先週の土曜、高校の同期会があった。卒後31年ちょっと。そこに、高校時代に英語や数学などの勉強を一緒にやっていた男が来ていたのだが、彼に「数学に関しては大橋は天才型だった」と言われた。しかし、今から考えてみると、私の数学(物理なども)は原理原則重視型とでも呼ぶべきものだったと思う。
どういうことかというと、どんな問題を解くときにもできるだけ基本的な項目に立ち返って考えるようにしていたのだ。特に公式に関しては「自分で証明できない公式を使うのは卑怯だ」という考え方だった。「そこまでしなくても」と思われるかもしれないが、物理では期待以上の効果があったと思っている。
その一方で、私はいわゆる解法というものに無頓着だった。それでも問題の大半は解けたから、件の友人には「天才型」に見えたのだろう。解法というのは成績向上・大学合格という目的からは効率的なものではあるが、学習の目的をそれらに限定したくなかった私には、この方法が合っていたのだろうと思う。
では、現在学習中の人はどうすべきか。大学合格への最短距離を目指したいのならば、最初から解説を見て、解法も積極的に吸収するのがよい。いわゆる「数学は暗記だ」的方法だ。入試で出題される数学などの問題には必ず正解が存在するのだから、そういう問題が解ければよいのなら、この方法は合理的だ。
しかし、数学などについて自分の頭で考えられる人間(学者の類)になりたいのならば、安易に解法に頼らず、できるだけ自力で考えるようにすべきだろう。そしてその上で、入試対策として解法(=他人の考え)を学ぶ。自分で苦労した後であれば解法の価値も実感できるし、記憶にも残りやすくなるはずだ。
蛇足だが、いわゆる「数学は暗記だ」においても理解は必須とされる。こういう解法依存型の方法を高校生などが使うべきどうかは上に書いたとおりだが、語学に適用するのは問題ないと私は考えている。文法規則を自分で考えつく必要性は少ないからだ。ただし、文構造の体系的理解だけは丁寧にやるべきだ。
(以上、すべて140字ずつになっている。)
その本は読んでいませんので、「理解できない」というのがどのレベルのものを指しているのか、私にはわかりません。
数学を志す人間は基本的に考えるのが好きでしょうから、小平先生の場合も相当程度まで考えた上での「理解できない」なのではないかと想像するのですが…。そのあたり、何か詳しい記述はありませんか?
私も機会があったら、その本にも目を通してみたいと思います。たしか職場近くの書店で見かけた記憶がありますので。
興味深いですね。
ところで「考える」とは、具体的にどんな行為だとお考えでしょうか?
つまり「考える」とは何か、きちんと「考えた」経験はありますか?その結論は何でしょうか?という問いです。
書き写す過程で、解説作成者の思考の跡をたどることができますから、それで納得していくのでしょう。
覚えるというのは、「この手があったか!」とその解法をある程度一般化して、自ら切れるカードとして覚えるという意味でしょう。
異論がある方もいるかもしれませんが、これも確かな学習法の一つです。