母語の習得と思考力の発展
表現とは一般的には認識の逆反映である以上、「ワケも分からずに……」というのを除けば、人間は自身の認識のレベルに応じてしか表現できないはずである。
であるから特に母語の場合は、元々ゼロに等しかった認識が複雑化していくのに並行して、言語表現も複雑化していくことになる(ただし機械的に対応しているわけではない)のであり、また、そうならざるをえないわけである。
(図1つ割愛)
参考までに述べておけば、日常生活における体の動きの習得について、「……これとても、初めはやはり力強くやることで創ったものではなく、幼児から成年になる過程で、つまり、力を入れようにも力がないレベルで形をとることから始まったものです」(南郷継正『武道への道』p.122)と言われているのであるが、これと同様のことが言語についても言えるのである。
そして、それなりの言語能力が身に付くと、今度は逆に(音声)言語表象を使って概念の運用が積極的に行われるようになる(二重ラセン状)。もちろん、他人の言語表現をとおして他人の思想について学ぶ(文化遺産などの習得)、ということも並行して行われることになる。
ところが、そのようにして発展した認識能力の持ち主が他の言語(規範)を習得しようとする場合、大いなるジレンマにぶつかることとなるのである。つまり、表現したいことはあるのに、それにふさわしい表現形式が(少なくとも即座には)思い浮かばない、というジレンマである。これは、母語習得の場合には、認識能力と表現能力とのギャップが小さい関係上あまり問題にならないのであるが、大人(中学生でも同様)の場合には、いわゆるブロークンへの道を進む最大のキッカケになるものである。
そこで、「外国語で考える」実力を付けるためにも、初めのうち(といっても発音の基礎は習得した上でのことである)は、内容面にはあまりとらわれすぎずに形式的な訓練をシッカリと行わなければならない。その意味では、外人とのオシャベリなどは、余程注意しない限りは危険なものである。
なおここで「外国語で考える」とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である。
ちなみに、後述の速読理論における「視読」の場合は、単語の文字表象から直接(音声表象を介さずに)概念構成し、更に追体験していくのであり、認識の論理構造は同じである。
オマケ:最後の段落に関しては、この卒論よりも少し早い1988年に「2重アクセスモデル」というものが門田修平氏によって発表されているらしい。
以上、何らかの参考になれば…。