この「再分析」というのは、語形や語順といった形式面はそのままに、そのつながり方(構造)についての認識を変更するもの、とここでは定義しておく。具体例を3つほど挙げてみる。
まず、a cup of tea 型の2つの解釈方法(@cup を後置修飾、Atea を前置修飾)。
次に、@「自動詞(+前置詞+目的語)」がA「他動詞+目的語」として把握し直されて受動態の生成を許すこと。
また、be動詞が持つ3つの用法(@存在を表す本動詞、Aコプラ、B助動詞)。
これらはいずれも@を基礎として順に派生したものだから、各構造把握の間には「互いに無関係ではないと同時に同一のままでもない」という特殊な関係が存在している。となれば、英文法の体系的把握を試みるにあたっては、このような<曖昧さ>があるということを前提として考えていく必要があるはずだ。
しかるに世に出ているさまざまな主張を見てみると、@ABといったものを「全部同じ」あるいは「全部別々」のように「形而上学的に」(エンゲルス)考えているものもある。しかし、私の経験からは、曖昧さを素直に認めてしまった方が、文法の体系的理解がスムーズに進む。これは一種の科学論的反省だ。
ついでにもう少し。
言語学者の中には「言語が持つさまざまな構造の間には(形式論理的に)整合的な関係が存在している(まだ見つかっていないだけ)」ということを暗黙の前提にしている人が少なくないように私には思える。しかしながら私は、実際にはたくさんの例外があるのではないかと考えている。
私がそう考えるようになったのは、法律学を少し学んだことがあるからだ。刑法にしろ民法にしろ、条文解釈において学説が割れているテーマ(「論点」と呼ばれる)の中には整合的な解釈が存在しえないような場合が少なくない。そのような場合は結局、立法的解決(法改正など)に頼るしかないことになる。
これと同様のことが自然言語についても言えると思うのだ。法典のように専門家が意図的に作成したものですら不合理な条項を含んでしまうのだから、日常生活の積み重ねの中で形成されてきた自然言語にさまざまな不合理が含まれていても何の不思議もない。青い鳥を探するのはほどほどに、と言えると思う。
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