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2015年03月27日

通じればよい?

(Facebook に書いたもの)

まずは引用を一つ。

単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。 (種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』pp.187-188)

言葉を学ぶときに「通じればよい」とのみ考えるのは、相手の人間性を軽視するものだ。基本はあくまでも「通じなくてはならない」(通じることは十分条件ではなく必要条件)であり、そこから先の部分で学習者自身の人間性を問われることになるのだろう。これはもちろん母語についてはなおさらである。

人間性に関してここでもう一つ(かなり長いが)引用する。

本来、直接に必要がないと思える<学校教育>の本質は、人間を一時<生産>から解放することによって、その期間に<全人類の歴史性>、すなわち文化遺産を受継ぐ基盤を築かせるのに存する。これなくしては、その社会における<歴史性>をもった人間にはなれないからなのである。
(中略)
だから、現在の学校教育の欠陥を、単に<落ちこぼれ救済>のレベルで考えるなどはナンセンスであり、全体系を<人類の歴史性>の観点から把えなおすべきであり、それ以外ではないのである。現場での一例をあげるならば、教師は、数学を通して<人間>を教えるのであり、歴史を通して<人間>を教えるのであって、けっして、<数学>・<歴史>を個として教えるのではないという自覚が出発点なのである。
(中略)
人間が情熱燃やして学ぶすべてのことに<歴史性をふまえた人間論>が必ず要求されるべきなのである。
(中略)
人間にとっては、単なる<強さ>といえども、かかる歴史性をふまえて把えなければならないものであり、結果さえよければよいというのは、あまりにも人間の動物化であろう。もっといえば、<強さ>もそのなかに含まれる<人間性>の、<歴史性をふまえた人間性>の<強さ>でなければならず、別言すれば、文化遺産としての<技>を正統にひきつげる、そして<歴史性をもった技>をより<見事なる歴史性>へと転化できる技での<強さ>でなければならず、そうでなければ人間の価値は、<ゴリラ>以下となってしまうであろう。
(南郷継正『武道とは何か』pp.81-83)

何を学ぶにしても、その目的・対象・方法は人間論の中に位置づけて問い直す必要があるということだろう。30年前の私は上記引用のようなものを熱心に読んでいたものだが、ここ最近はどうもその「志」を忘れつつあったようだ。引用文を入力しながらそのことを強く感じた。

英語にしろ数学にしろ「使えてなんぼ」であることは事実なのだが、その側面に流されすぎて<ゴリラ的な強さ>ばかりを習得してしまうことのないように心掛けたい。「言うは易く」であることは知っている。しかし、学びは日々の積み重ねであり、その積み重ねこそが人間としての己を創るものだ。

posted by 物好鬼 at 06:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

「無断引用」という言い方

ほぼ1年前、毎日新聞・校閲グループが次のようなツイートをしている(2014年3月17日 19:10、論評のため全文引用させていただく)。

【直したい表現】「無断引用」→○「無断転載」 ◆「無断引用」は誤り。著作権法でいう「引用」は、同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること。「転載」は「引用」範囲を超えた行為で、許可を得るなどの手続きが必要。無許諾の複製による利用は「無断転載」「盗用」「不適切引用」

はたしてそうなのか。以下にの私の考えを記す。

まず、著作権法では「引用」という語は定義されてはいない。第32条1項において
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
(強調は筆者)
のように使われているだけだ。他の条文にも登場しない。

では、この「引用」という語は、@法32条に示された条件を満たしたものに限定して使うべきなのか、それともAそうでないものをも含んだ一般的な意味で使うべきなのか?

法解釈の最大のよりどころは条文であるから、ここであらためて条文を見てみよう。上記のとおり「引用」は3回登場する。

まず1つ目は、「公表された著作物は」というかたちで対象を限定し、「目的上正当な範囲内で」というかたちで目的を限定している。このようにして意味範囲を限定しているということは、この「引用」はもともとA(一般的)の考えに立ったものであると理解できる。

2つ目と3つ目はわかりにくいが、1つ目がA(一般的)である以上、2つ目と3つ目も同じくAであると判断するのが自然であろう。少なくとも、いずれについても@(限定的)であると断言するに足りる根拠はないと私には思われる。

さて、上記ツイートを見ると、「著作権法でいう『引用』は同法で認められた範囲・方法で著作物を無断で利用すること」とある。これは明確に@(限定的)の考えに立っている。
(この断定が何を根拠としたものなのかはよくわからない。書店に行って著作権法の専門書を何冊か見てみたが、それらしいものは見つからなかった。逆に、A(一般的)の立場で書かれたものはあったと記憶している。)

ところが、最後に登場する「不適切引用」はというと、「不適切」という限定が可能であるところからして、この「引用」がA(一般的)の考えに立つものであることは明らかだ。となると、一つのツイートの内部で「引用」の意味が矛盾していることになる。これはA(一般的)に統一すべきものであろう。

さて、ここでようやく本題。肝心の「無断引用」については、やはり適切な呼び方とは言えない。いくつかの条件を満たしてさえいれば無断で引用することが許される以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ(このように理由を明示することが大切である)。その意味からは、違法なものだけを示すときには、毎日新聞・校閲グループの言うように「盗用」「不適切引用」などの呼び方をするのがよいだろう。

ただし、「無断転載」には疑問が残る。というのは、転載もまたいくつかの状況(32条2項、39条1項、40条1項)においては無断での実施が許されている以上、「無断」という限定だけでは違法なものを指すのに不充分だからだ。そのため、私としては代案のリストからはずしておきたい。

posted by 物好鬼 at 19:37| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

掛け算の順序問題について

あくまでも思いつきの私見ではあるが、忘れないうちに記しておきたい。

参考:Wikipedia 記事 。足し算についても同様の議論があるので、ここではまとめて論じる。


まず基本的な事実として、掛け算にしろ足し算にしろ、具体的なあり方としてはさまざまなタイプのものがあり、中には2つのオペランド(演算の対象となる値や変数、「被演算子」)の順序ないし役割を区別すべき場合もある。そのこと自体は別に間違ってはいない。

しかし、2つのオペランドのどちらを先に置いても演算結果が同じになるということも事実であり、それゆえに「×」や「+」は可換な演算子(オペコード)として定義ないし理解されている。(「そのように定義されてはいない」という立場でも交換法則は認めるであろうし、「×」「+」という記号自体に順序を指示する部分がないことも否定はできないであろう。)

つまり、「×」「+」という演算子の機能は、オペランドの順序や役割の違いを捨象したものなのである。ゆえに、演算子について指導する際にそのような特殊性を強制的に含めてしまう(特殊性を一般性として扱う)ことは矛盾であり、論理的な指導とは言い難いであろう。

もちろん、冒頭にも書いたように、オペランドの順序ないし役割の区別を理解させたい場合はあるであろうし、そのこと自体に問題はない。しかし、そのような場合には、「×」「+」という演算子を使わずに自然言語で説明させるべきであろうし、それで足りるであろう。なお、この目的のために新たな演算子を導入することも不可能ではないが、小学生に対する教育内容としては適切とは言えまい。

ここで、記事中に「乗数を右に書くと、四則演算のすべてが 操作される数、操作する数 の順に統一でき合理的である」とある点に一言しておきたい。このようにすれば確かに「統一」はできる。しかしそれは、"足し算や掛け算のように交換法則が成り立つもの" と "引き算や割り算のように交換法則が成り立たないもの" との間にある違いを捨象してしまう点に問題がある。そもそも算数・数学の教育としては、生徒たちにその「違い」をも認識させる必要性があるはずである。もちろん小学生にいきなり理解させるのは難しいであろうが、その方向で教育を進める必要性はあろう。となれば、"四則演算全部の共通性" ばかりを強調しすぎず、"交換法則の有無による特殊性" をも取り上げるのが必須かつ妥当な方法と言えるであろう。

ここまでが、この問題に対する私の現時点での考えである。
 

リンク先の記事を読んで思うのは、賛成・反対どちらの主張も一面的なのではないかということだ。私もこれまでに政治や学問も含めたさまざまな問題について考えてきたが、その経験から「意見が2つの陣営に大きく分かれて対立しているテーマの場合、たいていはどちらの陣営にも見落としている側面ないし事実がある」と考えるようになっているのだが、それはこの「掛け算の順序問題」にも当てはまるように私には思われる。

端的に言うと、賛成論は「×」「+」という演算子が持つ「オペランドの順序・役割による違いを捨象する」という性質を無視して(つまり、特殊性にすぎないはずの「違い」にこだわって)おり、反対論は掛け算や足し算における具体的なあり方にさまざまなタイプのものがある(オペランドの順序・役割による違いを理解することも大切である)という点を無視している。もちろんこれらは両極端であり、実際には中間的な主張もいろいろあるであろう。それに対する私の考えは上に述べたとおりであり、演算子と自然言語とを併用することによって問題解決を図ろうとするものである。
 

以下、まったくの蛇足ではあるが、これと似たことが<分数>についても言えるので、ついでに紹介しておきたい。問題の論理構造としては掛け算の順序問題とは異なるものであるが、これ自体がとても興味深い論点であるので、あえて本記事内でとりあげることにする。
 

まず、通常の分数においては、たとえば 1/4 + 1/3 は 7/12 に等しいとされる。では、これに対して教え子の小学生が「でも、4打数1安打と3打数1安打を足したら7打数2安打ですよ」と反論してきたらどうするか、という問題がある。これは大学生が家庭教師で小学生に教える際などに悩まされることがあると聞いたことがある。

ここで大切なのは、この子の考え方(それなりにしっかりした根拠がある)を頭ごなしに否定するのではなく、それ自体の妥当性を肯定したうえで、「算数で習う分数というのはそれとは違ったパターンの場合に使うのだ」ということを具体例を挙げて示すこと、であろう。

参考のため、その「具体例」を1つ挙げておく。

「ここに夫婦と子供2人の4人家族がいます。お父さんは毎日ケーキを買って帰ります。そのケーキはいつも同じ種類・大きさのもので、それを家族で平等に分けて食べます。ただし、誰かが出掛けていたりして家にいないときは、家にいる人だけで分け、いない人のために残すようなことはしません。
 さて、昨日は家族全員が家にいたので4人で分けました。お父さんが食べたのは 1/4 個です。ところが今日はお母さんが実家に帰ってしまったので3人で分けました。お父さんが食べたのは 1/3 個です。さて、昨日と今日の分を合わせると、お父さんはケーキを何個食べたことになるでしょうか」

この場合には 1/4 + 1/3 = 7/12 という通常の分数計算が適用できることは容易に見て取れる。ではその基礎は何なのであろうかと考えてみると、それはどうやらすべての日に共通している「ケーキ1個」が一種の単位(=1)となっている点にあるようである。

それに対し、野球の「○打数○安打」の場合にはそのような単位が存在しない。そして、通常の分数計算は使えない(上に紹介した小学生の発言どおりになる)。もちろんこのような場合に対して通常の分数とは異なる演算子を導入することも可能ではあろうが、そのことにどのくらいの利益があるか私は知らない。

以上。

posted by 物好鬼 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする