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2016年07月21日

学校の勉強は仕事に役立ってないらしい

今回は「あの努力はいったい……男性が思う『仕事役立たない教科』ランキング」という記事。(タイトルにタイポがある気がするが…。)

記事によると、「学生時代(小中高大)に習った教科で今の仕事にまったく役に立っていないと思うものは?」という質問に対する回答が

 第1位   数学……9.9%
 同率第1位 英語……9.9%
 第3位   理科……9.4%
 第4位   歴史……7.9%
 第5位   家庭科…6.9%

なのだという。(アンケート対象は男だけ。)

私に言わせると、「意外に少ないなあ」といったところ。

これは逆に考えてみればわかりやすい。そもそも、数学も英語も理科も(以下略)ぜーんぶ必要とされるような職場なんて、滅多にないはずだ。
(ちなみに私の職場では、ごくまれに英文メールを書かされるくらい。あとは四則演算。理科の知識は機会があれば使うが、使えなくても仕事自体はできる。)

だから、どの科目についても「そんなの使わないよ」という人はもっと多くいても不思議はない。なのに数学や英語でさえ「まったく役に立っていない」が1割を切っているのなら、何の問題もないのではないか?
(ところでこのアンケート、複数回答は可能だったのかしらん?)

さて、数学的な領域について言うと、私の職場で必要とされるのは四則演算程度だが、だからと言ってそれ以上の勉強が無意味だったとは私は思っていない。

もし「実社会では四則演算以外はほとんど必要ないから」という理由で四則演算しか学ばないとしたら、その人にとってはその「四則演算」が数学的能力の上限ということになってしまう。しかし、「微分積分も行列もできるくらいにやっていればこそ、四則演算は苦にならなくなる」という面があることは否定できないのではないか。問題解決に必要なものは単純な知識だけではないから、本人も気付いてない部分が役に立っていることは大いにありうる。それに、私の周囲を見る限り、数学が苦手な人は四則演算の活用すらあまり上手ではないという印象がある。

これを少し皮肉っぽく言い直すなら、直接的には不要と思われるレベルのことを学んでおくことが実は必要(少なくとも有用)なのだということだ。(これは語学の場合で言うと、話す能力と読む能力との関係に似ている。)

なお、記事の末尾にある

「学生時代に何日も徹夜して覚えたことが、社会で全く意味をなさない……なんて、あの当時は思いもよらなかったですよね。ただ覚えたことはどこかで自分の役に立ち、自分の基礎を作ってくれているはず。そう信じておくしかない!?」

という「まとめ」はあまりにシンプルすぎると思う。学生時代にある程度以上まじめに勉強した人なら、後半の「どこかで自分の役に立ち云々」に関しても具体的なことがいろいろ書けるのではないだろうか。ということは…(笑)。

蛇足)20年近く前のことだが、理工系の大学教授が書いた文章を仕事で扱ったときには、内容の正確さをチェックするために化学命名法や SI 単位系について勉強したことがあった。誰かに頼まれたわけではなく自発的にやったのだが、こういうことがスムーズにできたのは、高校・浪人時代に物理と化学を勉強していたおかげ。

なお、関連記事として、「学校の勉強は役に立たない?」がある。



posted by 物好鬼 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

戯れ言 〜LR対策はスイーツに似て〜

ある団体が町中で健康そうな人ばかり1000人にアンケートをとった。「健康そうな」だから、このブログの主みたいなタイプはほとんどが無視された。

アンケートの内容というのは、その人たちの身長と体重。その団体の担当者は、集めた数値全部を1枚のグラフ用紙にプロットした。すると、身長と体重の間にそれなりの相関関係があることが見えてきた。

そこでこの団体は、「身長がわかればおよその体重がわかりますし、体重がわかればおよその身長がわかります」という能書きとともに、このグラフを公表した。

さて、ここに小柄な男がいる。仮にA君と呼ぶことにする。かねてから背が高くなりたいと思っていたA君は、このグラフを見ながら考えた。

「今のオレは160cmで55kg。だいたい線上に乗っているな。で、このグラフによると、180cmの人は75kgくらいなのか。っつーことは、20kg増やせばいいんだな!」

それからのA君は連日連夜大量のスイーツを食べた。体重は3日に1kgのペースで増えていった。あまりに順調すぎて、体重計に乗るのがこの上なく楽しかった。

そして2ヵ月が経過。体重は20kg増えた。A君は自身に向かって力強く語りかけた。

「よ〜し、よくやったぞ! これで目標の体重だ。じゃあ、身長を測ってみようか」

(測る)

「あれれ、変わってないゾー! あのグラフは嘘なのか? 許せん!」



閑話休題。

TOEIC 公式サイトの「よくある質問 TOEICテストについて」というページには
…TOEICテストの開発にあたったETSでは、TOEICテスト実施にあたって予めListeningとSpeaking、ReadingとWritingとの相関関係について検証し、それぞれが非常に高い相関関係を示すことから、ListeningとReadingのみの試験からSpeakingとWriting能力を含めた英語能力が測定できることを統計的に証明しています。そのため、TOEICテストはListeningとReadingのみで構成されています。
と(今でも)書かれているのだが、そのすぐ後には
しかしながら、英語の利用が職場や日常生活の場でますます拡大していること、それに伴いSpeakingとWritingという能力を直接的に測定したいという要望に応じて、TOEIC(R)スピーキングテスト/ライティングテストがスタートしました。
と書き加えられている。

先のたとえ話から考えると、LRプロパーな対策をする受験生が増えたことが原因でSWとの間の相関が弱くなってしまったのだろうと想像できる。(あくまでも想像だが…。)

さて、ここで種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』(初版1969、改訂版1973)を開いてみる。改訂版のp.161には次のような金言が書かれている。
 望まれる、片寄りのしない勉強方法──これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。
 ヒヤリングには、世間でさわがれているほど力を入れる必要はない。
現在は当時よりも音声機器が発達している関係で「聴解力」が「読解力」に準ずる地位に来ているものの、基本的な考え方はまったく変わらないと言える。何という先見の明だろうか! 以上を端的にまとめるならば(最終的には各人の目標次第だが)、

  スイーツの食べすぎには要注意!

ということになる(違)。

posted by 物好鬼 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

大学で勉強する ≠ 大学時代に勉強する

今回読んだのは「かつて『レジャーランド』と呼ばれた『大学』でうごめいていた『あまりにダークな共犯関係』」という記事。書かれていることにとりたてて反対というわけではないのだが、思いついたことをツラツラ書いてみる。

まず、大学の授業と言ってもピンキリだ。特に人文社会系は学者の数だけ学派(つまり内容面の違い)があると言ってもいいくらいだし、授業の能力にも個人差が大きい(これは自然系もそうだろう)。少なくとも私の在学中はそうだったし、その点は今でも大差あるまい。

それに、授業が仮に「ピン」ばかりだとしても(仮定法過去)、個々の学生が持つ興味関心や必要性といったものにはかなりの幅があるはずだ。これはたとえ同じ学部・学科に所属して同じ分野を専攻していても、だ。

つまり、大学(もちろん東大も含めて)で教えていることの全てが自分にとって同じように大事であるとは言えないわけだ。と同時に、大学で教えていないことの中にも価値あるものがありうる、という点にも注意が必要だろう。

もちろん、大学で教えられている内容が自分自身の興味関心や必要性にピッタリ合っているということもありえなくはないが、まずは疑ってかかった方が健全だと思う。判断するにあたっては、学生が自身の主観に頼りすぎることは危険だろうから周囲の意見も参考にすべきだが、大学生ともなれば最終的な判断は自己責任でなすべきだろう。

実際、私などは、教官たち(概して仲はよかった)が教えていることを横目で見ながら学外者の学説を学ん(で教官たちに論戦を挑ん)だり、授業と無関係なところで司法試験対策をしたり(あるいはパソコンでプログラミングに沈潜したり…)していたから、当然のごとく(?)大学の成績はよくなかった(結果として予定どおり単位数ピッタリで卒業した)。そのため私はやや自虐的に「オレは大学ではあまり勉強しなかった」と言ったりもするのだが、それは「大学時代にあまり勉強しなかった」というのとは明確に異なる。

結局のところ、大学というのは「学びの場(の一つ)」であり「学びのキッカケとなる場(の一つ)」なのであって、他の「場」とのバランスの取り方は個人によって違って当然のものなのだ。ゆえに、その選択によって「その人にとっての大学の意義」も違ってくる。そして、社会的存在としての大学は、そういう状況に応じていくことを求められる。

だから、著者の言う「大学教育を創造するポジティブな共創関係」としては、「学生と学問の双方に存在している多様性というものに、学生自身はもちろん、大学という組織が今後どう対応していくのか」といったことが大きなテーマとして存在しているのだと思う。

posted by 物好鬼 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする