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2015年04月26日

言葉のルールは理屈と感情と

つい先日、「『簡体字はキモい』 香港で渦巻く“中国本土化への嫌悪感”」という記事を見つけた。

気持ちは分かる。言葉のルールは理屈だけでなく慣れの部分が大きいから、馴染めないときの感情的反発はバカにならないのだろう。まして政治的な背景がある場合はなおさらだ。

私個人としては、漢字の略し方でバランスがとれているのは中国の繁体字でも簡体字でもなく日本の新字体だと信じたいが、これも主観的なものでしかない。(ダジャレではあるが。)

そういえばだが、私なんかより若い世代の人は(世代だけでなく年齢の問題もあろうが)、旧漢字や旧仮名遣いに慣れていないことが多いように感じる。ちなみに私自身は、駒場時代に『世界言語概説』という分厚い2巻本を気の向くままに読み漁っていたら、いつのまにか旧漢字旧仮名遣いに馴染んでしまった。そういう意味では全然苦労しなかったと言える。ただし、読むだけだが。

これは一種のイマ―ジョン教育だろう。この方法は、学習内容について勘違い・覚え間違いが発生しづらい場合には非常に有効だと思う。感情移入できる場合にはとりわけ大きな威力を発揮するはずだ。過去の経験からも、「ハマる」「熱中する」ことにはたしかに大きな威力があると感じる。

かなり前のことだが、「うちの子(就学前)はなかなか文字を覚えない。どうしたらよいか」という投稿を新聞か何かで読んだことがある。私が回答者だったら「子供と一緒にカラオケに行って子供番組の主題歌をたくさん歌ってみてはどうか」とアドバイスするのにと思った記憶がある。それがたとえ完璧な方法でないとしても、本人が好むこと(もちろんカラオケ以外でもよい)から入るのはやはり有効だろう。その意味では、いわゆる勉強だけが勉強ではないわけで、親の「ものの見方」が問われるところでもある。




posted by 物好鬼 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月23日

英語教育はヨリ大きな枠組みの中で考えるべし

これは英語教育に限らないが、学校における教科教育は「(公)教育とは」「学問とは」「いわゆる実学・虚学とは」などを踏まえる必要があり、公教育全体は「社会とは」「人間とは」「国家とは」などを踏まえて考える必要があるはずだ。なのに、昨今の英語教育に関する議論では、こういう大きな観点に触れる人はあまりいないように思う。私が知らないだけかもしれないが。

英語において実用性を重視することは(数学と同様の意味で)許容されるし、必要ですらあると私も思う。しかし、注意すべき点が少なくとも2つある。

その1は、英語教育改革は他の科目に皺寄せがいかない範囲で行うべきだということ。「身に付いていない生徒が少なくない」という問題は、他の全ての科目について言えることだからだ。その点、英語教師はどうしても英語の重要性を強調しすぎる傾向がある。端的には「国語も数学もやれ!」と言いたい。これは大人になった英語教師も例外ではない。

※国語や数学といった科目をどのくらいやるべきかだが、センター試験で平均点程度にすら達しないのでは話にならないだろう。英語教師は一般人よりも英語が得意だろうが、その英語力を身に付けるために他の科目を犠牲にしすぎているとしたら、それは高校生たちにとって適切なロールモデルとは言えまい。その意味で、センター平均点というのは一つの目安になるだろう。もちろん、これは他の科目についても同様だ。

その2は、英語が持つ自然言語としての特殊性を考慮すべきだということ。これは、母語というものが精神活動と不可分一体であること(これは数学などにはない側面である)からくるものだ。もちろん英語は大半の日本人にとっては外国語だが、英語を母語とする人は世界中にたくさんいるのだから、「英語はコミュニケーションの道具だから通じればよいのだ」ではなく、通じることを最低ラインとしたうえで、感情や論理にも可能な限り配慮した指導をすることが大切になってくるはずだ。

※これは数日前に立ち読みした本に書いてあったのだが、エリート層においては、発音は少しくらいおかしくても問題とされないが、文法を間違えると教養を疑われるとのこと。もちろん、カジュアルな会話はその限りではない。

以上、自分の英語力を棚に上げて、書きたいことを書いてみた。

posted by 物好鬼 at 07:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月16日

日常の会話は文法的にブロークンなのか?

「“受験英語”を“使える英語”に変える実践的会話術」という記事を見つけた。著者は鈴木寛氏(東京大学・慶応義塾大学教授、文部科学大臣補佐官)。

一番最初の見出しに「東大を出ても話せない」などと書かれているが、何かというと東大を引き合いに出すのはナントカの一つ覚えではないか? まあ、それはさておき…。

書かれている内容をざっと読んだが、特に異論はない。ただ、
私たちの日本語での会話に置き換えても当たり前のことですが、英語のネイティブも日常の会話では文法的には「ブロークン」な形で話しています。英語は日本語と違い、主語を多用しますが、2人と話していると頻繁に省略しています。たとえば「あなたは日本人ですか?」を英訳すると、教科書どおりなら主語と動詞の順番を入れ替えて「Are you Japanese?」と話すところですが、実際の会話では「You are Japanese?」と語尾を上げるだけでいい、という具合です。
という部分は、実践的にはそのとおりだが、文法というものに対する理解の仕方は間違っていると私は考える。なぜか?

「You are Japanese?」のような言い方は、フォーマルな場面では避けられるべきものだろう。しかし、たとえそうだとしても、「日常の会話」においては十分に正しい(適切)とされる言い方なのだ。つまり、これもまた文法に従ったものなのであって、文法を逸脱した「ブロークン」とは根本的に異なるものであると理解する必要がある。フォーマルなものだけが文法ではない、ということだ。

もしフォーマルな場面で「日常の会話」的な話し方をしてしまえば、それは「不自然」「不適切」と評価されるだろう。しかし、それとまったく同様に、「日常の会話」的な場面でフォーマルすぎる話し方をすることもまた、「不自然」「不適切」と評価されるはずだ。後者は失礼ではないから許容度は比較的高いけれども、文法からの逸脱という意味においては、これもまた「ブロークン」と呼ぶべきものなのだ。

そういえば、最近は何かにつけて「文法は間違ってもよいから話すべき」と言われることが多くなってきた。たしかに間違いを恐れて話し出せない日本人は少なくないし、そのような人たちのメンタルバリア(?)を取っ払う効果はあろう。

しかし、旅行や買い物以上のレベルを求めて外国語を学ぶのであれば、言語の大きな柱の一つである文法を軽視することは大きな誤りだ。以前にもどこかに書いたと思うが、ここは「文法的に正しく話すことができないのなら、できるように訓練しよう」と考えるべきところだ。こんなことは他の科目(たとえば数学の計算方法や楽器の演奏方法など)では当然のことなのに、なぜか英語だけ例外扱いされてしまっている。言語とは人間の精神と不可分一体のものなのに、はたしてそれでよいのか?

そもそも…と大仰に構えるまでもなく、言葉を大切にすることは、相手を大切にすることだろう。となれば、文法を守ることはその一歩であり、発音にも同様の側面がある。そして適切な語彙選択などの課題がそれに続くのだと私は思う。

posted by 物好鬼 at 23:47| Comment(1) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

法律的発想と配慮 〜住みやすさは大切〜

BLOGOS に "「ご自由にお取りください」ラーメン屋でネギを大量に食べたら「出禁」こんなのアリ?" という記事があった。書いたのは弁護士ドットコム。これに関して Facebook に私見を書いたので、こちらにも貼っておきたい。

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いかにも法律家的な発想だと思う。私も民法の基礎は学んだことがあるから、契約云々という部分は理解できる。

しかし、「ご自由に」というのは「いちいち許可を取る必要はありませんよ」という意味であって、量が無制限であるということまでは意味しないだろう。店員が「こっちも商売でやってるんで」と言ったのは当然だ。こんなことは立場を逆にして考えれば容易に想像できるはずだ。

たとえ厳密に書かれていなくても、その背後には「分量は常識の範囲内でお願いします」という暗黙の了解があるのだと理解すべきところであり、美味しく食べることが優先されるべき場所にいちいち厳密な記述を求めるのは、それこそ「やぼ」というものだろう。

これはやや日本的な「配慮」の問題なのかもしれない(だから欧米諸国に同じことは期待しない)が、こういった暗黙の了解が読み取れない人が多くなりすぎると、その社会は住みにくくなるのではないか。法律がどんなに大切なものだとしても、日本のよいところは失わない方がよいと思う。

そう考えると、
『ご自由にお取りください』の張り紙は剥がすべきでしょう。できない約束を掲げて客を勧誘するのはアンフェアですし,大食いに対する『理由なき差別』です。
といった一面的な主張をするよりも、
法律的にはこのようなトラブルに発展する可能性があるのでお店側も注意が必要です。しかし、人間社会は法律が全てではありませんから、客側としても店の足元を見るようなことは控えるのが賢明です。お互いのことを思いやる気持ちがないと、住みにくい社会になってしまいますから。
のように言った方がよいはずだ。そして、このようなことは法律を専門とする人間こそが率先して語るべきであると私は思う。

posted by 物好鬼 at 09:29| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

“an egg”は「あんえっぐ」ではない

今回は初歩的な発音の話。

日本語の「ん」はローマ字では n と書くことが多い。しかし、少なくともヘボン式では「乾杯(かんぱい)」は kampai と書かれる。もう少し正確に言うと、直後が b p m のいずれかである場合に、n のかわりに m が使われる。

ヘボン式ローマ字にそういうルールがあるのは、それは実際の発音がそうだからだ。もっとも、「実際の発音」としては、他にも区別すべきものがある。

実は日本語の場合、「ん」で表される音にはだいたい次の4種類がある。
(※あくまでも「だいたい」であって音声学的に正確な説明ではない。)

 [n] … 直後が [t] [d] [n]  例:音読(おんどく)
 [ŋ] … 直後が [k] [g]  例:音楽(おんがく)
 [m] … 直後が [b] [p] [m]  例:音波(おんぱ)
 [ɴ] … その他(語末も)  例:音域(おんいき)

ヘボン式ローマ字では、[m] のみが発音どおり m と書かれ、その他の場合はすべて n と書かれていることになる。

さて、ここからは英語の発音。

英語の発音に不慣れな人(大半の中高生はそうであろう)に an egg を発音させるとしよう。これは "「ん」の直後に母音" というパターンになっているから、たいていの人は日本語の発音ルールに従って上記ルール最後の [ɴ] を使おうとする。その結果、「あんえっぐ」のような発音になる。

もちろんこれは英語的な発音ではない。実は日本語でよく使われる [ɴ] は英語には存在せず、英米人はかわりに [n] を使う。そのため、an egg は「あねっぐ」に近い発音になる。

つまり、[ɴ] のかわりに [n] を使うようにしないと英語らしい発音にはならない、ということになる。

posted by 物好鬼 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 英語論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月08日

基本や形(かた)の重要性について(ツイート集)

ここ最近のツイート(いずれも140字ちょうど)の中に「基本や形(かた)の重要性」に関するものがいくつかあったので、新しいものから順に並べてみたい。特に整理されたものではないが、何らかの food for thought になればと思う。

発音をよくしたいのは、半分は他人(聞き手)のため、残り半分は自分のため。私みたいな性格だと、「自分のため」に力点を置いた方がうまくいく気がする。「自己満足」とも言うが、他人迷惑ではない以上、遠慮する必要はあるまい。僻むような手合いは遠慮なく放置。文法も同じだ。残るはボキャビルか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585256364462608384
上達のための最大のカギは、自分の弱点を明確にして克服することだ。仮に文法が弱い人であれば、文法を学ぶことで飛躍しうるだろう。しかし、たとえ自分がそうであっても、文法が他の人にも特効薬として機能するとは言えない。弱点には個人差があるからだ。それを無視して安易に一般化すると失敗する。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/585012415173042176
This is a pen. という例文について「こんなの実際には使わない」と言ってる人たちは、小学校の算数の教科書に 2+3=5 とあっても「実際の足し算はもっといろんな組み合わせで行われるのだ」と文句を言うのだろうか。例は例なのだ。それを踏まえて各自が自分用に改造すればよい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584638854721708033
スラッシュに限らず構造解析系の作業というのは、@結果より方法を知ること、A自力でたくさんやること、B正確さを維持しつつスピードアップすること(同時に書く量は減ってくる)に注意することが大切だろう。その結果として書く必要性がなくなるのだ。数学の式変形などにも同じことが言えると思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/584574379842867200
世の中には異様なほど頭の回転が速い人がいるが、中身の正しさは別の問題。長期的観点からは、少しくらい時間がかかっても的確な判断を下せるほうがよい。スピードは後からつければ足りる。これは言うほど簡単ではないが、スピードに慣れたあとで緻密さを高めるのは、多くの人が想像するよりも大変だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/583408321299816449
ディクテーションは時間がかかるが、相応の意義がある。書き出すことで一つひとつの文字・音と向き合うことができるからだ。これと同じことが英文和訳についても言える。助動詞の意味などは特にそうだが、母語で実際に書いてみることでニュアンスと向き合うことができる。内容面のディクテーションだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580865875324080128
「中高で6年やっても話せるようにならない」から「中高の英語は役に立たない」と帰結するのは短絡的だ。「中高の英語すらできていない」という可能性を忘れているからだ。実際のところ、まともなやりとりには中学英語の全体と高校英語の大半が必要だろう。ただ、それらをどう学ぶかはまた別の問題だ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/580394566752157696
かつてコンビニ店員などが「マニュアル人間」と呼ばれ揶揄された。これは本来なら「あらかじめ決められたことすら高々表面的にしか習得していない」と考えるべきところなのに、「決められたことをする=悪」と考える人もいた。知識を軽視する現在の風潮も同じだ。「守破離」の智恵はどこに行ったのか。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/578331286944677889
私は「知識も思考力も」という考えだ。もし答えを自力で見出す努力を避けて他人の手になる答えに頼るような学び方ばかりしていたらどうなるか? その意味で、知識の集積を一時的に制限して思考力の訓練に集中する時期はあってよい。だが、最終的には膨大な知識を習得しないと文化遺産は継承できない。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577436690060472321
野球の練習は、ウェアに着替え、道具を持ってグラウンドに出て体をほぐすだけでなく、お手本を理解して真似るところまでが準備だろう。そこから後が練習だ。語学なら、辞書を引くのはもちろん、テキストの内容や音声などを押さえるまでが準備となる。だから、そこでやめたらほとんど何も残らないのだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/577244841555292160
書店に行って学参をパラパラめくることが多いのだが、非常にわかりやすく書かれたものがたくさんある。こういうのを一通り買い揃えて本棚にさりげなく並べておくだけでも、そこそこの教育的効果があるのではないか。もちろん勉強以外でも同じだ。人間だけでなく、書物の交際範囲もとても大切だと思う。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/576245467111038977
「英語がうまくならないのはネイティブが使うような本物の言い回しを知らないからだ」というのは、「武道がうまくならないのは達人の師匠から秘伝の技を習ってないからだ」というのに似ている。そして多くの英語学習者が「秘伝の技」を求める。しかし、両者の本当の共通点は、基本訓練の重要性だろう。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/570183042553094145
形式より内容が大事とよく言われるが、内容が大切であればこそ、その内容に見合った形式を与えることも大切であるはずだ。それがまた内容への更なる切込みを可能にしたりもする。武道にしても数学にしてもそうやって発展してきた面があると思う。語学なら、内容に逃げず、文法・発音なども学ぶべきだ。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568943233545342976
知識については、@どんな知識を持っているか、A持っている知識をどれだけ使えるか、B持ってない知識をどうやって獲得するか、の3点を考慮する必要があろう。出題範囲が決まっている試験ではBの評価は難しいが、学者になりたい人は注意すべきだ。一方、大半の受験生は@とAの差がわかれば足りる。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/568213805706014720
英語学習中なのに文法書を読んでないとおぼしき人が少なくない。どうせ文法と無縁ではいられないのだし、学ぶのであれば手元に本があった方が便利だ。あと、「文法や文法用語が使えるのはカッコイイ」と思えることも結構大事だと思う。必要性には個人差があるとしても、少なくともポジティブでいたい。
https://twitter.com/George_Ohashi/status/566014405830115329

posted by 物好鬼 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

言語の本質は音声ではない

今日のニュースで「手話法の制定求め意見書可決 全都道府県議会」という記事があった。そしてそこには
手話を言語として認め、使用しやすい環境整備を目指す「日本手話言語法」の制定を求める意見書が全ての都道府県議会で可決された
と書かれていた。私自身も中学時代に手話の勉強をしたことがあるから思うのだが、手話法の制定を求めることは聴覚障害者らのために望ましいことであるし、また、当然のことでもあろう。
※なお、「障害者の権利に関する条約」第2条には「『言語』とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう」とあり、「障害者基本法」第3条三号には「言語(手話を含む。)」という文言がある点をここで指摘しておきたい。

ところで、Wikipedia で「音声言語」の項を見ると、
ヨーロッパで成立した近代言語学では人類の言語の発生、並びに本質は音声言語であるとされる。これを「音声言語中心主義」という。
と書かれている。音声言語が「人類の言語の発生」だけでなく「(人類の言語の)本質」でもあると言っているところに注目していただきたい。似たような主張は昨今の英語教育改革論の中でも見かけるが、それは「話す」を4技能の中心ないし基礎と考えるにあたって、音声言語中心主義的発想が(意図的か否かはともかく)その根拠として使われているからかもしれない。

これは一見したところ正しいように見える主張ではある(何せ近代言語学で言われていることなのだ)が、この立場に立つと音声を媒介にしない表現(論理的には手話に限定されない)を言語であると認めることができなくなってしまう。本当にそれでよいのだろうか。

最初から結論的に言うならば、私見では
「言語」とは、人間が「規範に従って感性的な形式を運用することで自らの認識を表現し、同じ規範を裏返し(逆向き)に使うことで他者の表現を鑑賞する」という過程的構造を使用するときの、その<表現>(行為ではなく物質的に外化された成果物)のことである
とでも考えるべきものだ。(ここでは詳しい論証まではしないが、この考えが三浦つとむに多くを負うものであることだけは記しておきたい。)

さて、ここに登場する「感性的な形式」というのは、本来的には、当事者双方が操作および認識できるような形態であれば何でもよい。しかし、目・耳・口に大きな問題がない場合には、まず間違いなく「人の口から発せられた音声」がその人にとっての「感性的な形式」となるだろう。逆に、生まれつき耳が聞こえない人が手話使用者に囲まれて育った場合には、手話の形式が「感性的な形式」となる可能性が高い、ということでもある。

「言語」一般をこのように捉えれば、手話のようなものも言語であると容易に認めることができる。それがこの考え方の決定的なメリットと言えるかもしれない。その一方で、具体的なレベルで見ると、大半の人(より正確には目・耳・口に大きな問題がない人)にとって音声言語が母語となりやすいということも否定されない。つまり、現状との関係では、何の問題も発生しない。

言い方を変えるならば、ここには2階建ての構造があるということでもある。そこを誤って平屋(ひらや)的に理解すると「言語の本質は音声言語である」となってしまう。しかし、特に専門家たる者は、このような論理的ミスをしていてはならない。

もちろんこういう考え方の相違というのは、「大半の人」に対する教育ではほとんど問題にならないであろう。しかし、実践だけでなく理論にも関心がある人にとっては、決して無視すべきではない、大切な区別であると私は考える。ぜひ food for thought にしていただきたい。

posted by 物好鬼 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする