※今朝、連続で
ツイートしたもの。
語学でも武道でも同じだろうが、いわゆる「できる」人たちは「できない」人たちの苦労が理解できない場合が少なくない。苦労した過去を持っている指導者でも、昔の記憶は薄れてしまいがちだ。それをカバーするには、身近にいる「できない」人たちを指導しながら事実を論理化していく積み重ねが必要だ。
そこから派生する問題として、基礎の扱いが挙げられる。多くの指導者は「基礎は大切」と言うが、実際には形式的にできただけで安易に次に進んでしまうケースをよく見かける。しかし、基礎は一生ものであり、それは一流バッターが毎日の素振りを欠かさないのと同じだ。その重要性を甘く見てはならない。
とはいえ、それはいつまでも基礎しかやらないという意味ではない。基礎はそれ自体としては基礎ではなく、応用への道筋ができることによって基礎に転化するものだ。しかし、見事なる応用を実現するためにこそ、それに見合った見事なる基礎が要求されるのであり、指導者には急がない勇気も必要とされる。
最初の点に似た問題として、タイプの違いというのもある。たとえ同じ分野を学んでいても、個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない。それゆえ、もし個々の方法ではなく方法「論」を構築したいなら、自身を含むさまざまなタイプの学習者を検討する必要がある。
ついでに述べると、目標とするものの違いにも配慮する必要がある。実用性を重んじるのも、試験や試合での結果を求めるのも、学びの過程を楽しむのも、あるいは教材のコレクションに励むのも、基本的に各自の自由であり、他者がとやかく言うことではない。ただし、目的と方法との齟齬には気を付けたい。
(すべて140字)
翌日の追記(いずれも140字)。
先に「個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない」と書いたが、それは「短所は気にせず長所を伸ばせ」という意味ではない。なぜならば、たとえ苦手でも必要なものは必要だからだ。そういった苦手を克服することで壁を突破できることも少なくないのではないか。
「基礎」というのは「何ができるようになりたいか」という目的に応じて設定されるものだが、そこで反復されるもの自体が直接「実戦的」であるとは限らない。バッターの素振りはボールが飛んでこない環境で行われる点で実戦とは異なるが、練習としての意味は大きい。このことはさまざまな分野で言える。
参考:冒頭部分は南郷継正『武道への道』(三一新書)所収の次の文章(p.95)に触発されたものである。
秀才的人間の忘れっぽさ
そもそも人間は、そのなかでもとくに秀才的人間は、一に<忘れっぽく>できており、二に<自負心>の塊であるからです。一の忘れっぽいというのは記憶力云々という一般的なことではなく、自分がその道での<初心者>であった頃、何についてどれほどの心配をし苦労をしそして悩んだかという事実を、<具体的>なかたちではほとんど憶えていないということです。それを生々しいかたちでは忘れてしまっているものだから、現在の弟子たちの苦労・悩みを前にしても、それほどのものとは思えずともかく努力しさえすれば何とかなるものという信念で支えてやろうとするだけなのです。しかし、問題はそれだけではないのです。現在ある自分は、仮に同じ苦労、同じ悩みをも過去にもったにせよ。それは<秀才>レベルのものでしかなかったということを考えにいれないのです。つまり、自分は素材的に恵まれていたのであり、それゆえにいささかの論理を無視した練習であっても何とかやってこれたのだという反省がでてこないのであり、結果として自分の過去と同じものを押しつけたりすることになるのです。ここまでだったらまだよいのですが、もっとまずいことが現実には起きるのです。それは、自分の秀才であった過去にすら必要とされた<つらい苦労と悩みの事実>をも忘却の彼方へ追いやってしまいかねないのです。自分のともかくも駄目だった昔を<きれいさっぱり>と忘れてしまって、「ほら、こうやって使えばいいんですよ、簡単でしょう。悩むことなどありませんよ」といとも気軽に受け止めてしまいがちなのです。
(本当はもっと引用したいが、長くなりすぎるのでここまでとする。)