記述式を分離先行させてはというのだが、正気なんだろうか。記事を読むと部活との兼ね合いを気にしている校長もいるらしいが、そんなことは大した問題ではあるまい。学校では部活よりも勉強を優先するのが基本なのだから。
もっと大きな問題なのは、生徒たち自身にとって、記述式の方が準備に時間がかかるということだ。高校生活はたった3年間しかないのに、その中で数ヵ月も前倒しで実施されたのでは当の受験生たちはたまらないだろう。
その意味で、分離先行案はウルトラCでも何でもない。採点側ばかりに配慮した身勝手なものであり、高校生側から見れば「斜め上」の発想でしかないとすら言える。採点の手間を考えると費用も馬鹿にならないはずなのだが、それは受験料でまかなうのだろうか。もちろん指導する高校側もいろいろ大変だろう。
結局のところ、この問題は昨年12月の中教審答申「新しい時代にふさわしい……一体的改革について」が足枷になっているわけだが、できないことを無理にやったところで、そのしわ寄せを受けるのは高校生たちだ。そんな拙速はできるだけ避けなくてはならない。
ちなみに、中教審は「文部科学大臣の諮問機関で,文部科学省に置かれている多数の審議会のうち最高の位置を占め,最も基本的な重要事項を取り扱う」(コトバンク)ものだ。しかし、審議会とはいっても参与機関ではなく諮問機関であり、その答申に法的拘束力はない(参議院法制局 HP のコラムによる)ということに注意が必要だ。もちろん文科省としては中教審の答申を軽視するわけにはいかないだろうが、答申の内容をそのまま受け入れる場合であっても、その判断についての責任は全面的に文科省(そのトップは文科大臣)にある。
つまり最終的には文科省の当事者能力が問われるわけだ。となれば、ここは文科省自身の責任において答申内容の当否について英断を下すべきところだろう。そもそも大学受験生全員に統一的な記述式試験を受けさせる必要があるのか? 入試制度に関して皆が驚くほど無理筋な案を出してくるのは、当の官僚たちがマークシート世代のトップランナーであったことと関係があるのか、あるいは一般国民には見えない特殊な「力」が背後で働いているのか、それは私にはわからない。いずれにしても、受験生たちのためにも現実的な判断をしてほしいものだ。