているのだ。

若い頃に2分できたという記憶があるので軽い気持ちで試してみたところ、今回は2分10秒ちょっとだった。肺活量の大きさ(高校時代に5000ccを超えた)が今でも役立っているのだろうが、51歳で記録更新するとは思わなかった。気楽にやったのがよかったのか?

ちなみに肝心の立位体前屈はというと、起床直後でもない限り、床に手のひらがベッタリつく。それでも一昔前に比べると柔軟性は全体的に落ちているというのが自己評価だったりする。(立位体前屈は高校時代に32cm、偏差値80.6。)

一方、運動系の種目(特に心肺能力を要するもの)は昔から苦手。体育でも得意だったのは器械体操と格技だけだったし、それは今でも同じ。

今後は加齢による更なる衰えが予想されるから、体力や運動能力については柔軟性以上に積極的にケアしていきたいと思う。

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2016年03月27日

9=72、8=56 云々

たまたま「ある算数の問題がネット上で話題になっている。あなたの答えは6?それとも9?」というページを見つけた。簡単に言えば、

9=72
8=56
7=42
6=30
5=20
3=??

というナゾナゾ(?)を扱ったページだ。
(言うまでもないことだが、この「=」の使い方は正しくない。「9=72」ではなく「f(9)=72」などと書くべきところだ。こういうことは日常生活でも疎かにしないことが大事だと思う。)

さて、素直にこの問題に取り組んだ場合、数列(高校数学で出てくるやつ)的な発想に慣れている人ならほとんど瞬時に f(n) = n(n-1) という式に気付くだろう(私もそうだった)。

ところがだ。実はこの問題、上の5つを元にして6つ目の右辺を確定することはそもそも不可能だ。仮に「左辺から右辺を導く関数は4次以下の代数的な式(つまり f(n)=an4+bn3+cn2+dn+e の形)である」といった条件が付いていればその式は f(n)=n2-n=n(n-1) となり、「??」は 6 と定まる。しかし、そういう条件がなければ正解も無限に存在することになる。

つまり、「??」の部分は 9 でも 12 でも 158.32 でも 3.14159265... でも間違っているとは言えないのだ。それどころか、それぞれの答に対応した式を(それも無限にたくさん)立てることすら可能だ。もっとも、あくまでも可能なだけであって、任意の形式を持った6つの式から成る連立方程式を実際に解くなどという面倒なことは、私はやりたくない(笑)。

さて、f(n) = n(n-1) という式に気付いてしまった人は「あっ、これが答だ。簡単じゃん!」と思ってしまい、他の考え方が存在しうることに気付かない可能性も少なからずある。そうなってしまった場合、その人はそれほど論理的とは言えないだろう。

一方、6 以外を答とした人に対しては、「左辺から右辺を導く関数はどんな式になりますか?」と問いただすことができる。もしその問いに答えられないのであれば、その人は論理的に考えたとはとても言い難い。(さりとて、それは「感覚的」というのと同義なのか?という疑問は残るが。)

というわけで、

 @f(n) = n(n-1) という関係に気付く
 A私が中盤に書いたような事情にも配慮できる

の双方を満たすのが、単に 6 とか 9 などと答えるよりはるかに論理的なのではないかと思う。
(そして、自らの不勉強を顧みずにこんな記事を書いてしまう私は「論理的でありたいと強く願う人」なのだとも思う。)

蛇足だが、この記事を Facebook に投稿したところ、アメリカ人の Facebook 友達から

9=72
9−9=72−9
0=63
0/63=63/63
0=1
0・(y−x)=1・(y−x)
0=y−x
0+x=y−x+x
x=y

というコメントがあった。どう答えようかと思ったが、少し考えたうえで

9=72
9−9=72−9
0=63≠1
0≠1
0・(y−x)≠1・(y−x)
(1−0)(y−x)≠0
1・(y−x)≠0
y−x≠0
x≠y

と返しておいた。

(わかる人にはわかると思うが、偽命題を前提にすればどんな命題も導き出せるという論理を利用している。)

posted by 物好鬼 at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

経歴詐称につきツラツラと

経歴詐称が話題になっているので、思ったことを徒然なるままに…。

一口に経歴と言ってもいろいろある。まず、そのなかで「学歴」と呼ばれるものについて考えてみると、それは大抵「学習歴」ではなく(まして「学的研鑽歴」などではさらになく)「学校歴」と呼ぶべきものであることに気付く。

そして(欧米はともかく)日本の大学は合格するまでがキモで、卒業するのは比較的やさしいと言われている点にも注意が必要だ。つまり、ある大学を卒業したという事実は、その大学に入学したことがあるというのと大差ないのだ。(ちなみに私はサボりすぎて留年したが、卒業は問題なくできた。教職をとらなかったのは失敗だったかもしれないとは最近になって思い始めているが…。)

ということは、「学歴」そのもの(特に日本の大学を卒業するまでの部分)によって表されているのは、「大学合格までの実績」がその大半を占めているということになる。若手を終えて中堅以上の年齢ともなれば、大学合格以降の方が研鑽期間としては長いものであるはずなのに、だ。そこで、大学合格以降の実績・経歴が大きな問題となってくる…はずだ。(と、冷や汗をかきながら書いてみる。)

ところで、経営(に限らず)コンサルタントになるのに特定の資格や学位は要求されない。その意味では、実力さえあるならば、中卒でも全然問題ない。そして、そういう「専門家」に依頼するかどうかはあくまでもクライアント側が判断すべきことであり、その基礎には「契約自由の原則」がある。もちろん公正なる競争のためには、判断に必要な事実が正しく伝えられる必要はある。

とは言うものの、自分が専門としない分野について他人の実力を評価することはなかなか難しい。その点、資格や学位などは「少なくとも、それらを得るのに必要なものは持ってい(たことがあ)るはず」という「推定」が成り立つという点で存在意義がある。だから、当人としても、自らの実力を見える化するための手段として資格や学位を使うことができるし、実際に使われてもいる。ただし、あくまで「推定」でしかないから、反証されれば覆ることもある。

さて、プロとして働く際に信用は極めて重要だから、実績・経歴に関する表示は虚偽を含まないよう気を付けなくてはならない。たとえ現時点において充分すぎるほどの実力を持っているとしても関係ない。この点、微妙な表現を使って経歴を「盛る」ことはそれ自体としてはセーフなのかもしれないが、続けているうちに抵抗感が薄らいでくる危険性があることを考えると、やはり避けておいた方が無難だろう。

もし詐称(や盛りすぎ?)がバレれば信用を失うだけでなく契約を打ち切られる(=収入を失う)可能性があるし、状況次第では莫大な額の損害賠償を請求されることもありうる。また、ネット等であることないこと書かれてしまうことも考えられる。もちろん納得できない部分については受けて立つことも可能ではあるものの、それはそれで大きな負担となることは覚悟しておく必要があるだろう。

なお、経営コンサルタントの場合には、もう一つ別の問題が重なると思う。というのは、専門分野の性格上、レピュテーションマネジメントに無知であってはならないと考えられるからだ。その意味で、某K氏のように公式サイトに表示されている自らの経歴に無頓着なのは頗るマズい。そう考えると、今回の騒動は遅かれ早かれやってくる結末だったのかもしれない。

今さらではあるが、氏は(経営・経済などに関する知識・能力について私は関知しないけれども)なかなか多芸多才な人物だったようだから、実績・経歴の表示さえ適切な範囲にとどめておけばよかったのに!という印象が強い。氏の言う「急ごしらえのβ版」が真実なのかどうかについては(ラジオで流れたお詫びでも触れられなかったから)疑問は残るとしても、いずれにせよ不適切な表示が今回の結果につながったのは間違いない。もっとも直接的には本人の意思による「自粛」なのだが。

何はともあれ、「努力が間違った方向に行かないように注意すべき」という意味においては、この事件も他山の石とすべきものなのだろう。単にワイドショー的に盛り上がるだけではよろしくないと感じた次第。

駄文多謝。

posted by 物好鬼 at 23:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

法律的発想と配慮 〜住みやすさは大切〜

BLOGOS に "「ご自由にお取りください」ラーメン屋でネギを大量に食べたら「出禁」こんなのアリ?" という記事があった。書いたのは弁護士ドットコム。これに関して Facebook に私見を書いたので、こちらにも貼っておきたい。

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いかにも法律家的な発想だと思う。私も民法の基礎は学んだことがあるから、契約云々という部分は理解できる。

しかし、「ご自由に」というのは「いちいち許可を取る必要はありませんよ」という意味であって、量が無制限であるということまでは意味しないだろう。店員が「こっちも商売でやってるんで」と言ったのは当然だ。こんなことは立場を逆にして考えれば容易に想像できるはずだ。

たとえ厳密に書かれていなくても、その背後には「分量は常識の範囲内でお願いします」という暗黙の了解があるのだと理解すべきところであり、美味しく食べることが優先されるべき場所にいちいち厳密な記述を求めるのは、それこそ「やぼ」というものだろう。

これはやや日本的な「配慮」の問題なのかもしれない(だから欧米諸国に同じことは期待しない)が、こういった暗黙の了解が読み取れない人が多くなりすぎると、その社会は住みにくくなるのではないか。法律がどんなに大切なものだとしても、日本のよいところは失わない方がよいと思う。

そう考えると、
『ご自由にお取りください』の張り紙は剥がすべきでしょう。できない約束を掲げて客を勧誘するのはアンフェアですし,大食いに対する『理由なき差別』です。
といった一面的な主張をするよりも、
法律的にはこのようなトラブルに発展する可能性があるのでお店側も注意が必要です。しかし、人間社会は法律が全てではありませんから、客側としても店の足元を見るようなことは控えるのが賢明です。お互いのことを思いやる気持ちがないと、住みにくい社会になってしまいますから。
のように言った方がよいはずだ。そして、このようなことは法律を専門とする人間こそが率先して語るべきであると私は思う。

posted by 物好鬼 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

「無断引用」という言い方

ほぼ1年前、毎日新聞・校閲グループが次のようなツイートをしている(2014年3月17日 19:10、論評のため全文引用させていただく)。

【直したい表現】「無断引用」→○「無断転載」 ◆「無断引用」は誤り。著作権法でいう「引用」は、同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること。「転載」は「引用」範囲を超えた行為で、許可を得るなどの手続きが必要。無許諾の複製による利用は「無断転載」「盗用」「不適切引用」

はたしてそうなのか。以下に私の考えを記す。

まず、著作権法では「引用」という語は定義されてはいない。第32条1項において
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
(強調は筆者)
のように使われているだけだ。他の条文にも登場しない。

では、この「引用」という語は、@法32条に示された条件を満たしたものに限定して使うべきなのか、それともAそうでないものをも含んだ一般的な意味で使うべきなのか?

法解釈の最大のよりどころは条文であるから、ここであらためて条文を見てみよう。上記のとおり「引用」は3回登場する。

まず1つ目は、「公表された著作物は」というかたちで対象を限定し、「目的上正当な範囲内で」というかたちで目的を限定している。このようにして意味範囲を限定しているということは、この「引用」はもともとA(一般的)の考えに立ったものであると理解できる。

2つ目と3つ目はわかりにくいが、1つ目がA(一般的)である以上、2つ目と3つ目も同じくAであると判断するのが自然であろう。少なくとも、いずれについても@(限定的)であると断言するに足りる根拠はないと私には思われる。

さて、上記ツイートを見ると、「著作権法でいう『引用』は同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること」とある。これは明確に@(限定的)の考えに立っている。
(この断定が何を根拠としたものなのかはよくわからない。書店に行って著作権法の専門書を何冊か見てみたが、それらしいものは見つからなかった。逆に、A(一般的)の立場で書かれたものはあったと記憶している。)

ところが、最後に登場する「不適切引用」はというと、「不適切」という限定が可能であるところからして、この「引用」がA(一般的)の考えに立つものであることは明らかだ。となると、一つのツイートの内部で「引用」の意味が矛盾していることになる。これはA(一般的)に統一すべきものであろう。

さて、ここでようやく本題。肝心の「無断引用」については、やはり適切な呼び方とは言えない。いくつかの条件を満たしてさえいれば無断で引用することが許される以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ(このように理由を明示することが大切である)。その意味からは、違法なものだけを示すときには、毎日新聞・校閲グループの言うように「盗用」「不適切引用」などの呼び方をするのがよいだろう。

ただし、「無断転載」には疑問が残る。というのは、転載もまたいくつかの状況(32条2項、39条1項、40条1項)においては無断での実施が許されている以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ。そのため、私としては代案のリストからはずしておきたい。

posted by 物好鬼 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

掛け算の順序問題について

あくまでも思いつきの私見ではあるが、忘れないうちに記しておきたい。

参考:Wikipedia 記事 。足し算についても同様の議論があるので、ここではまとめて論じる。


まず基本的な事実として、掛け算にしろ足し算にしろ、具体的なあり方としてはさまざまなタイプのものがあり、中には2つのオペランド(演算の対象となる値や変数、「被演算子」)の順序ないし役割を区別すべき場合もある。そのこと自体は別に間違ってはいない。

しかし、2つのオペランドのどちらを先に置いても演算結果が同じになるということも事実であり、それゆえに「×」や「+」は可換な演算子(オペコード)として定義ないし理解されている。(「そのように定義されてはいない」という立場でも交換法則は認めるであろうし、「×」「+」という記号自体に順序を指示する部分がないことも否定はできないであろう。)

つまり、「×」「+」という演算子の機能は、オペランドの順序や役割の違いを捨象したものなのである。ゆえに、演算子について指導する際にそのような特殊性を強制的に含めてしまう(特殊性を一般性として扱う)ことは矛盾であり、論理的な指導とは言い難いであろう。

もちろん、冒頭にも書いたように、オペランドの順序ないし役割の区別を理解させたい場合はあるであろうし、そのこと自体に問題はない。しかし、そのような場合には、「×」「+」という演算子を使わずに自然言語で説明させるべきであろうし、それで足りるであろう。なお、この目的のために新たな演算子を導入することも不可能ではないが、小学生に対する教育内容としては適切とは言えまい。
(小学校の算数には「国語から数学への橋渡し」という特殊な役割があるのではないかと私は思う。特に低学年の場合、数学的抽象は理解が難しいであろうからだ。そうであるならば、掛け算の順序問題について考えるときも「橋渡し」への配慮が必要だろう。しかるに、もしその二面性を無視したらどうなるか。国語的側面ばかりをとりあげると「掛け算の順序は大事」という主張につながり、数学的側面ばかりをとりあげると逆の主張につながるだろう。実際にはそのバランスポイントは、子供の学習段階(同じ分野でも個人差があってその時期・年齢は固定的ではないし、分野によってもバラツキがあろう)に応じて徐々に数学側へと移していくべきものだろうと思う。'17/08/05 追記、08/13 少し修正)

ここで、記事中に「乗数を右に書くと、四則演算のすべてが 操作される数、操作する数 の順に統一でき合理的である」とある点に一言しておきたい。このようにすれば確かに「統一」はできる。しかしそれは、"足し算や掛け算のように交換法則が成り立つもの" と "引き算や割り算のように交換法則が成り立たないもの" との間にある違いを捨象してしまう点に問題がある。そもそも算数・数学の教育としては、生徒たちにその「違い」をも認識させる必要性があるはずである。もちろん小学生にいきなり理解させるのは難しいであろうが、その方向で教育を進める必要性はあろう。となれば、"四則演算全部の共通性" ばかりを強調しすぎず、"交換法則の有無による特殊性" をも取り上げるのが必須かつ妥当な方法と言えるであろう。

ここまでが、この問題に対する私の現時点での考えである。
 

リンク先の記事を読んで思うのは、賛成・反対どちらの主張も一面的なのではないかということだ。私もこれまでに政治や学問も含めたさまざまな問題について考えてきたが、その経験から「意見が2つの陣営に大きく分かれて対立しているテーマの場合、たいていはどちらの陣営にも見落としている側面ないし事実がある」と考えるようになっているのだが、それはこの「掛け算の順序問題」にも当てはまるように私には思われる。

端的に言うと、賛成論は「×」「+」という演算子が持つ「オペランドの順序・役割による違いを捨象する」という性質を無視して(つまり、特殊性にすぎないはずの「違い」にこだわって)おり、反対論は掛け算や足し算における具体的なあり方にさまざまなタイプのものがある(オペランドの順序・役割による違いを理解することも大切である)という点を無視している。もちろんこれらは両極端であり、実際には中間的な主張もいろいろあるであろう。それに対する私の考えは上に述べたとおりであり、演算子と自然言語とを併用することによって問題解決を図ろうとするものである。
 

以下、まったくの蛇足ではあるが、これと似たことが<分数>についても言えるので、ついでに紹介しておきたい。問題の論理構造としては掛け算の順序問題とは異なるものであるが、これ自体がとても興味深い論点であるので、あえて本記事内でとりあげることにする。
 

まず、通常の分数においては、たとえば 1/4 + 1/3 は 7/12 に等しいとされる。では、これに対して教え子の小学生が「でも、4打数1安打と3打数1安打を足したら7打数2安打ですよ」と反論してきたらどうするか、という問題がある。これは大学生が家庭教師で小学生に教える際などに悩まされることがあると聞いたことがある。

ここで大切なのは、この子の考え方(それなりにしっかりした根拠がある)を頭ごなしに否定するのではなく、それ自体の妥当性を肯定したうえで、「算数で習う分数というのはそれとは違ったパターンの場合に使うのだ」ということを具体例を挙げて示すこと、であろう。

参考のため、その「具体例」を1つ挙げておく。

「ここに夫婦と子供2人の4人家族がいます。お父さんは毎日ケーキを買って帰ります。そのケーキはいつも同じ種類・大きさのもので、それを家族で平等に分けて食べます。ただし、誰かが出掛けていたりして家にいないときは、家にいる人だけで分け、いない人のために残すようなことはしません。
 さて、昨日は家族全員が家にいたので4人で分けました。お父さんが食べたのは 1/4 個です。ところが今日はお母さんが実家に帰ってしまったので3人で分けました。お父さんが食べたのは 1/3 個です。さて、昨日と今日の分を合わせると、お父さんはケーキを何個食べたことになるでしょうか」

この場合には 1/4 + 1/3 = 7/12 という通常の分数計算が適用できることは容易に見て取れる。ではその基礎は何なのであろうかと考えてみると、それはどうやらすべての日に共通している「ケーキ1個」が一種の単位(=1)となっている点にあるようである。

それに対し、野球の「○打数○安打」の場合にはそのような単位が存在しない。そして、通常の分数計算は使えない(上に紹介した小学生の発言どおりになる)。もちろんこのような場合に対して通常の分数とは異なる演算子を導入することも可能ではあろうが、そのことにどのくらいの利益があるか私は知らない。

以上。

posted by 物好鬼 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする