※ギリシャ人の中には自分の名前をラテンアルファベット(ローマ字)に転写できない人もいた。もちろんそういう人たちは英語を喋るのもできなかった。一口に外国人といっても、英語力にはそれだけの開きがあるということ。
しかし、そういう状況に甘えてばかりいると、自分の英語の正確さが伸びなくなる危険性もある。だから私個人としては、
与えられた言葉を母国語とする人々が、それを読み書き話すことを基準にして、正しく理解でき、使えるようになることを今後も大切にしたいと気持ちを新たにしている。ちなみに私にとっての英語の基準は、教養あるアメリカ人のそれだ。
(種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』p.244)
もちろんこれは私個人の、それも「英(米)語」という言語に対する考え方でしかない。だから、他の人が皆そうすべきだと言うつもりはないし、同じ人でも言語によって違う対応をとることはあってよいと思う。たとえば、単に海外旅行を楽しみたいだけなら、正確さについてあまり難しく考える必要はないだろう。ただ、そのレベルでは本格的なビジネスには不向きだろうとも思う。
このあたりはその人の必要性次第ではある。しかし、いったん雑な、荒っぽいものを身に付けてしまうと、それを後からキッチリしたものに置き換えるのは大変であろうことは簡単に予想できる。となるとやはり、最初はあまりカジュアルすぎないものを丁寧に押さえておいた方が、後から無用な苦労をせずに済むのではないかと思う。たとえ学習開始時に「この言語はビジネスには使わない」と思っていても、ある程度話せるようになると気が変わるということは、大いにありうることだ。
それで思い出したが、最近よく耳にする「通じればいい」という考えは正しくないと私は考えている。本当は「通じればいい」ではなく「通じなくてはならない」のはずだ。つまり、通じることは十分条件ではなくて必要条件なのだ。そしてそれにどれだけ上乗せするか(できるか)が、その人の人間としてあるいは専門家としての評価に繋がるのだと思う。これは「言うは易く」ではあるが、だからこそ価値があるのだと考えたい。
最後に前掲書のpp.187-188よりもう一つ引用して終わりにする。
単語は何千何万と知りながら、ブロークンを平気でいうような人は、正しく用いる人から軽蔑されることはいうまでもない。ビジネスマンだったら、相手に悪印象を与え、人格を疑われることにもなりかねない。けだし、人間はことばにデリケートなニュアンスをふくませて、はじめて真の意思を通じあうこどができるものだからである。まさにまさに。
わたしはいつもそういう点に、人一倍注意している。私に相手の外人は「タネダはどうして完全にしゃべりたいのか?」とたずねたことがある。要するに、多少ブロークンでもかまわないではないか、というわけである。しかし、わたしはそれをしない。話しているうちに詰まると、わたしはだまってしまう。その方が身のためだからである。
そこでその外人は、他人にわたしを紹介するとき「この人は絶対にまちがわず、正しく話す人だよ」といつもつけ加えてくれるのである。
わたしは正しく話すものでありたいし、そうあるのが、その国語にたいする正しい態度だと信じている。