いわゆる言語なるものは、音声言語であれ文字言語であれ、三浦つとむ言うところの「言語表現と非言語表現との統一」(『認識と言語の理論』p.389)である。
さて、実際の表現活動では双方のレベルが問われるのであるが、訓練の段階で両者を同列に扱うのは得策ではない。ある武道家の言を借りるなら、「人間は認識的存在(精神的動物)であるから、しかもその認識は一度に多くの方向へは集中不可能であるから、ある技の創出を目指すばあい、それを使用することと同一の段階においては、見事にはなしえない」(南郷継正『武道への道』(三一新書版)p.174)、というのがその理由である。
「非言語表現」としての側面はいろいろな具体的形態を持ちうる。しかし、それは「言語表現」としての側面を犠牲にしない範囲でのみ許されるものであるという点に注意が必要である。例えば、音声・文字に強い芸術性を与えようとするのはよいが、そのために明らかに間違った(あるいは他の)音声・文字になってしまっては行き過ぎである。
それを防ぐには、「言語表現」としての側面を優先的に学ぶ必要がある。この側面は「超感性的」なものであるが、要するに他の音声・文字と混同されない程度に正確な表現ができるようになることがミニマムである。
それが達成できたら、その学習を継続しつつ、「非言語表現」としての側面を徐々に加味していく。こちらは「感性的」なものであり、具体的には「ヨリ美しい文字・発音を習得する」こととともに「情感を込める」といったことが含まれる。かなり多面的であるだけでなく情緒面の成長も必要とされるので、そんなに簡単ではない。
以上の順序を端的にまとめると、文字言語の場合なら「字を学んでから書に進む」ということであり、同じ論理が音声言語においてもなりたつ。ただし、すべての人が同じものを同じレベルまで要求されるというわけではない(蛇足↓参照)。
<蛇足>
私自身は、文字は(日本語でも)それほどキレイには書けないが、発音は標準的なアメリカ英語のものを目指して訓練を続けている。ただし、さまざまな「英語」の中で私がアメリカ英語を選んだのは、主として好みの問題である。
この取り組みに自己満足という面があることは否定できないものの、キレイな発音ができるようになると音読やシャドーイングが楽しくなるのは事実である。せっかくなので関連する主張を私の愛読書から一つ引用してみる。
「歌のほんとうの美しさは、正しく歌わないとわからないのと同様に、ことばの生きた美しさも、正しい発音なしでは絶対に鑑賞できない。だから、正しい発音を習得するということは、間接的な意味で、語学学習全体にうるおいをもたらすものであるのみならず、ことばのエスプリにふれるには、絶対に不可欠な条件である。」(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』p.237)
画面上部の英文構造図作成ツールと『図でわかる英文の構造』(初版)もヨロシク!