「本を読むときに頭の中で『声』が聞こえる人と聞こえない人がいることが判明」という記事。しかし、四半世紀前の卒論執筆時に「こんなことは当然だ」と思っていた人間としては、このタイトルには強い「今更」感がある。最近の学説は知らないけれど。 http://gigazine.net/news/20160225-read-voice-in-head/https://twitter.com/George_Ohashi/status/703027084759666689
(140字)
以下、付けたり。
記事中にある「読書中の内なる声」というのは言語学的には「内的言語」とか「内言」などと呼ばれていて、その正体は音声言語の表象的認識だと私は考える(このあたりは三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』による部分が大きい)。
声を出さない読書の際にこの「内なる声」が聞こえるかどうかには個人差があり、「内なる声」に頼らないと読めない場合は読速度に低い限界が生じてしまうのに対し、「内なる声」に頼らずに(視覚的な文字表象から直接意味を認識して)読める場合はその限界を破ることができる。この経験的事実は、速読の世界では昔からよく知られていた。
そんなこともあって(だと思うが)、そのころから「二重経路モデル」などと呼ばれる学説がいくつか発表されているし、同じようなことを私も卒論(90年に執筆)の中で当然のこととして述べている。
(参考記事)
記事タイトルに今更感があるのはそういう理由なのだが、その一方で、声色に関する部分は興味深いと思う。
蛇足だが、私が卒論を書いていたころに有名だった「ジョイント速読法」では、「内なる声」に頼る読み方のことを「黙読」、頼らない読み方のことを「視読」とそれぞれ呼んでいた。便利な呼び分け方だったので、私も卒論の中で使用した。