まずは引用を一つ。
単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。
わたしはいつもそういう点に、人一倍注意している。私に相手の外人は「タネダはどうして完全にしゃべりたいのか?」とたずねたことがある。要するに、多少ブロークンでもかまわないではないか、というわけである。しかし、わたしはそれをしない。話しているうちに詰まると、わたしはだまってしまう。その方が身のためだからである。
そこでその外人は、他人にわたしを紹介するとき「この人は絶対にまちがわず、正しく話す人だよ」といつもつけ加えてくれるのである。
わたしは正しく話すものでありたいし、そうあるのが、その国語にたいする正しい態度だと信じている。
(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』pp.187-188)
言葉を学ぶときに「通じればよい」とのみ考えるのは、相手の人間性を軽視するものだ。基本はあくまでも「通じなくてはならない」(通じることは十分条件ではなく必要条件)であり、そこから先の部分で学習者自身の人間性を問われることになるのだろう。これはもちろん母語についてはなおさらである。
人間性に関してここでもう一つ(かなり長いが)引用する。
本来、直接に必要がないと思える<学校教育>の本質は、人間を一時<生産>から解放することによって、その期間に<全人類の歴史性>、すなわち文化遺産を受継ぐ基盤を築かせるのに存する。これなくしては、その社会における<歴史性>をもった人間にはなれないからなのである。
(中略)
だから、現在の学校教育の欠陥を、単に<落ちこぼれ救済>のレベルで考えるなどはナンセンスであり、全体系を<人類の歴史性>の観点から把えなおすべきであり、それ以外ではないのである。現場での一例をあげるならば、教師は、数学を通して<人間>を教えるのであり、歴史を通して<人間>を教えるのであって、けっして、<数学>・<歴史>を個として教えるのではないという自覚が出発点なのである。
(中略)
人間が情熱燃やして学ぶすべてのことに<歴史性をふまえた人間論>が必ず要求されるべきなのである。
(中略)
人間にとっては、単なる<強さ>といえども、かかる歴史性をふまえて把えなければならないものであり、結果さえよければよいというのは、あまりにも人間の動物化であろう。もっといえば、<強さ>もそのなかに含まれる<人間性>の、<歴史性をふまえた人間性>の<強さ>でなければならず、別言すれば、文化遺産としての<技>を正統にひきつげる、そして<歴史性をもった技>をより<見事なる歴史性>へと転化できる技での<強さ>でなければならず、そうでなければ人間の価値は、<ゴリラ>以下となってしまうであろう。
(南郷継正『武道とは何か』pp.81-83)
何を学ぶにしても、その目的・対象・方法は人間論の中に位置づけて問い直す必要があるということだろう。30年前の私は上記引用のようなものを熱心に読んでいたものだが、ここ最近はどうもその「志」を忘れつつあったようだ。引用文を入力しながらそのことを強く感じた。
英語にしろ数学にしろ「使えてなんぼ」であることは事実なのだが、その側面に流されすぎて<ゴリラ的な強さ>ばかりを習得してしまうことのないように心掛けたい。「言うは易く」であることは知っている。しかし、学びは日々の積み重ねであり、その積み重ねこそが人間としての己を創るものだ。