受験生が、目の前にある一番易しい試験(大学受験生ならセンター試験)を基準にして「この試験に出ないからやらない」と考えてしまうのは、「学び」の姿勢としては消極的すぎるのではないか。試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではないはずだからだ。
もちろん、別記したように、試験に出る部分を優先すること自体は間違ってはいないのだが、試験に出ないからやらないという発想には危険な面もある。試験に出ない項目の中にも重要な内容が含まれている可能性がそれなりにあるからだ。例えば、項目間のつながりを理解するのに役立つような内容だ。もちろん、「試験には出なくても実世界では必要」という項目もあるだろう。だから、試験のためにいわゆる「選択と集中」をするにしても、まずは学習対象を少し広めに見渡したうえで実行するべきだろうと思うのだ。
別記:「試験に出ることはしっかり勉強する」はいいが、「試験に出ないことは勉強しない」という考え方には注意が必要だ。項目間のつながりが見えにくくなる可能性があるからだ。宅浪中の私みたいに関係の薄い分野までやる必要はないが、視野を狭めすぎない心掛けは持ってほしい。あとは時間との兼ね合いだ。
それに、これもまた別記したことであるが、何事も少し余分と思えるくらいに学んでおいた方が、視野の広さという面においても、能力の深さという面においても、余裕を持つことが可能になるはずだ。これは人生において大きな武器になりうるものであり、その意味からも学びに対する積極的姿勢は若いときから育んでおきたい。
別記:5時起きに慣れた人には6時起きは簡単だし、数Vの勉強を頑張った人には数Uの大半は簡単だ。同様のことがいろんな分野で言える。もし「日常生活には四則演算で足りる」と考えて四則演算しか学ばなかったら、その人は自分の能力ギリギリで生活することになる。プラスアルファの学びは余裕の源なのだ。
もっとも、受験生本人が消極的態度をとってしまうことにはしかたない部分もある。特にそれが不得意科目である場合にはそうだろう(これは私自身も社会科で経験した)。しかし、人生と「学び」の先輩でもある指導者としては、それに安易に阿(おもね)るべきではないと私は考えている。となれば、指導者は受験生の消極性を打ち消すのに充分な程度の積極性を見せるべし、ということになる。
一方、学習者はさまざまであり、現時点での到達度や将来の目標などに配慮することも必要だ。その意味からは、重要度や難易度などに関する表示が教材の各項目に付されていれば便利なのは間違いない。実際にはそういう表示がない教材も少なくないが、そのような場合には指導者が補足すべきであるし、すればすむことではある。
結局のところ、「学び」に対する私の考えというのは、冒頭にも書いたように、「試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではない」ということに尽きるのだろうと思う。
※蛇足1(長め)
つい先日もとある大学受験生と長時間話す機会があったが、そのとき私が持ち出した話題は、数学基礎論(無限集合論の基礎、特に可付番集合の濃度、対角線論法、連続体仮説)や法解釈(刑法における「原因において自由な行為」の法理など)といったものだった。過去には科学論やビジネスなどさまざまな話をしているし、勉強法に関する話は毎度のことだ(受験生相手だから当然だが)。個別の問題を素材にして解き方や学び方について説明することもある(これは適宜やっている)。
もちろん受験生としてはこれからしばらくは試験対策にしっかり集中すべきであるし、私からは反復学習の際に注意すべきことについても忘れずに指摘しておいた。しかしその一方で、そういう時期であればこそ、当面の試験対策の向こう側に広がっている<知の世界>というものを少しでも知っておいてほしいとも私は思ったのだ。(宅浪時代の私などはそういうことに力を入れすぎたくらいだ。)
幸いその受験生は、私の話をそれなりに興味を持って聞いてくれていたようではあった。もちろん、長期的な効果についてはすぐにはわからないが、それが「知」や「学び」というものに対する私の姿勢なのだということは言えるだろう。今後も試験対策の邪魔にならない範囲で積極的に継続していきたいと考えている。
※蛇足2
とは言うものの、特定の試験で高得点を取ることを趣味にするのは個人の自由であることも指摘しておく必要があると思う。