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2017年06月07日

医学生が弁護士を目指してはいかんのか?

今日は「医学部在学中に司法試験合格の東大生 資格取得への発言に番組でブーイング」という記事を読んで思ったことをツラツラと。

この種の尖った学生は批判されがちだが、批判する側は「自分は僻んでいるだけではないか」と自問することも必要だろう。批判するなら根拠を示すことが大事だ。

まず「いまいち将来像が明確になっていない」だが、これは何ら珍しいことではなく、一概に責められるべきことでもないと思う。私なんか今でも不明確なままだが、そこにはメリットもデメリットもあるというのが実際のところだ。まして若い学生となればなおさらだろう。

次に、この学生さんの「資格を持っておくと、発言に力があるじゃないですか」という発言。妙に反感を持たれてしまったようだが、それ自体としては間違ってはいない。そもそも発言に力を与えることができないのだとしたら何のための資格なのか?という話だ。もちろんここの「資格」というのは、専門性の高いものを想定している。その資格を保有している者の人格というのは(きわめて大事ではあるものの)また別の話だ。

以上の2点からだけでも、感情的な反発が強すぎることが見て取れる。

では、私はこの学生さんの主張に全面的に賛成なのかというと、必ずしもそうではない。こちらも2点指摘しておきたい。

まず、医学部というのはコストがかかるところなのに、国立だと他学部と同様の学費ですむ。そこにはつまり「他人のお金で勉強している」という側面があるわけだ。この点は、この学生さんのやり方に対する批判につながりうる。

また、特に東大理Vは90人という小さな枠だから、「彼のような人物が受かることによって、本来受かるべきだった人材が一人落とされた」ということもクローズアップされやすいだろう。

とは言え、いずれも禁止されていることではないから、「望ましくない」以上のことは言えないだろう。(私立大学の大きめの医学部だったらこのような問題自体がない、とは言えそうだが。)

結論は特にないのだが、この学生さんには「医療問題に強い法曹を目指します」くらいのことは言えるようになってほしいと思う。実際、医師で弁護士という人はこれまでにも存在しているのだ。将来についての見方はいろいろあるのだから、彼の今後に期待したい。

posted by 物好鬼 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月03日

スポーツが好きか嫌いかと言われても…

今日は「スポーツ嫌いダメ?国の目標波紋 『体育の恨み』影響も」という記事。

何事もそうだが、好きである方が取り組む際のストレスは少なくてすむし、上達にも有利だろう。そう考えると、スポーツ嫌いの比率を減らすのは望ましいことと言える。もちろん、すでにスポーツ嫌いになってしまっている子供たちの嗜好を変えるのはなかなか難しいだろうから、子供たちへの教育の仕方を工夫することで今後(←ここ重要)スポーツ嫌いに陥ってしまう子供を減らすという手段をとることによって全体的に(←ここも重要)スポーツ嫌いの比率を下げていく、というのが現実的だろう。

スポーツ庁の「第2期スポーツ基本計画」に関するページをざっと見たところでは、そのための具体的な方法は読み取れなかった。しかし同庁とて、まさか個々の中学生の嗜好を無理矢理変えようとしているわけではあるまい。それが困難であることは、「スポーツ」を「数学」などに置き換えてみれば、いわゆる「脳筋」な人たちにだってわかるはずだからだ。(買いかぶりすぎか?)

もっとも、「スポーツ嫌い」という括り方では議論が大雑把すぎるという点は指摘しておきたい。

私自身はというと、体育のうち器械体操(特にマット運動と跳び箱)と格技(相撲・柔道)は得意かつ「好き」だった(組み体操も得意だったが常に支える側だった)のに対し、水泳・陸上(特に長距離走)・球技(バレーのサーブ以外?)は平均以下だった。そして一番苦手だったのが踏み台昇降(笑)。苦手なもののすべてが明確に「嫌い」だったわけではないが、さりとて「好き」だったとも思えない。

しかし、あえてこのように分野別に見てみると、好き嫌いにもかなりの幅があるとわかるし、得手不得手の原因の大半が(授業外も含めた)積み重ねの多寡によるものだということも実感できる。例えば私が水泳や球技などを苦手としているのは、単に投下労働量が少なすぎたからでしかない(と自らを慰めることができる)わけだ。

こういう認識を持っていれば、新しい分野にチャレンジするときにも、あるいは苦手だった分野に再チャレンジするときにも、背中を押してくれる効果が多少はあるだろう。取り組んでいれば、もともとハッキリと「嫌い」だったものでも(「好き」まで行くのは難しいとしても)「取り組みの邪魔になるほど嫌いではない」という程度には好転する可能性はかなりあるはずだ。ときには「大好き」に豹変する可能性すらなくはない。

ついでだが、記事中にある「体を動かすこと自体が嫌いなわけじゃない。うまい人とやるから嫌いになる。レベル別に完全に分けてくれればいいのに」という意見には一理あると思う一方、一面的なものだとも思う。

というのは、自分よりもうまい人を身近な目標とすることは有益でありうる(私も何度か経験した)し、生徒をレベル別に分けたところで「○年生にもなってあのレベルにいるなんて」と言われたのでは状況はよくならない(ひょっとすると現状より悪くなる)からだ。

となると(少し話が飛んでいるかもしれないが)、
・個人差に対する寛容さ
・上達の可能性についての理解
といったことを文化の一部として根付かせることもまた大事なのではないか、と思われてくる。特に後者に関しては、学習者に「これならちょっと頑張ればうまくなれそうだぞ」と思ってもらえるような指導方法を工夫する必要があるし、それには競技性を強調しすぎないことも要求されるだろう。

※なお、以上のすべては勉強を含めた他の分野についても言えることだ。英語も数学も国語も…もちろん音楽や家庭科も、地図を読むことも人の話を聞くことも、だ。現時点で個別科目の指導をしている人は、苦手科目に再チャレンジすることでも新たな気付きが得られると思う。

(ところで、記事冒頭に "運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%" と書かれているが、他の科目はどうなんだろうか? 政策を打ち出す際に科目間のバランスを考慮することは極めて大切だと思うのだが。)

posted by 物好鬼 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする