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2015年04月02日

言語の本質は音声ではない

今日のニュースで「手話法の制定求め意見書可決 全都道府県議会」という記事があった。そしてそこには
手話を言語として認め、使用しやすい環境整備を目指す「日本手話言語法」の制定を求める意見書が全ての都道府県議会で可決された
と書かれていた。私自身も中学時代に手話の勉強をしたことがあるから思うのだが、手話法の制定を求めることは聴覚障害者らのために望ましいことであるし、また、当然のことでもあろう。
※なお、「障害者の権利に関する条約」第2条には「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」とあり、「障害者基本法」第3条三号には「言語(手話を含む。)」という文言がある点をここで指摘しておきたい。

ところで、Wikipedia で「音声言語」の項を見ると、
ヨーロッパで成立した近代言語学では人類の言語の発生、並びに本質は音声言語であるとされる。これを「音声言語中心主義」という。
と書かれている。音声言語が「人類の言語の発生」だけでなく「(人類の言語の)本質」でもあると言っているところに注目していただきたい。似たような主張は昨今の英語教育改革論の中でも見かけるが、それは「話す」を4技能の中心ないし基礎と考えるにあたって、音声言語中心主義的発想が(意図的か否かはともかく)その根拠として使われているからかもしれない。

これは一見したところ正しいように見える主張ではある(何せ近代言語学で言われていることなのだ)が、この立場に立つと音声を媒介にしない表現(論理的には手話に限定されない)を言語であると認めることができなくなってしまう。本当にそれでよいのだろうか。

最初から結論的に言うならば、私見では
「言語」とは、人間が「規範に従って感性的な形式を運用することで自らの認識を表現し、同じ規範を裏返し(逆向き)に使うことで他者の表現を鑑賞する」という過程的構造を使用するときの、その<表現>(行為ではなく物質的に外化された成果物)のことである
とでも考えるべきものだ。(ここでは詳しい論証まではしないが、この考えが三浦つとむに多くを負うものであることだけは記しておきたい。)

さて、ここに登場する「感性的な形式」というのは、本来的には、当事者双方が操作および認識できるような形態であれば何でもよい。しかし、目・耳・口に大きな問題がない場合には、まず間違いなく「人の口から発せられた音声」がその人にとっての「感性的な形式」となるだろう。逆に、生まれつき耳が聞こえない人が手話使用者に囲まれて育った場合には、手話の形式が「感性的な形式」となる可能性が高い、ということでもある。

「言語」一般をこのように捉えれば、手話のようなものも言語であると容易に認めることができる。それがこの考え方の決定的なメリットと言えるかもしれない。その一方で、具体的なレベルで見ると、大半の人(より正確には目・耳・口に大きな問題がない人)にとって音声言語が母語となりやすいということも否定されない。つまり、現状との関係では、何の問題も発生しない。

言い方を変えるならば、ここには2階建ての構造があるということでもある。そこを誤って平屋(ひらや)的に理解すると「言語の本質は音声言語である」となってしまう。しかし、特に専門家たる者は、このような論理的ミスをしていてはならない。

もちろんこういう考え方の相違というのは、「大半の人」に対する教育ではほとんど問題にならないであろう。しかし、実践だけでなく理論にも関心がある人にとっては、決して無視すべきではない、大切な区別であると私は考える。ぜひ food for thought にしていただきたい。

posted by 物好鬼 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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