上の意味での文法は、どんなに正確無比に理解・記憶していても、それだけではいわゆる宣言的知識の域を出ない。言語的な演算処理能力の一部になっていないからだ。この段階では実際の言語活動においてスムーズに活用することはできないから、この限りにおいては「文法は役立たない」と言えなくもない。
では、本当に文法は役立たないのか? もちろんそうではない。容易に想像できるように、文法と言語規範の間には「学習者が外から学ぶのは文法であるが、習得すべきものは言語規範であり、文法はそのための手段である」という関係がある。ただし、手段としての文法が必須と言えるかどうかは別の問題だ。
たとえば母語の場合、乳幼児の認識能力の関係で文法という手段はほとんど使えない。しかし、彼らは自身の認識能力の成長に合わせて徐々に言語を複雑化しつつ吸収することができるため、文法の助けを借りずにその言語をかなりの程度まで習得できる。もちろん、この場合でも周囲の人との交流は不可欠だ。
また、大人の場合でも、用意周到な方法をとることによって文法なしに学ばせることは可能であるし、既得語(たいていは母語)による文法的知識に振り回されずにすむ側面はメリットにもなりうる。ただし、母語の場合と同様、ある程度高度な段階に達したら、文法的知識の助けを借りることも必要になろう。
さて、仮に文法を手段として用いる場合、そこから先に進む方法、つまり「文法知識の言語規範化」はどのようにしてなされるか? それは具体的な言語使用を通した訓練をとおしてであると言えようが、この中には文法ドリルのようなものも含まれうるし、具体的場面を利用しての実戦的な練習も含まれうる。
そういった訓練においては、演算の正確さはもとより、ある程度のスムーズさも要求される。また、話す場合の音声(発音・アクセントなど)や書く場合の文字についても、その形式が奔放すぎないようにコントロールする必要がある。文字であれば書きながら考える時間も多少はあるが、話すときには難しい。
となると、いわゆる4技能のうち「話す」には特殊な難しさがあり、訓練の負担も大きくなろう。しかし、「話す」ことができるようになれば相応の音声言語表象(いわゆる内的言語)が扱えるようになるし、それは単に「話す」ときだけでなく、「書く」「読む」「聞く」ときにも活用されるべきものだろう。
つまり、「話す」には負担があるものの、あえて力を入れることによって他の3技能にも好影響が及ぶことが期待できる。ならば、訓練における「話す」は文法や語彙や音声なども含めた口頭英作文と捉えるべきだろう。たしかに雑な会話ばかりでは悪い癖が身に付きやすいから、口答英作文は有意義と言える。
もちろん、外国語学習が「話す」の訓練だけで足りるわけでなく、不足分は適宜補う必要がある。文字言語の場合なら、複雑な文構造や高度な語彙、それから(英語の場合は見過ごされがちだが)文字そのものについての補充が必要だ。内容理解の徹底や母語との相互移行の訓練には、和訳や英訳も活用したい。
以上、とりとめもなく書いてきたが、これが4技能化に対する私の現在の考え方だ。ただし、公教育(特に初等中等教育)での扱いには時間や指導者を含めた資源、そして他教科とのバランスという問題があるし、入試には受験機会の平等や採点の公平性などを考慮する必要があるから、そこは機会を改めたい。
最後に。「話す」の位置付けや小学校英語、外部試験利用などについては英語教育界にもさまざまな考え方があるが、残念ながら基本的な概念が陣営間で共有されていない場面が多々あり、それが無意味な摩擦の一因になっているとも感じている。この小文でその障害を少しでも軽減できれば、との思いもある。
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