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2017年10月16日

学びの対象と向き合うことの重要性

学校での勉強ではいろいろと面倒臭いものに出会う。英語の文法などはその最たるものだろう。英語で最初に出会うのは人称代名詞や be 動詞の使い方、それから三単現のsといったところか。学んでいる生徒が不満を持っても不思議はないし、それに対して指導者が阿る気持ちも理解はできる。しかし…。

受験生には英語の歴史の話、特に「昔は語尾変化とかが今よりずっと複雑だったんだぞ」という話をするとよいと思う。その際には巨大で複雑な変化表などを見せてあげれば効果抜群だろう。そして「だったら、三単現のsくらいでくじけてちゃダメですね」という前向きな反応をしてもらえればしめたものだ。

また、言葉というのは単にコミュニケーションの道具であるわけでなく、特に母語話者にとっては生まれてからの全認識と表裏一体だと言ってもよいくらいに重いものなのだから、その言語が持っているルールに不満を言うのは失礼なこととも考えられる。となれば、肯定的にとらえるための工夫は大切だろう。

さらに第二外国語などのことも考えておきたい。大学に入学した後に活用変化のある言語と無縁でいつづけることは難しいのだから、少しでも肯定的に見ておくのがよい。英語は活用変化についてはかなり単純化された言語ではあるが、そうであればこそ、三単現などは予行演習としても役立てることができる。

また、これは語学に限ったことではなく、漢字や公式・定理・法則の類、あるいは理科・社会に出てくる用語などについても似たことが言える。不合理な制度を変えるために努力するのはよいのだが、変えられない部分に不満を持ちすぎると学びの足枷にもなりうるのだから、現実と向き合った方が賢明だろう。

では、その次に来るのは何か? 英語を話す能力なら実際に話してみないと始まらないから、「間違ってもよいから英語を口にすべし」というのは正しい。しかし、いつまでも間違ったままでよいはずはない。数学ほど厳格ではなくてもだ。結局、弱点から目を背けずに攻略方法を授けることが次の仕事になる。

蛇足)英語は格変化のほとんどを失って単純化したわけだが、それはその格変化によって表現されていたものが見えにくくなったということでもある。格を示すために現在の英語が採用している方法は主に2つあり、それは文型(格関係のセットを示す)と前置詞だ。三単現のsはシーラカンスのようなものか。

結局のところ、正確な意思疎通のためには、それに見合ったルールが要求されるわけだ。これは身近な機械にも似ている。使い方を正確に知っていればこそそれを自由に使いこなせるからだ。そういえば、エンゲルスは「自由」に関するヘーゲルの考えを「自由とは必然性の洞察である」と要約してみせている。

(いずれも140字)

posted by 物好鬼 at 06:27| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

試験対策に限定されない学びを!

早朝からつらつらと考えたこと。
 
受験生が、目の前にある一番易しい試験(大学受験生ならセンター試験)を基準にして「この試験に出ないからやらない」と考えてしまうのは、「学び」の姿勢としては消極的すぎるのではないか。試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではないはずだからだ。

もちろん、別記したように、試験に出る部分を優先すること自体は間違ってはいないのだが、試験に出ないからやらないという発想には危険な面もある。試験に出ない項目の中にも重要な内容が含まれている可能性がそれなりにあるからだ。例えば、項目間のつながりを理解するのに役立つような内容だ。もちろん、「試験には出なくても実世界では必要」という項目もあるだろう。だから、試験のためにいわゆる「選択と集中」をするにしても、まずは学習対象を少し広めに見渡したうえで実行するべきだろうと思うのだ。
別記:「試験に出ることはしっかり勉強する」はいいが、「試験に出ないことは勉強しない」という考え方には注意が必要だ。項目間のつながりが見えにくくなる可能性があるからだ。宅浪中の私みたいに関係の薄い分野までやる必要はないが、視野を狭めすぎない心掛けは持ってほしい。あとは時間との兼ね合いだ。

それに、これもまた別記したことであるが、何事も少し余分と思えるくらいに学んでおいた方が、視野の広さという面においても、能力の深さという面においても、余裕を持つことが可能になるはずだ。これは人生において大きな武器になりうるものであり、その意味からも学びに対する積極的姿勢は若いときから育んでおきたい。
別記:5時起きに慣れた人には6時起きは簡単だし、数Vの勉強を頑張った人には数Uの大半は簡単だ。同様のことがいろんな分野で言える。もし「日常生活には四則演算で足りる」と考えて四則演算しか学ばなかったら、その人は自分の能力ギリギリで生活することになる。プラスアルファの学びは余裕の源なのだ。

もっとも、受験生本人が消極的態度をとってしまうことにはしかたない部分もある。特にそれが不得意科目である場合にはそうだろう(これは私自身も社会科で経験した)。しかし、人生と「学び」の先輩でもある指導者としては、それに安易に阿(おもね)るべきではないと私は考えている。となれば、指導者は受験生の消極性を打ち消すのに充分な程度の積極性を見せるべし、ということになる。

一方、学習者はさまざまであり、現時点での到達度や将来の目標などに配慮することも必要だ。その意味からは、重要度や難易度などに関する表示が教材の各項目に付されていれば便利なのは間違いない。実際にはそういう表示がない教材も少なくないが、そのような場合には指導者が補足すべきであるし、すればすむことではある。

結局のところ、「学び」に対する私の考えというのは、冒頭にも書いたように、「試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではない」ということに尽きるのだろうと思う。

 
※蛇足1(長め)
つい先日もとある大学受験生と長時間話す機会があったが、そのとき私が持ち出した話題は、数学基礎論(無限集合論の基礎、特に可付番集合の濃度、対角線論法、連続体仮説)や法解釈(刑法における「原因において自由な行為」の法理など)といったものだった。過去には科学論やビジネスなどさまざまな話をしているし、勉強法に関する話は毎度のことだ(受験生相手だから当然だが)。個別の問題を素材にして解き方や学び方について説明することもある(これは適宜やっている)。
もちろん受験生としてはこれからしばらくは試験対策にしっかり集中すべきであるし、私からは反復学習の際に注意すべきことについても忘れずに指摘しておいた。しかしその一方で、そういう時期であればこそ、当面の試験対策の向こう側に広がっている<知の世界>というものを少しでも知っておいてほしいとも私は思ったのだ。(宅浪時代の私などはそういうことに力を入れすぎたくらいだ。)
幸いその受験生は、私の話をそれなりに興味を持って聞いてくれていたようではあった。もちろん、長期的な効果についてはすぐにはわからないが、それが「知」や「学び」というものに対する私の姿勢なのだということは言えるだろう。今後も試験対策の邪魔にならない範囲で積極的に継続していきたいと考えている。

※蛇足2
とは言うものの、特定の試験で高得点を取ることを趣味にするのは個人の自由であることも指摘しておく必要があると思う。

posted by 物好鬼 at 07:05| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

積極的な学びの重要性

種田輝豊は『20ヵ国語ペラペラ』の中で次のように述べている。
「望まれる、片寄りのしない勉強方法−−これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。」(p.161)
「作文力を基盤にもたない解釈力は、あぶなっかしい解読力であり、読解力ではありえない」(p.166)

私もそのとおりだと思う。その意味で私は英語の(というより外国語の)4技能化には賛成だ。ただし、大規模な試験の場合には実施可能性如何という問題があるから、拙速を避けて充分な準備をすべきであるとも考えている。犠牲になるのはいつも当事者(特に受験生)だからだ。
(ただし公教育の一部であるからには、実技面にばかり注目するのではなく、文法や語源や発音などについての知的関心という側面も含めて指導されるべきだろうとも思う。また、実技面に関しても文法的な理解がどこまで正確であるかといったことは4技能試験だけでは確認しづらいだろうから、そのような部分については記述式の導入が検討されてもよいはずだ。)
 
ところで、学習と試験の双方において、同様のことが他の科目についても言える。例えば数学で考えてみよう。
数学の試験にもマークシート方式と記述式の双方があるが、記述式の短所は英語のスピーキング・ライティングの場合と同様、採点基準と手間だろう。それゆえに、センター試験がマークシート方式であることは現状では肯定されるべきだと考える。
その一方で、長所についても類似性がある。数学の記述式問題に的確に解答するには正確な知識と理解(そしてある種の熟練)が要求されるからだ。その意味からは、数学が苦手な人ほど記述式対策が有用だとすら言える。もちろん基礎的な部分を中心に、正確な説明ができるように学ぶわけだ。
しかるに現実はというと、数学を苦手としている人ほど記述式よりマークシート方式の試験を望むだろうし、できれば数学が必須でない大学を受けたいと考えるだろう。このようにして数学への丁寧な取り組みから逃げてしまうと、ずっと苦手なままになってしまう可能性が高い。
 
もちろんこれは理科でも社会でも同様だ。音楽や体育や家庭科などが入試にあれば、実技試験について同様のことが言えるだろう。
 
それゆえ、学びに消極的になりすぎないように警戒すべきなのだが、その一方で、中高生に与えられた時間に限りがあることも事実だ。特に授業時間はそうだろう。勉強以外にもやるべきことはたくさんある。だから各人が科目間のバランスを考えて目標を設定する必要があると言える。基礎的な部分は皆が共有すべきだとしても、「全員が高度な英語力を」でもなければ「全員が高度な数学力を」でもない。そこから先は各人の自己責任ということになろう。
 
しかし、このあたりのバランス感覚はなかなか難しいのではないか。能力や熱意や置かれた環境に個人差があるということもあるが、指導者の多くは入試を通り抜けてから長期間を経ている関係で「入試のために多数の科目を学習する」ということの大変さがピンとこないということもある。その意味からは、大人たちもときには模試や入試に参加してみるのがよいのではないかと私は考えている。
(ここで「先ずは隗より始めよ」と入力しようとしたところ、「まず破壊より始めよ」と変換された。たしかに似たようなものかもしれないが、このあたりで終わりにしたい。)

posted by 物好鬼 at 06:46| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする