記事中に
"入試までは「正解がある学び」で、大学からは「正解がない学び」になる"
とある。この考え方自体は間違っていないと思うが、さりとて充分でもないだろうと私は考える。というのは、一口に「正解がある学び」と言っても、解法を人から教えてもらう場合もあれば、解法を自分で見つけるべく努力する場合もあるからだ。
つまり、全体としては
1.正解がある学び
(a) 解法を人から教えてもらう場合
(b) 解法を自分で見つけるべく努力する場合
2.正解がない学び
(c) 解法を自分で見つけるべく努力する場合
と分類することができるわけだ。そして、(c) の基礎になるのは (a) ではなく (b) だということに注意が必要だ。
さて、受験を目的とする場合、解法は人から教えてもらった方が効率がよい。そのため、いわゆる受験秀才の中には「解法を人から教えてもらう」ことを当然のこととして実行してきた人が多いはずだ。
しかしそれは、「解法を自分で見つけるべく努力する」機会をあまり持たないまま大学に進学するということでもある。大学合格まではそれでもよい(むしろ有利ですらあろう)としても、進学後に「正解がない学び」(そこには既成の解法もないのが普通と考えられる)に取り組もうとする際には、そのことが大きな足枷となる可能性が高い。
となると、大学進学以降にどのような学びをするつもりなのかによって、受験勉強の方法も違ってきて当然だ。私は (b) を重視した学びを「骨太な学習」などと呼んでいるのだが、入試対策という当面の目標にウェイトを置けば置くほど「骨太の学習」は難しくなる。
もっとも、何でもかんでも自分で考え出そうとしていたら、おそらくは二次方程式の解の公式すら見つけられないまま死んでしまうだろうとも考えられる。だから (a) (b) 間のバランスあるいは兼ね合いが問題になるわけだ。このことは極めて重要な論点であるはずなのだが、話題になっているのを見ることがあまりないと思う。
元記事との関連で言うと、大学合格までに (a) (b) のどちらをどのくらいやってきたかには大きな個人差があるはずであり、それは「トップ校」合格者にも「MARCH」合格者にも言えることだろう(ただし、分布はかなり違う可能性もある)。となると、「努力」という量的側面をグラフの縦軸にするだけでは不充分で、「何をどのように」といった質的な側面(方向性)も加味したグラフにしなくてはならないはずだ。
なお、生まれつきの違いや偶然など、本人の意志でコントロールできない部分は誰にでもあるのだが、それを言っても仕方がないのも事実だろう。結局のところ、人間は工夫と努力を積み重ねた部分が強くなるものなのだ。だからまずは自分が進みたい方向を見極めて、それに見合った目標をクリアしていくしかないということになると思う。ただし、現状を正しく認識することも忘れてはならない。
(自戒を込めて…。)