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2016年06月07日

英語の必要性は人それぞれ

今日は「日本人の「英語コンプレックス」、英語は本当に必要なのか―中国メディア」という記事。

記事の終わりにピーターセン氏の発言として
日本人みんなが英語を学ぶ必要はない。日本では国際化、グローバル化という言葉がとても流行している。しかし、英語に精通しているグローバル人材になる必要のある日本人は全人口の1割もいないのではないかと、私は思う。
と書かれている。私は後半部分には賛成だが、前半部分には賛成しがたいというか、大雑把すぎると感じる。というのは、英語は(他の科目もそうだが)「学ぶか学ばないか」という二者択一ではなく、「どういう立場ならどこからどこまで学ぶべきか」と考える必要があると思うからだ。

私としては、英検3級がとれる程度の学習は中学生全員に課したいが、そこから先は個人の進路によって違ってきて当然のものと考える。つまり、高校以降での英語は一部を選択制にするということになる。これは数学などの現状に近いものだ。

ただし、次の3点に注意を促したい。

第1に、高いレベルを求める人に対して相応の指導ができる体制が確立される必要があること。これ(と言ってもあまり高くないレベルを含む)が不足している学校が多いことが、現時点における最大の問題のように思われる。
(とは言うものの、他の科目とのバランスを考えると、高校の授業で対応できるレベルは、卒業までに英検準1級をとらせるくらいが上限だろうとも思う。それ以上は個人の趣味や部活としてやるべきところだ。)

第2に、中等教育では選択の主体が未成年であるから、「やりたくないから」「好きじゃないから」といった安直な理由で履修を避けるといったことのないように指導する必要があること。
(履修すべきかどうかの判断は簡単ではないが、大学に行こうとするなら英検2級程度の実力がボトムラインで、それ以上は専攻しようとする分野や卒業後の目標などによって違ってこよう。もちろんこれは英語に限ったことではない。)

第3に、選択部分を履修しない場合であっても、履修する部分については知識の正確さを軽視しないこと。これは後々の心変わりに備えるため。
(最初は「海外旅行したときに買い物ができればよい」くらいに考えていても、途中で考えが変わることがありうる。これは語学に限らないが、不正確に覚えた内容というのは基礎的な部分であればあるほど修正しづらいもの。そういった事態を避けるには、最初は知識の量よりも正確さに重点を置いて学ぶことが大事だ。)

なお、ここまでに私が書いたのは主に学校教育という場を想定したものだ(※)。そこでは全体としての授業時間に制限があるだけでなく、他教科とのバランスも考えなくてはならない。しかしその一方で、限られた授業時間を利用して生徒たちを熱心な自習へと駆り立てること自体は否定されないし、英語などの語学に関連するクラブ活動をもっと奨励することも考えられる。
※私は現在の学校現場を知らないので、的外れなことを言っていたらゴメンナサイ(汗)。



posted by 物好鬼 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月01日

教科書における「真実」の扱い方

今回は「教科書の右か左か議論は不毛」という記事を読んで思ったこと。

記事に曰く
検定教科書なんてそもそもいらない。教科書に書いてあることを「真実」として覚えるのが目的ではなく、教科書に書いてあることをもとにして「真実」に近づく方法を学ぶのが教育なのだから。
という。"「真実」に近づく方法を学ぶ" のはよいと思う。というより、必須だろう。しかし、その「方法」が正しく活用できているのかどうかを判定するには、しかるべき目的地(判定基準)としての「真実」が必要なはずだ。

もちろん、教科書で扱うべき事実や法則にはさまざまなものがある。専門家の間で確定的な共通認識となっているようなものであればそれを「正しいこと」として掲載し、そうでない場合にはその旨記載しておくべきだろう。

ところで、歴史などの科目には膨大な事実(科目によっては法則も)が含まれているが、それらの一部にはそれらに対する「評価」というものが付きまとっている。これは社会的なテーマが持つ特殊性であり、すべての科目に共通しているわけではない。なのにリンク先の記事では「真実」の中に「しかるべき評価」のようなものまでが含まれてしまっているように見える。

そもそもの問題は、記事の冒頭に「歴史教科書の採択を巡る報道について」と書かれているのに、そこから先の展開が教科・科目によらない普遍的なことであるかのような書き方になっていることだろう。科目間にはさまざまな共通性・相違性があってそれらがそれなりの体系を織りなしているものだが、そういった点が考慮されていない。

そのせいか、著者が冒頭から使用している「真実」という語の意味も不明なままだ。私は途中から「真実」の代わりに(もう少しわかりやすいと思われる)「事実」と「法則」という語を使ってみたのだが、記事を書くなら「真実」のような多義的な語については自分なりの概念規定を示すことが必要だと思う。(もしかするとたかがブログ記事に期待しすぎなのかもしれないが。)

ならばお前の概念規定は?と問われそうなので少し書いてみる。

まず、私が使った「事実」と「法則」だが、ここでは仮に、「事実」とは個別的な事象であり、「法則」とは一定領域内の任意の事実間に共通する性質(法則性)をとらえた認識のこと、と規定しておく。不充分なのは承知しているが、ここでの議論には足りるのではないか。

肝心の「真実」はというと、ネットで検索してみたところでは「人間の主観に基づき導いた結論だから人によって異なる」という考え方もあるらしく、私が予想していたよりも意味の範囲が広いもののようだ。法律学では「事実」の中に「真実」と「虚偽の事実」を含めるのが普通だが、問題の記事では「しかるべき評価」のようなものまでが「真実」に含まれているように思われることは既述のとおり。私としては、少なくともこの種の記事で使用する概念としては、「真実」に評価的側面は含めないで「事実」の一種として理解する(つまり法律学と同じ)のがよいと考える。

posted by 物好鬼 at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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