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2015年11月29日

解答用紙の体裁が創造性を邪魔する?

たまたま "東大卒はなぜノーベル賞で苦戦するか?「東大入試問題の『解答用紙』から考える」" という記事を読んだ。たいした記事ではないのだが、私の母校に関することなので少し書いてみたい。


まず、東大入試の解答用紙がどのくらい特殊なのかについては、私はよく知らない。しかし、仮にかなり特殊なものなのだとしても、それに対処するくらいで芽を摘まれてしまうような貧弱な「創造性」「頭の良さ」「発想力」ならば、それはどこの世界でもあまり役立たないのではないか。ちなみにだが、学者が書く学術論文にしても、決められたルールに従うことを求められるのだ。

そもそも受験生としては試験問題のクセへの対処は必須であろう。もちろんその中には、解答用紙の特殊性というのも含まれる。そして、その対処法を見出すには、それなりの「創造性」「頭の良さ」「発想力」が必要とされるだろう。

となると、「その対処法を<自分で>考え出すのかそれとも予備校などに教えてもらうのか」ということの方が、当人の知的発達に対する影響が大きいはずだ。一般化して言うと、予備校などの意義・役割にも言及する必要があるということだ。もちろん、受験に関するありとあらゆる対処法(解法なども含む)がここで問われることになる。

なお、東大生と創造力の関係というテーマを取り上げるのであれば、進学振り分けの存在を忘れるわけにはいかない。すでに大昔からよく知られた問題ではあるが、なぜか記事中では一言も触れられていない。



posted by 物好鬼 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月09日

指導について少々

※今朝、連続でツイートしたもの。

語学でも武道でも同じだろうが、いわゆる「できる」人たちは「できない」人たちの苦労が理解できない場合が少なくない。苦労した過去を持っている指導者でも、昔の記憶は薄れてしまいがちだ。それをカバーするには、身近にいる「できない」人たちを指導しながら事実を論理化していく積み重ねが必要だ。

そこから派生する問題として、基礎の扱いが挙げられる。多くの指導者は「基礎は大切」と言うが、実際には形式的にできただけで安易に次に進んでしまうケースをよく見かける。しかし、基礎は一生ものであり、それは一流バッターが毎日の素振りを欠かさないのと同じだ。その重要性を甘く見てはならない。

とはいえ、それはいつまでも基礎しかやらないという意味ではない。基礎はそれ自体としては基礎ではなく、応用への道筋ができることによって基礎に転化するものだ。しかし、見事なる応用を実現するためにこそ、それに見合った見事なる基礎が要求されるのであり、指導者には急がない勇気も必要とされる。

最初の点に似た問題として、タイプの違いというのもある。たとえ同じ分野を学んでいても、個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない。それゆえ、もし個々の方法ではなく方法「論」を構築したいなら、自身を含むさまざまなタイプの学習者を検討する必要がある。

ついでに述べると、目標とするものの違いにも配慮する必要がある。実用性を重んじるのも、試験や試合での結果を求めるのも、学びの過程を楽しむのも、あるいは教材のコレクションに励むのも、基本的に各自の自由であり、他者がとやかく言うことではない。ただし、目的と方法との齟齬には気を付けたい。

(すべて140字)

翌日の追記(いずれも140字)。

先に「個々の時点での学習能力等には個性がある以上、具体的な指導方法も同じではすまない」と書いたが、それは「短所は気にせず長所を伸ばせ」という意味ではない。なぜならば、たとえ苦手でも必要なものは必要だからだ。そういった苦手を克服することで壁を突破できることも少なくないのではないか。

「基礎」というのは「何ができるようになりたいか」という目的に応じて設定されるものだが、そこで反復されるもの自体が直接「実戦的」であるとは限らない。バッターの素振りはボールが飛んでこない環境で行われる点で実戦とは異なるが、練習としての意味は大きい。このことはさまざまな分野で言える。


参考:冒頭部分は南郷継正『武道への道』(三一新書)所収の次の文章(p.95)に触発されたものである。
 秀才的人間の忘れっぽさ
 そもそも人間は、そのなかでもとくに秀才的人間は、一に<忘れっぽく>できており、二に<自負心>の塊であるからです。一の忘れっぽいというのは記憶力云々という一般的なことではなく、自分がその道での<初心者>であった頃、何についてどれほどの心配をし苦労をしそして悩んだかという事実を、<具体的>なかたちではほとんど憶えていないということです。それを生々しいかたちでは忘れてしまっているものだから、現在の弟子たちの苦労・悩みを前にしても、それほどのものとは思えずともかく努力しさえすれば何とかなるものという信念で支えてやろうとするだけなのです。しかし、問題はそれだけではないのです。現在ある自分は、仮に同じ苦労、同じ悩みをも過去にもったにせよ。それは<秀才>レベルのものでしかなかったということを考えにいれないのです。つまり、自分は素材的に恵まれていたのであり、それゆえにいささかの論理を無視した練習であっても何とかやってこれたのだという反省がでてこないのであり、結果として自分の過去と同じものを押しつけたりすることになるのです。ここまでだったらまだよいのですが、もっとまずいことが現実には起きるのです。それは、自分の秀才であった過去にすら必要とされた<つらい苦労と悩みの事実>をも忘却の彼方へ追いやってしまいかねないのです。自分のともかくも駄目だった昔を<きれいさっぱり>と忘れてしまって、「ほら、こうやって使えばいいんですよ、簡単でしょう。悩むことなどありませんよ」といとも気軽に受け止めてしまいがちなのです。
(本当はもっと引用したいが、長くなりすぎるのでここまでとする。)

posted by 物好鬼 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月07日

試験対策だけが試験対策ではない

来年5月から TOEIC テストの出題形式が変わるという話が英語学習者の間を駆けめぐっている。試験の出題形式・傾向といったものは、受験生にとっては非常に気になるものなのだろう。しかし、考え方はいろいろある。

少し長いが引用から入りたい。
もし、習ったことのない新傾向の問題が出たらという不安は、受験生の脳裏から片時も離れることはないでしょう。しかし、私はそれではいけないと思うのです。どんな問題が出題されても、本当に英語を理解していたら、解けて当たりまえです。そのような応用のきく文法力は、通り一遍の勉強では身につくものではありません。本書の目的の1つは、英文法の知識と、理解を一段深く掘りさげることです。数学の得意な学生が、初めて見る問題を、楽しみながら解けるように、英語力も出題傾向を超越した域まで持っていってほしいと願うのです。また、それは実に簡単な道なのです。本書は、皆さんの英語の理解力を、かならず高めることを確信します。

これは私が高校時代に読んだ(そして今でも愛読している)長崎玄弥『奇跡の英文法』の序章に書かれている言葉だ。この主張を真に受けた私は、ほとんどこのままの姿勢で受験生活を乗り切った。そうしたのは英文法だけではなかったから、私に対する氏の影響は極めて大きかったということなのだろう。

正確に言うと、数学だけは2浪目の最後に赤本『東大の数学』をやったし、それはとても大きな効果があった。しかし、その他の科目は赤本をやらず、特に英語と国語については(英語は赤本『東大の英語』を持っていたのに)、たま〜に受ける模擬試験の機会を除いて、問題演習と呼ばれるものをまったくと言ってよいほどやらなかった。正直に言うと、数学と物理以外で問題演習をするのが面倒臭かったというのが最大の理由であって、それが許されてしまったのはまさに自宅浪人なればこそではあった。

それでも何とか合格できたのだから、「出題傾向を超越した域まで持ってい(く)」ことにはそれなりに成功したと言ってよいのだろう(実際、東大の出題傾向は今でもよく知らない)。他人のペースで勉強することが苦手だった(お金もなかった)私は塾や予備校に行かない道を選択したが、それだけに「自分の力でやりたい」という気持ちは人一倍強かったし、合格後の「自分ひとりでやったぞ!」という感慨もひとしおだった。多分に僥倖(棚ぼた)だったという可能性を考慮しても、だ。

もちろんこんなやり方をすべての人に勧めようとは思わない。しかし、試験と言えば「傾向と対策」だという風潮に対する一つのアンチテーゼとしてであれば、こんな前例にも存在価値があるのではないかと考えている。自分なりのジンテーゼを見つける参考にしてもらえばよい。


これは蛇足だが、TOEIC に限らずどんな試験でも、プロパーな対策をすればするほどそのスコアは「実力」から遠ざかるものだ。もちろん現在の TOEIC などは小手先で何とかなるような試験ではないと思うが、ルールを設けて公平・公正に実施しようとするかぎり対策の余地があるのであり、この種のギャップはゼロにはならないだろう。

だからこそ、個別の試験にプロパーな対策はできるだけ少なくすませたい(特に試験以外で役立たない「テクニック」なるものは皆無にしたい)と私は考えてしまう。それは「問題演習が面倒臭い」という私の個性(?)に根ざすものではあるが、その背後には「基礎を重視してそれを最大限に活用したい」という大義名分(?)もある。だから、多くの受験指導者がそういう考え方を私と共有するようになったら面白いと思うし、そのとき受験産業はどう変わるのか?…などと妄想することもある。

posted by 物好鬼 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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