しかし、「自然な」英語とはいったい何なんだろうか? 立場を置き換えて、「自然な」日本語というものをイメージしてみるとよい。それは教科書に載っているような日本語ではなく、身近で使われている「実際の」日本語ということになるのだろう。今時の女子高生が使っている(中年のオジサンにはときとしてチンプンカンプンな)日本語も「自然な」ものと見なされるかもしれない。変幻自在で確かに「自然」ではあるが、少し扱いづらい感じもする。
さて、仮に自分たちが外国人に日本語を教えるとなったときに、はたしてそんな「自然な」日本語を教えたい(or 教えるべき)と思うだろうか。まあ、置かれた立場によって必要性も異なるであろうが、業務上のやりとりや各種文書の読解などを視野に入れるなら、あまり「自然な」日本語よりは、少し形式張ったタイプの日本語を選ぶのではないだろうか。特にフォーマルな場面での使用を考えた場合、その方がリスクが少ないからだ。例えば、カジュアルな場面でフォーマルな表現を使用しても笑い話ですむが、フォーマルな場面でカジュアルな表現を使用することははるかに深刻である。ときには人間関係を破壊する可能性すらある。
英語の場合も同様である。つまり、基礎段階で使用する学習素材に関しては、そこで使われている英語の「自然さ」について<あまり>神経質になりすぎないほうがよい。むしろ、ある程度までは自然さを犠牲にして、堅実なものを学んだほうがよい。そして基礎学習がだいたい完了した段階で、幅広い応用の一部として多種多様な実例に触れるようにするのである。その意味で、早い段階から会話を重視しすぎる方法には注意が必要である。
なお、学んでいる素材がどんなものかということと、それをどう学ぶかということとは、厳密に区別しなくてはならない。教科書に使われている英語も別にニセモノというわけではなく、英米人に充分通じるものである。しかし、それをどう学ぶかは別の問題で、現在の学校教育で行われているようなやり方では、なかなか使えるようにならないこともまた事実である。それは教科書の内容が偏っているせいではなく、あくまでも学び方の問題である。学び方が悪ければ、どんな「自然な」英語を素材にしても、やはり身に付かないのである。これら2つの問題を混同してはならない。逆に「自然さ」を追い求めすぎることが「自然さ」の習得を邪魔することもあって、それが本エントリの主題である。