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2016年02月14日

英語教育は必要性とバランスを考えて

今回は「英語は幼いうちに打て? 進む早期化、アジア追う」という記事。

その記事に曰く、ある小学校では

「2年生の生活科の授業をのぞくと、記者には聞き取れないほど流ちょうな英語で児童と教師がやりとりを繰り広げていた」

のだそうだ。一見すばらしいことのように聞こえるが、言葉というものは流暢さとともに正確さや適切さといったものもあわせて評価される必要があるはずだ。

なのに「記者には聞き取れないほど」という部分から考えるに、この記者さんにはそれらについて自立的な評価ができるだけの能力があるのか不安になってしまう。もちろん謙遜しているという可能性もなくはないのだが、いずれにしても正確さや適切さなどの側面に触れていない点で記述が不充分と言えよう。
 
また、

「国語(日本語)以外の大半の授業を英語で受ける」

とも書かれている。しかし、通常の日本人は「国語」だけでなく他教科も含めたあらゆる時間における日本語使用を通じて日本語力を伸ばしていくものだろう(それでも足りない場合が多々あるのだが)。

となれば、記事の中ではそういう機会が減ってしまうことによるデメリットにも触れる必要があるはずなのだが、残念ながら一面的な観察になってしまっている。

言うまでもないことだが、そもそも授業というのは「わかってなんぼ」のものだろう。もちろんこういう授業を受ける子どもがいてもいいのだが、世の中には日本語での授業ですら付いていけない子どもがたくさんいることを考えると、かなり相手を選ぶ方法だと言えるのではないか。


英語による授業以外のところでも、そもそも英語をどこまで学ぶべきかは各人の必要性と他教科(あるいは勉強以外の分野も含めて)とのバランスによって判断されるべき問題だと思う。すべての人に高度な英語力を求めるのは、すべての人に高度な数学力を求めるのと同様に無理があろう。となると、自身が将来的に必要としそうなものにウェイトを置いてやるのが現実的だということになる。

最近はオリンピックが近いこともあってか英語教育狂想曲といった感を呈しているが、私に言わせれば「国語や数学や理科も忘れるなよ」なのだ(本当は社会も音楽も体育も同様なのだが、私は苦手だったから偉そうなことは言えない)。率直に言って、英語をやるために他の教科・分野を犠牲にした人は、他の教科・分野をやるために英語を犠牲にしている人のことを笑えないはずだ。それはその人の生き方なのであり、英語をどこまで学ぶかについても、最終的には各人が自己責任で判断するしかないということになる。

もちろん英語は(他の教科・分野と同様に)できた方がよいし、それも高い能力があればそれだけ大きなメリットが得られるとは私も思う。だから、国民全体の英語力を引き上げようという考え自体を否定するつもりはさらさらない。ただ、公教育、特に中等レベルのそれに関しては、他の教科・分野をあまり犠牲にしないで進めるのでないかぎり、私としては批判的にならざるをえない。

なお、英語と言えば最近は「4技能の使用」という意味での実用性ばかりが強調される傾向がある。それは従来の英語教育が期待されたほどの「実用性」に繋がっていないという事実への反省という面もある。しかし、それでもそういう意味での実用性とは異なる理由(たとえば理論的関心であれ単なる好みに由来する興味であれ)で英語や他の外国語を学ぶということも否定されてはならないだろう。その点まで含めての選択が問われるということだ。


以下、つけたり。

私見だが、外国語と母語との関係としては

 @両者の言語としての類似性の度合い
  (学習に要する労力が違ってくる)
 A現代社会で生きるのに母語だけで充分か否か
  (不充分な場合、英語を優先した方がよいことすらありうる)
 B日常生活においてその外国語に接する機会が多いか

といった側面が考慮されるべきだろう。日本の場合は

 @日本語は英語との言語間距離が極めて大きい
 A日本語だけでも最先端の知的生活までカバーしうる
 Bあまり高度な英語に接する機会はそれほど多くはない

という点でやや特殊な立場にあるのだから、「他の国がそうだから」のようなものは根拠として不充分すぎよう。

ここで非印欧系言語を公用語とする国をいくつか見てみたい。まず、フィンランドは@Aでは日本に近いものの、日常生活で英語やスウェーデン語に接する機会が多いようなので、Bに大きな違いがあると考えられる。韓国は@Bで日本に近そうだが、漢字教育が一部に限定されている現状ではAに違いがある可能性がある。(他にも検討すべき国はたくさんあるが、よく知らないから今は触れない。) あくまでも現時点での個人的印象だが、ハンガリーなどの方が参考になる点が多そうだと感じる。
 

以下、つけたりのつけたり。

教育はすべての人に関係する問題ではあるが、論争が繰り広げられているようなテーマを取材して記事を書くには相当量の準備(教養も含め)が必要なのであって、誰にでも簡単にできるようなことではないだろうと思う。正直なところ、私もあまり深く踏み込むことはできないでいる。

しかし、この種の領域は上辺だけ見ると簡単そうに見えるから安易に首を突っ込みやすいという傾向はあって(おそらく新聞社もこの点を甘く見ていて)、<重力波>のような見るからに難しそうなテーマとは違った状況にあるように見える。もっとも、大手紙ですらサイエンス系ではトンチンカンな記事をたまに見かけるから、実際にはそれほど違わないのかもしれない。結局、どっちなんだ?(笑)

posted by 物好鬼 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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