(1) 新刊 『英文構造図』(第3版) 大好評発売中!
  10265528_10152449507841816_3640753823111937564_o.jpg
(2) 英文構造図の詳細は 公式サイト をご覧ください。
(3) ブログ記事の体系的閲覧には 目次一覧 をご利用ください。

2016年02月28日

内言と速読について少々

「本を読むときに頭の中で『声』が聞こえる人と聞こえない人がいることが判明」という記事。しかし、四半世紀前の卒論執筆時に「こんなことは当然だ」と思っていた人間としては、このタイトルには強い「今更」感がある。最近の学説は知らないけれど。 http://gigazine.net/news/20160225-read-voice-in-head/
(140字)
https://twitter.com/George_Ohashi/status/703027084759666689
 
以下、付けたり。

記事中にある「読書中の内なる声」というのは言語学的には「内的言語」とか「内言」などと呼ばれていて、その正体は音声言語の表象的認識だと私は考える(このあたりは三浦つとむ『認識と言語の理論 第一部』による部分が大きい)。

声を出さない読書の際にこの「内なる声」が聞こえるかどうかには個人差があり、「内なる声」に頼らないと読めない場合は読速度に低い限界が生じてしまうのに対し、「内なる声」に頼らずに(視覚的な文字表象から直接意味を認識して)読める場合はその限界を破ることができる。この経験的事実は、速読の世界では昔からよく知られていた。

そんなこともあって(だと思うが)、そのころから「二重経路モデル」などと呼ばれる学説がいくつか発表されているし、同じようなことを私も卒論(90年に執筆)の中で当然のこととして述べている。
参考記事

記事タイトルに今更感があるのはそういう理由なのだが、その一方で、声色に関する部分は興味深いと思う。

蛇足だが、私が卒論を書いていたころに有名だった「ジョイント速読法」では、「内なる声」に頼る読み方のことを「黙読」、頼らない読み方のことを「視読」とそれぞれ呼んでいた。便利な呼び分け方だったので、私も卒論の中で使用した。

posted by 物好鬼 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

正確に覚えつつ、変化も試みよう

今回読んだのは「Japanese Twitter User Finally Finds Use For “Most Useless English Sentence”」という記事。半分ネタなのは承知しつつ…。

教科書で学んだのが This is a pen. という文だったとして、その文をそのままの形で使うことはもちろんかまわない。それは「学んだ文を使う」の典型例と言える。リンク先の例がそうだ。

しかし、「学んだ文を使う」とはそれだけなのか? たとえば、先の文をもとに

 ・平叙文を疑問文にする
 ・a pen を a dog に置き換える
 ・修飾語として really を付ける

という変化を施して

 Is this really a dog?
(It looks like a mop!)

という発言をすることも「学んだ文を使う」ことなのではないか。
(これがどんな状況なのか想像できない人は「コモンドール」でググるべし。)
 
ここまでは前振り。

しばらく前に Facebook 上の某グループで一人の高校生から「1冊のテキストを100回近く音読しているのに、初めての素材ではリスニングがうまくいかない」という相談があった。そして

私「音読素材の文構造や語句などはしっかり理解しているか?」
彼「かなり意識していて自信がある」
私「リスニング素材のスクリプトはスラスラ読んで理解できるか?」
彼「音読だと理解度は半分以下」

というやりとりになった。そんな相談者に対して私は次のような提案をした。
 
まだ詳細がわからないので明確なことは言えないのですが、文の構造を自力で変化させる訓練はしてますか? あまりしてないのであれば、試してみてください。

たとえば教材の中に

Can the rumor be true?

という文(今し方、手元の文法書で見つけました)が出てきたとして、それを

The rumor is true.
Is the rumor true?
The rumor isn't true.
Isn't the rumor true?

The rumor was true.
Was the rumor true?
The rumor wasn't true.
Wasn't the rumor true?

The rumor can be true.
Can the rumor be true?
The rumor can't be true.
Can't the rumor be true?

I think the rumor can be true.
Do you think the rumor can be true?
I don't think the rumor can be true.
Don't you think the rumor can be true?

のように変化させてみます。最初は紙の上でやってかまいませんが、慣れてきたら何も見ずにやるようにします。

こういう変化についての訓練(必ずしも上記のようなドリルである必要はありませんが)を日頃からやっておかないと、反復した素材と違うかたちのものにイキナリ出会ったときにはスムーズに対応するのは難しいだろうと思います。
 
私が提案したのは「転換」と呼ばれるドリルだが、語句の「置換」についても同様のことが言える。また、音読中心に学んでいる場合、音声面の正確さに問題がある可能性もありうる。

さて、私が上で「変化についての訓練」と呼んだものを学習の中に取り入れておけば、少量の素材を最大限に活かすことにもつながるだろう。しかし、学んだことをそのままの形で反復するばかりでは、大量の素材を完全に覚えてもそれほど役立てられない可能性が高い。それは見えない壁として学習者や指導者の前に立ちはだかる。
 
「学んだことを使えるようになるには」は古くて新しい問題で、武道においては「形(かた)は実戦に役立つか」といったかたちで現在も問われ続けている。数学や物理でも、あるいはおそらく(私はよく知らないが)芸術的な分野にも同様の問題はあるだろう。もっとも、英語などの場合は、文法の助けが得られるという長所があるのは紛れもない事実だ。

なお、英語や武道を自分のペースで使ってみる機会に恵まれている人の場合、その自発的な試行錯誤の積み重ねが変化の能力を育ててくれるから、上のような問題は比較的起こりにくいだろう。それだけに、そういうかたちで上達した人がそうでない人を指導する際には注意が必要だとも言える。

今回のタイトルは「正確に覚えつつ、変化も試みよう」としてみた。@正確に覚えることとA変化の能力を付けることのうちどちらがヨリ大切かというと、それは各人の学習の目的によって違ってくる。ただ、Aを急ぎすぎると往々にして@を犠牲にしてしまうということは否定できないから、@の進捗を自らの必要性との関係で評価しながらAを徐々に進めていく、という方法がよいだろう。

posted by 物好鬼 at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

英語教育は必要性とバランスを考えて

今回は「英語は幼いうちに打て? 進む早期化、アジア追う」という記事。

その記事に曰く、ある小学校では

「2年生の生活科の授業をのぞくと、記者には聞き取れないほど流ちょうな英語で児童と教師がやりとりを繰り広げていた」

のだそうだ。一見すばらしいことのように聞こえるが、言葉というものは流暢さとともに正確さや適切さといったものもあわせて評価される必要があるはずだ。

なのに「記者には聞き取れないほど」という部分から考えるに、この記者さんにはそれらについて自立的な評価ができるだけの能力があるのか不安になってしまう。もちろん謙遜しているという可能性もなくはないのだが、いずれにしても正確さや適切さなどの側面に触れていない点で記述が不充分と言えよう。
 
また、

「国語(日本語)以外の大半の授業を英語で受ける」

とも書かれている。しかし、通常の日本人は「国語」だけでなく他教科も含めたあらゆる時間における日本語使用を通じて日本語力を伸ばしていくものだろう(それでも足りない場合が多々あるのだが)。

となれば、記事の中ではそういう機会が減ってしまうことによるデメリットにも触れる必要があるはずなのだが、残念ながら一面的な観察になってしまっている。

言うまでもないことだが、そもそも授業というのは「わかってなんぼ」のものだろう。もちろんこういう授業を受ける子どもがいてもいいのだが、世の中には日本語での授業ですら付いていけない子どもがたくさんいることを考えると、かなり相手を選ぶ方法だと言えるのではないか。


英語による授業以外のところでも、そもそも英語をどこまで学ぶべきかは各人の必要性と他教科(あるいは勉強以外の分野も含めて)とのバランスによって判断されるべき問題だと思う。すべての人に高度な英語力を求めるのは、すべての人に高度な数学力を求めるのと同様に無理があろう。となると、自身が将来的に必要としそうなものにウェイトを置いてやるのが現実的だということになる。

最近はオリンピックが近いこともあってか英語教育狂想曲といった感を呈しているが、私に言わせれば「国語や数学や理科も忘れるなよ」なのだ(本当は社会も音楽も体育も同様なのだが、私は苦手だったから偉そうなことは言えない)。率直に言って、英語をやるために他の教科・分野を犠牲にした人は、他の教科・分野をやるために英語を犠牲にしている人のことを笑えないはずだ。それはその人の生き方なのであり、英語をどこまで学ぶかについても、最終的には各人が自己責任で判断するしかないということになる。

もちろん英語は(他の教科・分野と同様に)できた方がよいし、それも高い能力があればそれだけ大きなメリットが得られるとは私も思う。だから、国民全体の英語力を引き上げようという考え自体を否定するつもりはさらさらない。ただ、公教育、特に中等レベルのそれに関しては、他の教科・分野をあまり犠牲にしないで進めるのでないかぎり、私としては批判的にならざるをえない。

なお、英語と言えば最近は「4技能の使用」という意味での実用性ばかりが強調される傾向がある。それは従来の英語教育が期待されたほどの「実用性」に繋がっていないという事実への反省という面もある。しかし、それでもそういう意味での実用性とは異なる理由(たとえば理論的関心であれ単なる好みに由来する興味であれ)で英語や他の外国語を学ぶということも否定されてはならないだろう。その点まで含めての選択が問われるということだ。


以下、つけたり。

私見だが、外国語と母語との関係としては

 @両者の言語としての類似性の度合い
  (学習に要する労力が違ってくる)
 A現代社会で生きるのに母語だけで充分か否か
  (不充分な場合、英語を優先した方がよいことすらありうる)
 B日常生活においてその外国語に接する機会が多いか

といった側面が考慮されるべきだろう。日本の場合は

 @日本語は英語との言語間距離が極めて大きい
 A日本語だけでも最先端の知的生活までカバーしうる
 Bあまり高度な英語に接する機会はそれほど多くはない

という点でやや特殊な立場にあるのだから、「他の国がそうだから」のようなものは根拠として不充分すぎよう。

ここで非印欧系言語を公用語とする国をいくつか見てみたい。まず、フィンランドは@Aでは日本に近いものの、日常生活で英語やスウェーデン語に接する機会が多いようなので、Bに大きな違いがあると考えられる。韓国は@Bで日本に近そうだが、漢字教育が一部に限定されている現状ではAに違いがある可能性がある。(他にも検討すべき国はたくさんあるが、よく知らないから今は触れない。) あくまでも現時点での個人的印象だが、ハンガリーなどの方が参考になる点が多そうだと感じる。
 

以下、つけたりのつけたり。

教育はすべての人に関係する問題ではあるが、論争が繰り広げられているようなテーマを取材して記事を書くには相当量の準備(教養も含め)が必要なのであって、誰にでも簡単にできるようなことではないだろうと思う。正直なところ、私もあまり深く踏み込むことはできないでいる。

しかし、この種の領域は上辺だけ見ると簡単そうに見えるから安易に首を突っ込みやすいという傾向はあって(おそらく新聞社もこの点を甘く見ていて)、<重力波>のような見るからに難しそうなテーマとは違った状況にあるように見える。もっとも、大手紙ですらサイエンス系ではトンチンカンな記事をたまに見かけるから、実際にはそれほど違わないのかもしれない。結局、どっちなんだ?(笑)

posted by 物好鬼 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

文法規則は結構イイカゲン

今日は日本語の話。

まずは以下の4つの文を見てほしい。

 @彼 は 学生 でしょう。
 A彼 は 知的 でしょう。
 B彼 は 若い でしょう。
 C彼 は 働く でしょう。

いろいろな種類の述部について「〜でしょう」というパターンが成立している。このくらい綺麗に揃っているとわかりやすいし気持ちよい(笑)。
 
では、「でしょう」を「です」に置き換えるとどうなるか。

 @彼 は 学生 です。
 A彼 は 知的 です。
 B彼 は 若い です。
 C彼 は 働く です。  ??

現状の(標準的な)日本語では動詞の後に「です」は付けないから、Cが脱落することになる。ただし、上の「でしょう」のケースから考えるなら、ここにも「です」に相当する認識はある(のに表現はされないことになっている)のだろうという推測が成り立つ。
 
次に、「です」を「だ」に置き換えてみる。

 @彼 は 学生 だ。
 A彼 は 知的 だ。
 B彼 は 若い だ。  ??
 C彼 は 働く だ。  ??

現状の(標準的な)日本語では形容詞や動詞の後に「だ」は付けないから、BとCが脱落することになる。これは「である」についても同じことが言える。ただし、(以下ほぼ同文)。
 
この「認識はあるのに表現はされない」という点は、日本語学習者のミスを考える際に役立つ。私もたくさんの外国人と日本語で話したことがあるが、「彼は若いだと思います」というタイプのミスはいろいろな国籍の人がしていたと記憶している。もっとも、この部分については日本語のルールの方が捻(ひね)くれているのだから、学習者が苦労するのも無理はない。

論理的な理由がわからないせいで、ミス(とされる言い方)に聞き馴染んでしまうと違和感がなくなってくるという問題もある。実際、日本語を母語として育った私ですら、「彼は若いだと思います」型の文に対して抱くべき「何かおかしい!」という感覚が鈍ってしまった経験があるのだ。そんなこともあって、母語であっても文法の勉強は欠かせないと思っている。まして外国語の場合は、だ。
 
こういう「一貫性のなさ」は解消された方が学習者の負担は減るだろう。と同時に、現状に馴染んでいる者(特に母語話者)にとっては不満のタネになりうる。つい先日もフランス語の綴り見直しに関するニュースがあった(日本語でも戦後はいろいろあったらしい)が、合理性だけでは決められない問題と言えるだろう。
 
なお、同様の「一貫性のなさ」は英語にも少なからずある。それも be や do の周辺にいろいろ存在しているから、初心者が躓く原因にもなっている。そのあたりの話は別の機会に…。

posted by 物好鬼 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

サピア=ウォーフ仮説と臨界期について少々

昨日の朝、たまたま「赤ちゃん、似た色を認識 中央大など『言語取得後』の仮説覆す」というニュース記事を見つけた。興味ある内容だったので、思ったことを書き添えて Facebook に投稿した。それはよくあることなのだが、今回は夕方になって当該論文のラストオーサーさんから直々にコメントをいただいた。そして、普段とは違ったノリのやりとりとなった。

幸いこのブログに転載することについて許諾が得られたので、以下にそのやりとりをほぼ原文のまま紹介したいと思う。

大橋 穣二 結果自体に異論はないし、むしろ私は「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」なるものに否定的な立場の人間だ。ただ、この記事を読む限り、「生後5〜7カ月の乳児12人」が「言語や文化の習得」をしていないと言えるのかという点についての検証が欠けていると思う。彼らはたしかに話すことはできないが、その事実だけでは概念の有無までは云々しがたいからだ。
上記記事へのリンク

(上は私の投稿、以下はそれに対するコメントたち)

○○ ○○ つまりこれ、サピア=ウォーフ仮説を否定するってことですか?
栗木 一郎 なるほど、鋭いご指摘ありがとうございます(突然すみません。当該論文のラストオーサーの栗木です。北岡さんのシェアから辿ってきました)。言語や文化の取得の有無を直接乳幼児で確かめるのは難しいです。ただ、言語関係の脳活動を調べた研究では、「音韻」のカテゴリーは6ヶ月前後に確立しているものの、「言語」に関する脳活動は 13-14 ヶ月まで見られなかったという研究もあります(Minagawa-Kawai et al., 2007)。もちろん確立される前の下地が無いとは言えませんし、さらなる evidence を積み重ねる必要はあると思います。ただ、感覚的な神経信号のカテゴリーは言語とは別に発達が始まっている可能性を示せたのでは、と思っています。
大橋 穣二 はじめまして。コメントいただきありがとうございます。当該論文のラストオーサーさんから直々にコメント投下があるとは予想しておらず、思い切り冷や汗をかいております。(というのは冗談ですが、こういう場合の冷や汗って何歳くらいからかくもんなんでしょう?)

私の場合、心理学でも認知科学でも脳科学でもなく、在野の学者だった三浦つとむ(および南郷継正系統)の認識論を主要な基盤にして考えていますので、ものの見方・考え方には(良くも悪くも)違いがあるだろうと思っています。そのあたりは是非にご容赦を。

この種の実験について私は経験がなく、具体的な知識も持ち合わせてはいないのですが、冒頭にも書きましたように、結論部分については特に抵抗なく受け取ることができます。

蛇足ながら、せっかくの機会なので質問してみたいことが一つ。というのは、記事にある(私も上で取り上げた)「色の違いは言語や文化の習得によって見分けられるようになるという心理学や言語学などの有力な仮説」という部分です。私の直感では「大昔に大きな反響を呼んだことがある(が今はそれほど単純には支持されていない)説」あたりが真実に近いのではないかと想像するのですが、実際のところはどうなんでしょう? Twitter でも私と同じような感想を書いている人が何人かいたのですが。

それはそうと、今後ともお手柔らかにお願いいたします。m(_ _)m
栗木 一郎 貴重なご意見ありがとうございます。私自身の専門は計測工学で心理学の専門教育は受けていないのですが、実験心理学の分野で主に活動しており、関連学会で 20 年以上見聞きしてきた経験に基づくコメントになりますがご容赦下さい。

我々が研究対象とした色カテゴリー(カテゴリカル色知覚)については、言語の影響が強い、という報告と、言語・文化に依存しない基本構造がある、という報告とが未だにせめぎ合っています。例えば、ロシア語には明るい青と暗い青を明確に区別する言葉があります。日本語でも水色と紺などありますが、青というカテゴリーに含めても(ロシア語話者の2色に比べて)抵抗が少ない、という言語依存の例はあります。一方で、大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能という、言語に非依存な側面もあります。従って、Sapir-Wharf 仮説はまだ完全に否定されたわけでもなく、むしろ強く支持するグループもいるようです。

今回の報告は、そこに一石を投じたに過ぎず、まだまだ証拠を積み上げていく必要があると考えています。わかりにくい話で恐縮です。こちらこそ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
大橋 穣二 さらなるコメントありがとうございます。非常に興味深いです。

色というのは(その他のものも大半は同様でしょうけれど)人間から見れば目盛りもハッキリしないさまざまな値をとるもので、そのうちのどのあたりで区切るかは多分に偶然的(恣意的?)なものなんだろうと思います。ただ、「大雑把な色名は言語間の対訳がほぼ可能」というところからすると、少なくとも3原色については錐体細胞の働きが何らかの影響を及ぼしているのかなあ、と素人の私は思ったりしますが。

さて、人間はさまざまな具体的事物を見ながら自らの頭の中に抽象的な像(認識)を形成していくわけですが、現実の個々人は否が応にも何某かの個別具体的な文化的環境の中で生活しています。そして人間にとって極めて特徴的とも言える言語活動には、言語規範の媒介が必要とされます。

ところが、個々の語彙に紐づけられるべきとされる像にはその文化特有の枠付けがなされているわけですから、その文化の中で生活している個人はどうしてもその縛りに適合したかたちでの抽象化・一般化を要求されます。そうしないと言語の使用に支障が出るからです。

ついでに述べるならば、似たような問題は表現形式の側にもあります。つまり、文字や音声、語句、文構造なども、目や耳から入ってきたままの個別具体的な形式のままでは不充分で、若干抽象化した「種類」としての把握が求められます。このプロセスはあまり自覚されないかもしれませんが、癖の強い字を読んだり訛りの強い言葉を聞いたりするときには、大人でもこのプロセスの必要性を痛感することができます。

そしてこれらのプロセスは、成長するにつれて自動化・高速化が進み、自覚されることもほとんどなくなります。そうでないと母語としてのスムーズな言語活動はできないでしょう。

そういった諸々がありますので、言語や文化が色の捉え方に影響を与えることは多々あるだろうと私は考えています(小さな差異の無視については特にそうです)。ゆえに、Sapir-Wharf の仮説が全面的に否定されることはないだろうな、というのが私の現時点での考えです。と同時に、色(など)の捉え方を決定してしまうほどの力もないだろうと思います。

そういえば、人間は成長するにつれて外国語の音を識別する能力が衰えるとよく言われますが、これも「音の種類としての把握」が母語の規範に要請されるかたちで行われる(それもどんどん自動化していく)ことと関係しているのかな、と最近になって考えるようになりました。

言い換えると、いわゆる「臨界期」の問題というのは、ひょっとすると外国語の習得能力自体が衰えてしまうからではなくて、上記のような自動化が邪魔をしてしまうことによって発生する現象(スキーマ依存エラーのようなもの?)にすぎないのではないか、という考え方です。もちろん同様のことは音以外についても考えられます。素人の邪推ですが。

少し前から小学生に対する英語教育が始まっていますが、上に述べたような影響が強いと思われる音声面については、他の部分よりもやや力を入れて教える(たとえば英語的な(あるいはもう少し広く非日本語的な)音声への露出を継続する)ことが大切なんじゃないか、という仮説も成り立つように思います。

以上、長々と書いてしまいましたが、すべて素人の戯れ言ですのでコメントは不要です。また何かありましたらよろしくお願いいたします。
栗木 一郎 「自動化」とおっしゃる話はよく解ります。私は外国語の聞き取りが(比較的)得意なのですが、逆に日本語の聞き取りが(比較的)不得手で、日本語の聞き取りの「自動化」が未熟なせいだろうと思っています。

感覚情報は、言葉に紐付けされる前の表現形式があると思いますが、日常的なコミュニケーションの必要性から、若干むりやり言葉に結びつけている(むすびつけざるを得ない)部分もあります。その「無理矢理」圧力が感覚の脳の中での信号に影響を与える事はあり得るという感じかと思います。

我々の研究に興味を持って頂き、ありがとうございました。おっしゃる通りのご指摘だったので、失礼とは思いましたが直接お答えをしたかったし、直接ご意見を伺えてとても有意義でした。

今後ともよろしくお願い致します。
大橋 穣二 お疲れ様でした。ニュースになったばかりでさまざまな対応に時間をとられているところではないかと思います。研究の方、今後も頑張ってください。

(終わったはずなのに追記する私。)

大橋 穣二 中央大学のプレスリリースでは「これは、サピア=ウォーフ仮説を覆す驚くべき成果です」と書かれてますね。
プレスリリースへのリンク
栗木 一郎 プレスリリースですが、「痛烈な一撃を見舞った」という表現では記事にして頂きにくいので「覆す」という白黒のはっきりした表現になったと理解しています。もうじき英語版も出ますが、そちらは少しトーンが抑えてあります。

やりとりの本体はここまで(あとは転載に関する話などが少々)。私としてもこういう内容での長文コメントは久しぶりのことであり、記録にとどめておきたいということもあってブログに載せることにした。もちろん読者に対する何らかの刺激になればさらに嬉しいところなのだが、はたして…。

参考:サピア=ウォーフの仮説

posted by 物好鬼 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月08日

特別疑問文の作り方について

※さきほど連続でツイートしたもの。

特別疑問文の作り方だが、安藤『現代英文法講義』では「主語・助動詞倒置→wh移動」という順序になっている。しかし、話し手は語順どおりに考えるのだと仮定するなら、「まず疑問詞を言い、その後に〈その疑問詞に対応する部分を欠いた一般疑問文〉を続ける」という手順の方が合理的ではあるまいか。

一方、whの移動先について生成文法は「指定部」であるとし、助動詞の移動先とは違うと考えている。そうすることのメリットは、主語を問う場合を主語以外を問う場合とほぼ同様に扱うことができることだ。とは言うものの、あくまでも「ほぼ同様」であって、doの扱い方まで同じにすることはできない。

さて、whの移動先が助動詞のそれと違うと考えることが合理的なのであれば、意味順においてもそれぞれのために箱を用意した方がよいということになるのだろうか。箱の数を増やすことは複雑化を意味するという面もあるが、これはどこかで妥協する必要があるのかもしれない。私の仕事ではないが(笑)。

話は少しそれるのだが、意味順の箱は部屋のようなもので、語句たちはあらかじめ用意された部屋に住んだり、別の部屋に引っ越したりする。だから理論を考える際には、「どのような部屋をどこに・いくつ用意しておくべきか」を検討することが不可欠のはずだ。同じことは生成文法に関しても言えると思う。

ちなみに英文構造図の場合は、語句たちを(ときに入れ子の)枠で囲み、その「枠囲みされた語句たち」自身が移動するというズルい方法をとっているので、部屋の数には(表向きは)悩まされずにすむ。ただし、同時に何らかのデメリットが生じている可能性も否定できないから、優劣を決するつもりはない。

以上、思い付いたことをツラツラと書いてきた。英語学や言語学についての専門的勉強が不足していることは自覚しているが、こういった思索を積み重ねることで自分の考えを整理し、拙著改訂の糧にしたい。思索のための刺激が得られる点でSNSも有用だと再確認できたことも、今日の収穫の一つだと思う。

(すべて140字)

posted by 物好鬼 at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月03日

応用の前に基礎の徹底を

「文科省、高3対象の英語力調査公表 7〜9割が中学卒業レベル以下」という記事を読んだ。

文科省のサイトにはまだ載ってないようだが、上の記事を読む限り、

 4技能試験の結果、高3なのに中卒レベルの人が多いとわかった。
 Sで89.0%、Wで82.1%、Lで73.6%、Rで68.0%。
 前回よりは改善しているが、依然としてよくない。

で、

「文科省は引き続き、コミュニケーションの向上などに課題があるとしている」

と言っている。

しかし、4技能の試験結果が悪いからと言って、その原因が4技能そのものの能力不足であるとは限らないだろう。ましてコミュニケーション??? 点数が伸び悩んでいる理由は、各技能に対するもの以外にもいろいろ考えられる。たとえば

 ・語彙力が不足している
 ・文法力が不足している
 ・スピードに対する慣れが不足している
 ・英文の内容についていけない
 ・日本語の問題文が読めていない
 ・長時間の試験に耐える精神力がない

などなどだ。おそらく上記の全部が大なり小なり関連しているだろう。

※「英文の内容についていけない」については、テスト全体を(内容はそのままで)日本語に置き換えてテストしてみることで明確になるはずだ。

中3対象の試験も散々だったことからすると、中学段階で躓いている生徒が少なくないのは間違いない。もちろん、試験だけでは測れないものがありうる点にも注意が必要だ(コミュニケーションとやらもここに属するような…)。

いずれにしても、応用志向であればあるほど基礎力の重要性が高くなることは上達論の基本であるはず。英語教育に限らず数学などでも同様だが、そういう基礎的な認識の重要性はいくら強調してもしすぎることはないだろう。「教育専門家」とされる人たちについてはなおさらだ。


ところで、だ。

半世紀ほど前、日本は体操王国と呼ばれた。そしてライバルだったソビエトは基本を重視する姿勢を日本から盗んだ。一方の日本はというと、モントリオール五輪(1976)で5連覇を達成した頃から高難度の技にばかりに目を向けた結果、「着地の乱れが当たり前の状態」となり、長期にわたって低迷する。

日本体操界はシドニー五輪(2000)惨敗を機に大改革に着手する。その背後で、日本の一部若手選手はアンドリアノフ氏(かつてのソビエトの雄)らから基本重視の指導を受けることで、正確な技をシッカリと身に付けていた。そうしてアテネ五輪(2004)では日本男子が団体優勝を果たした…。

参考)http://plaza.rakuten.co.jp/hydrange/diary/200408180000/

高難度の技云々のくだりが現在の英語教育論議に似ていないこともない。決定的に違うのは、日本には「英語王国」としての過去がないことだろうか。基本の重要性は「同時通訳の神様」こと國弘正雄氏も主著の中で力説していることであるが、そういったことを抜きにして夢ばかり追っているとロクなことはないと思う。

posted by 物好鬼 at 05:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする