まず、大学の授業と言ってもピンキリだ。特に人文社会系は学者の数だけ学派(つまり内容面の違い)があると言ってもいいくらいだし、授業の能力にも個人差が大きい(これは自然系もそうだろう)。少なくとも私の在学中はそうだったし、その点は今でも大差あるまい。
それに、授業が仮に「ピン」ばかりだとしても(仮定法過去)、個々の学生が持つ興味関心や必要性といったものにはかなりの幅があるはずだ。これはたとえ同じ学部・学科に所属して同じ分野を専攻していても、だ。
つまり、大学(もちろん東大も含めて)で教えていることの全てが自分にとって同じように大事であるとは言えないわけだ。と同時に、大学で教えていないことの中にも価値あるものがありうる、という点にも注意が必要だろう。
もちろん、大学で教えられている内容が自分自身の興味関心や必要性にピッタリ合っているということもありえなくはないが、まずは疑ってかかった方が健全だと思う。判断するにあたっては、学生が自身の主観に頼りすぎることは危険だろうから周囲の意見も参考にすべきだが、大学生ともなれば最終的な判断は自己責任でなすべきだろう。
実際、私などは、教官たち(概して仲はよかった)が教えていることを横目で見ながら学外者の学説を学ん(で教官たちに論戦を挑ん)だり、授業と無関係なところで司法試験対策をしたり(あるいはパソコンでプログラミングに沈潜したり…)していたから、当然のごとく(?)大学の成績はよくなかった(結果として予定どおり単位数ピッタリで卒業した)。そのため私はやや自虐的に「オレは大学ではあまり勉強しなかった」と言ったりもするのだが、それは「大学時代にあまり勉強しなかった」というのとは明確に異なる。
結局のところ、大学というのは「学びの場(の一つ)」であり「学びのキッカケとなる場(の一つ)」なのであって、他の「場」とのバランスの取り方は個人によって違って当然のものなのだ。ゆえに、その選択によって「その人にとっての大学の意義」も違ってくる。そして、社会的存在としての大学は、そういう状況に応じていくことを求められる。
だから、著者の言う「大学教育を創造するポジティブな共創関係」としては、「学生と学問の双方に存在している多様性というものに、学生自身はもちろん、大学という組織が今後どう対応していくのか」といったことが大きなテーマとして存在しているのだと思う。