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2017年06月07日

医学生が弁護士を目指してはいかんのか?

今日は「医学部在学中に司法試験合格の東大生 資格取得への発言に番組でブーイング」という記事を読んで思ったことをツラツラと。

この種の尖った学生は批判されがちだが、批判する側は「自分は僻んでいるだけではないか」と自問することも必要だろう。批判するなら根拠を示すことが大事だ。

まず「いまいち将来像が明確になっていない」だが、これは何ら珍しいことではなく、一概に責められるべきことでもないと思う。私なんか今でも不明確なままだが、そこにはメリットもデメリットもあるというのが実際のところだ。まして若い学生となればなおさらだろう。

次に、この学生さんの「資格を持っておくと、発言に力があるじゃないですか」という発言。妙に反感を持たれてしまったようだが、それ自体としては間違ってはいない。そもそも発言に力を与えることができないのだとしたら何のための資格なのか?という話だ。もちろんここの「資格」というのは、専門性の高いものを想定している。その資格を保有している者の人格というのは(きわめて大事ではあるものの)また別の話だ。

以上の2点からだけでも、感情的な反発が強すぎることが見て取れる。

では、私はこの学生さんの主張に全面的に賛成なのかというと、必ずしもそうではない。こちらも2点指摘しておきたい。

まず、医学部というのはコストがかかるところなのに、国立だと他学部と同様の学費ですむ。そこにはつまり「他人のお金で勉強している」という側面があるわけだ。この点は、この学生さんのやり方に対する批判につながりうる。

また、特に東大理Vは90人という小さな枠だから、「彼のような人物が受かることによって、本来受かるべきだった人材が一人落とされた」ということもクローズアップされやすいだろう。

とは言え、いずれも禁止されていることではないから、「望ましくない」以上のことは言えないだろう。(私立大学の大きめの医学部だったらこのような問題自体がない、とは言えそうだが。)

結論は特にないのだが、この学生さんには「医療問題に強い法曹を目指します」くらいのことは言えるようになってほしいと思う。実際、医師で弁護士という人はこれまでにも存在しているのだ。将来についての見方はいろいろあるのだから、彼の今後に期待したい。

posted by 物好鬼 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月03日

スポーツが好きか嫌いかと言われても…

今日は「スポーツ嫌いダメ?国の目標波紋 『体育の恨み』影響も」という記事。

何事もそうだが、好きである方が取り組む際のストレスは少なくてすむし、上達にも有利だろう。そう考えると、スポーツ嫌いの比率を減らすのは望ましいことと言える。もちろん、すでにスポーツ嫌いになってしまっている子供たちの嗜好を変えるのはなかなか難しいだろうから、子供たちへの教育の仕方を工夫することで今後(←ここ重要)スポーツ嫌いに陥ってしまう子供を減らすという手段をとることによって全体的に(←ここも重要)スポーツ嫌いの比率を下げていく、というのが現実的だろう。

スポーツ庁の「第2期スポーツ基本計画」に関するページをざっと見たところでは、そのための具体的な方法は読み取れなかった。しかし同庁とて、まさか個々の中学生の嗜好を無理矢理変えようとしているわけではあるまい。それが困難であることは、「スポーツ」を「数学」などに置き換えてみれば、いわゆる「脳筋」な人たちにだってわかるはずだからだ。(買いかぶりすぎか?)

もっとも、「スポーツ嫌い」という括り方では議論が大雑把すぎるという点は指摘しておきたい。

私自身はというと、体育のうち器械体操(特にマット運動と跳び箱)と格技(相撲・柔道)は得意かつ「好き」だった(組み体操も得意だったが常に支える側だった)のに対し、水泳・陸上(特に長距離走)・球技(バレーのサーブ以外?)は平均以下だった。そして一番苦手だったのが踏み台昇降(笑)。苦手なもののすべてが明確に「嫌い」だったわけではないが、さりとて「好き」だったとも思えない。

しかし、あえてこのように分野別に見てみると、好き嫌いにもかなりの幅があるとわかるし、得手不得手の原因の大半が(授業外も含めた)積み重ねの多寡によるものだということも実感できる。例えば私が水泳や球技などを苦手としているのは、単に投下労働量が少なすぎたからでしかない(と自らを慰めることができる)わけだ。

こういう認識を持っていれば、新しい分野にチャレンジするときにも、あるいは苦手だった分野に再チャレンジするときにも、背中を押してくれる効果が多少はあるだろう。取り組んでいれば、もともとハッキリと「嫌い」だったものでも(「好き」まで行くのは難しいとしても)「取り組みの邪魔になるほど嫌いではない」という程度には好転する可能性はかなりあるはずだ。ときには「大好き」に豹変する可能性すらなくはない。

ついでだが、記事中にある「体を動かすこと自体が嫌いなわけじゃない。うまい人とやるから嫌いになる。レベル別に完全に分けてくれればいいのに」という意見には一理あると思う一方、一面的なものだとも思う。

というのは、自分よりもうまい人を身近な目標とすることは有益でありうる(私も何度か経験した)し、生徒をレベル別に分けたところで「○年生にもなってあのレベルにいるなんて」と言われたのでは状況はよくならない(ひょっとすると現状より悪くなる)からだ。

となると(少し話が飛んでいるかもしれないが)、
・個人差に対する寛容さ
・上達の可能性についての理解
といったことを文化の一部として根付かせることもまた大事なのではないか、と思われてくる。特に後者に関しては、学習者に「これならちょっと頑張ればうまくなれそうだぞ」と思ってもらえるような指導方法を工夫する必要があるし、それには競技性を強調しすぎないことも要求されるだろう。

※なお、以上のすべては勉強を含めた他の分野についても言えることだ。英語も数学も国語も…もちろん音楽や家庭科も、地図を読むことも人の話を聞くことも、だ。現時点で個別科目の指導をしている人は、苦手科目に再チャレンジすることでも新たな気付きが得られると思う。

(ところで、記事冒頭に "運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%" と書かれているが、他の科目はどうなんだろうか? 政策を打ち出す際に科目間のバランスを考慮することは極めて大切だと思うのだが。)

posted by 物好鬼 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月15日

小学校でプログラミング?

今日は「<学習指導要領>知識使う力、重視 異例の指導法言及」という記事。

英語教育の前倒しにプログラミングの必修化だそうだ。何でも早く始めればよいというものではあるまい。特にその方法が気になるところだ。

そもそも「知識を使いこなし、試行錯誤しながら課題を解決する力を学校教育で養う必要がある」と言うのであれば、まずは既存の科目(特に国語と算数か)を充実させるのが筋だろう。一応「読解力を育成するため小中の国語で語彙(ごい)指導などを拡充」とは書かれているが、英語やプログラミングを追加すれば必然的に既存の科目にもしわ寄せが来るだろう。これでは何だか、教材を取っ替え引っ替えして浅い学びに終始する一部の受験生みたいだ。その意味で今回の文科省の方針は、彼らが掲げる目的と矛盾しているようにすら私には思える。

もしプログラミングの学習が知的能力の向上に役立つと本当に考えているのであれば、まずは文科省のお偉いさん方自身が率先して学んではどうか? そういう経験なしに子供たちにだけ押し付けるようでは、日本の教育はなかなかよくならないだろう。

ところで、このプログラミングというものは、すべての子供たちが一律に学ぶ必要があるような分野ではないと私は考えている。文科省としてはかつての「読み書き算盤」のような効用を狙っているのかもしれないが、そうであればなおのこと、プログラミングそのものを急いでやらせる必要はない。むしろ、既存科目である国語や算数が活かせるのであれば、できるだけ活かした方がよい。大切なのは、プログラミングにしろ何にしろ、後からやりたくなったときにスムーズに学べるように、知的な基礎体力を身に付けさせることであるはずだ。

言うまでもなく、知識にも技能にも階層構造がある。だから、それを無視して「いろいろやらせればいろいろできるようになる」的にやらせるのでは、先生方が大変なのは(記事にも書かれているように)もちろんのこと、子供たちはもっと大変だ。特に子供たちに対しては、知識の詰め込みを否定しながらさらなる詰め込みをしようとしているとも言える。これらは英語についても言える(特に国語との連繋はもっと重視される必要がある)。

さて、記事を見ると「全教科で『主体的・対話的で深い学び』の視点による授業改善を図る」とも書かれている。要するにアクティブ・ラーニングを導入すると言っているわけだが、そこで大切なのは
  <対象←→認識(具体←→抽象)←→表現>
という過程的構造を踏まえることだろうと私は考えている。そういったポイントを見逃すと、お題目とは裏腹に表面的な学びに終わる可能性が高いと思うのだ。

ではどうするか? あくまでも試案だが、小学生に対してはたとえば
 ・身近な素材をもとにして算数の文章題を作成する
 ・その内容を書面や口頭で解説(可能なら議論も)する
といったことを丁寧にやらせてはどうか。この方が、安易に英語やプログラミングを早期導入するよりも、よほど多面的な基礎力養成に資するのではないか。

ところで、プログラミングについては、私はちょうど30年前に勉強を始めた。それはとても順調に進んだのだが、その原因は
 @高校までの数学をしっかりやっていた
 A解決したい具体的課題があった(それも易しいものから段階的に進めることができた)
の2点だったと現在では認識している。それらのおかげでプログラミングに必要なアタマの使い方が身についたのだと思う。
※このあたりについては「思考と言語」を参照されたい。

こういう「アタマの使い方」というのは個別のプログラミング言語の知識よりも普遍性が高く、賞味期限も長い(それでもオブジェクト指向は追加で学ぶ必要があったが)。そして、その「アタマの使い方」の基礎づくりになるものを小学生にやらせるとしたら、先に挙げた試案のように国語や算数を利用した方法をとるのがよいのではないかというのが、冒頭のリンク先記事を読んで私が考えたことだ。

以上、food for thought として書いてみた。

posted by 物好鬼 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

音声表象操作について私見を少々

私は91年はじめに提出した卒論で「なおここで『外国語で考える』とは、外国語の単語の(音声)表象を原則的には文法に則った形で頭の中に並べることによって概念の運用をすること、である」と記したのだが、以下はそれを敷衍したものでもある。拙い私見ではあるが、少しでも参考になれば幸いに思う。

我々はものを考えるとき、単語の音声表象を(原則的には文法に則った形で)頭の中に並べることによって概念の運用をすることが多い。そしてこの音声表象操作は、聞いたり話したりするときはもちろん、文章を書いたり読んだりするときにも使われている。その必要性は、複雑高度な素材で特に高くなろう。

このことは外国語の場合にも当てはまる。だからもしその言語を話す機会がゼロに近いとしても、それを理由に「その言語の音声表象操作能力は不要だ」とは言えないことになる。むしろこれを訓練しておかないと、暗号解読的な処理から抜け切れず、処理の正確さやスピードが改善しにくくなる可能性が高い。

音声表象操作について私は三浦つとむの理論を基礎にしているが、さらに種田輝豊が『20ヵ国語ペラペラ』で力説した「望まれる、片寄りのしない勉強方法──これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである」という考えからも大きな影響を受けている。

ところで、この音声表象操作はいわゆる「話す」と同じなのか? 答えは否であって、それには2面がある。まず、音声表象操作には音声化(広い意味での発音)の能力はほとんど要求されないという点が指摘できる。つまり、実際に話す際には、音声表象操作能力以外に音声化能力も要求されるということだ。

ならば、「話す=音声表象操作+音声化」なのか? これは「話す訓練をすれば足りるのか?」とも言い換えられるが、それは初級段階ではそのとおりであっても、その後は徐々に状況が変わる。なぜならば、音声表象操作というものは、複雑高度な文章を書いたり読んだりする際にも大いに活用されるからだ。

つまり、音声表象操作の対象となるものは「話す」文体のものに限られないのであり、かつて入試の長文問題に好んで使われたような硬い文体の英文を「語り」練習の素材として利用することも可能である。もちろん実用に供する際にはスピーチレベルに注意すべきだが、それは日本語についても言えることだ。

また、我々は母語を持った学習者だから、訳したり文法的に分析することで母語との緻密な対比を行うことは有用だ。それは「英文を直接理解する代わりに日本語に訳してそれを理解することですませる」といった意味ではなく、直接の処理を可能とするための補助として使用することが優先されるべきだろう。

さらに、学校では英語は国語や数学などと並んで主教科の一つとされているのだから、実用性という面だけでなく、知的関心などの面も重要と考えられる。英語が言語である以上、文法は当然として、発音や語源などについても充分に学ばせたい。ただし、他教科とのバランスや総量などは考慮する必要がある。

念のためだが、私はすべての思考に音声表象が必須だとまでは言っていない。三浦も「人間の思惟は必ずしも言語からみちびかれた感性的な手がかりによって行われるわけではない。画家はいわば絵画的に思惟するものである」と第二部p.425で記しており、ゆえに私も最初に「ことが多い」と書いている。

英検受験者としての蛇足)英作文においてはテーマに関する知識の有無が出来をかなり左右する。これは「実用」的ではあるが、英語力の測定という点からは大きなノイズだろう。改善策としては、「2次試験のように選択制にする」「論述に必要な背景情報を別途提示する」といった方法が考えられると思う。

(すべて140字)

※この程度の文章を書くにも3時間以上かかるのが私の現状。
※上記「第二部」とは三浦つとむ『認識と言語の理論』の第二部。その
  「第二章 言語表現の二重性」の「五 概念の要求する矛盾」や
  「第三章 言語表現の過程的構造(その一)」の「四 『内語』説と第二信号系理論」
 などを参照されたい。
※種田からの引用は改訂版(昭和48年)p.161より。

posted by 物好鬼 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月01日

今年は体も鍛えよう

立位体前屈についてググっていたら「息こらえ」に関する記述を見付けた。統計値はビックリするほど低い。何でも男の場合は33秒以上で「強健者」だと書かれているのだ。

若い頃に2分できたという記憶があるので軽い気持ちで試してみたところ、今回は2分10秒ちょっとだった。肺活量の大きさ(高校時代に5000ccを超えた)が今でも役立っているのだろうが、51歳で記録更新するとは思わなかった。気楽にやったのがよかったのか?

ちなみに肝心の立位体前屈はというと、起床直後でもない限り、床に手のひらがベッタリつく。それでも一昔前に比べると柔軟性は全体的に落ちているというのが自己評価だったりする。(立位体前屈は高校時代に32cm、偏差値80.6。)

一方、運動系の種目(特に心肺能力を要するもの)は昔から苦手。体育でも得意だったのは器械体操と格技だけだったし、それは今でも同じ。

今後は加齢による更なる衰えが予想されるから、体力や運動能力については柔軟性以上に積極的にケアしていきたいと思う。

posted by 物好鬼 at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月23日

文構造の整合性と再分析の役割

これはあくまでも個人的な印象にすぎないのだが、「英文法の歴史は再分析の歴史」という一面が少なからずあると思う。
この「再分析」というのは、語形や語順といった形式面はそのままに、そのつながり方(構造)についての認識を変更するもの、とここでは定義しておく。具体例を3つほど挙げてみる。

まず、a cup of tea 型の2つの解釈方法(@cup を後置修飾、Atea を前置修飾)。
次に、@「自動詞(+前置詞+目的語)」がA「他動詞+目的語」として把握し直されて受動態の生成を許すこと。
また、be動詞が持つ3つの用法(@存在を表す本動詞、Aコプラ、B助動詞)。

これらはいずれも@を基礎として順に派生したものだから、各構造把握の間には「互いに無関係ではないと同時に同一のままでもない」という特殊な関係が存在している。となれば、英文法の体系的把握を試みるにあたっては、このような<曖昧さ>があるということを前提として考えていく必要があるはずだ。

しかるに世に出ているさまざまな主張を見てみると、@ABといったものを「全部同じ」あるいは「全部別々」のように「形而上学的に」(エンゲルス)考えているものもある。しかし、私の経験からは、曖昧さを素直に認めてしまった方が、文法の体系的理解がスムーズに進む。これは一種の科学論的反省だ。

ついでにもう少し。
言語学者の中には「言語が持つさまざまな構造の間には(形式論理的に)整合的な関係が存在している(まだ見つかっていないだけ)」ということを暗黙の前提にしている人が少なくないように私には思える。しかしながら私は、実際にはたくさんの例外があるのではないかと考えている。

私がそう考えるようになったのは、法律学を少し学んだことがあるからだ。刑法にしろ民法にしろ、条文解釈において学説が割れているテーマ(「論点」と呼ばれる)の中には整合的な解釈が存在しえないような場合が少なくない。そのような場合は結局、立法的解決(法改正など)に頼るしかないことになる。

これと同様のことが自然言語についても言えると思うのだ。法典のように専門家が意図的に作成したものですら不合理な条項を含んでしまうのだから、日常生活の積み重ねの中で形成されてきた自然言語にさまざまな不合理が含まれていても何の不思議もない。青い鳥を探するのはほどほどに、と言えると思う。

(すべて140字)

posted by 物好鬼 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 英語論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

九九の暗記をやめると学力が上がる?

今回は「学力世界一のフィンランドでは『九九』を暗記せず、『電卓』を使う」という記事。

なかなか面白い記事ではある。中でも「ダイソンは、子どもたちを勉強好きにさせたいなら遊びの要素が不可欠と指摘する」という部分には大いに共感を覚える。(先日は私も30年ぶりに有機化学の大学入試予想問題に挑戦してみたが、知識は少ないながらもパズルのように楽しむことができた。)

しかし、素直に受け取れない部分もある。それは、冒頭にある「学力世界トップのフィンランド人学生が、九九を覚えない理由」という部分。実に興味深いし、記事のライターもそれを意識してタイトルに含めたのだと想像できる部分ではあるのだが…。

Wikipedia の「九九」によると、「英語圏では成年者も掛け算九九を完全に言えないことが多く、アメリカの大学生・大学院生の実に38%が九九を完全には覚えていないという調査もある」のだそうだ。日本とはかなり違うように思われるのだが、何が違うのか?

すぐに思い付くのは教育の内容・水準だろうが、実は九九そのものの覚えやすさの違いに原因がある可能性が大きいのではないかというのが私の考えだ(cf. 等時的拍音形式などの影響)。九九の有用性はたいていの日本人が同意すると思うが、そうであるならば、覚えやすさとのトレードオフは考慮される必要があるはずだ。

そこで Wikipedia の英語版フィンランド語版をはじめさまざまなサイト(とりあえず日本語のもの)を見てみたのだが、日本語以外では覚え方らしき項目を見つけることはできなかった。この「覚えやすさの違い」という点について記事内で配慮していないのは、私としては大いに不満だ。

つまるところ、フィンランドについては九九の暗記をやめて正解だったのだとしても、それゆえにも日本も、とはいかないのだ。もしかすると、「日本の場合は九九を覚えるのをやめさせても学力向上にはつながらない」、あるいはさらに「やめさせない方がよい」という可能性すらあるのだ。これでは、せっかくの(煽るような?)記事タイトルも説得力を持たないものになってしまう。

蛇足ながら、この記事の中で私の興味を最も引いたのは「フィンランドでは、就学年齢が他国と比べて1年遅い」という部分だった。これは案外大きなポイントかもしれないと感じた。
(ただし、この点については、子供たちが社会性を身に付けるのも遅くなってしまうというデメリットがある。となると、就学年齢は現状のままとして、一部の教科について習熟度別の教育を導入するといった方法をとるのが現実的な線なのかもしれない。)

posted by 物好鬼 at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

Sentence Diagram と英文構造図

今日は Facebook 上で「A Picture Of Language: The Fading Art Of Diagramming Sentences」という記事を紹介されたので、関連して少し書いてみたい。
 
まず、こういう図式化は構造理解のための(そしてその理解力を高めるための)手段であるから、これ自体が読み・書き・聞き・話す能力の向上にそれほど寄与しないとしても、まあ、それは当然のことであろう。

おそらくであるが、この Sentence Diagram という方法は、すでに直感的・自然成長的なかたちで英語を習得しているネイティブスピーカーが自らの英語能力について反省するための道具としては、少なくとも普及当初においてはうまく機能していたのだと思う。逆に言うと、そういう前提を満たさない人には役立ちにくいだろうとも想像できる。

「そういう前提を満たさない人」の代表格は我々のように英語を外国語として学習している者であるが、そういった人たちにとって<理解>の後に必要なのは、その理解を実用に結びつけるための練習であるはずだ。なのにそれがうまくいっていないのだとすれば、その原因を探る必要がある。
 
私の考えでは、この Sentence Diagram という方法には、

 ・なかなか緻密である

という長所がある一方で

 ・図式化の作業が面倒臭い
 ・構造がわかりにくい

という短所がある。

最後の「構造がわかりにくい」には複数の側面があるが、実際の言語は語順どおりに処理されていくものであることを考えると、「原文の語順が維持されていない」という点は致命的だろう。

そしてそれゆえにこの種の図式から実用訓練への接続は困難なのであろう、と私は考えている。
 
…というわけで、リンク先の例文を私の方法で図式化したものを提示しておきたい(右側は Sentence Diagram)。

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自画自賛ではあるが、私の構造図は

 @各要素をタテヨコに整然と配置してあるので、肝心の文構造がわかりやすい
  (ある程度慣れれば書かずにソラで処理できるようにもなる)

 A原文の語順が維持されているので、読み・書き・聞き・話すことにもつなげやすい

という特長を持っていることが見て取れると思う。

※アメリカの教育関係者さんたちにしても、既存の Sentence Diagram を批判的に扱うのであれば、安直に投げ捨てるのではなく、その方法のどこに問題があるのかを分析したうえで、その問題を解消する方法を探るべきだったのではないだろうか。

posted by 物好鬼 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月21日

学校の勉強は仕事に役立ってないらしい

今回は「あの努力はいったい……男性が思う『仕事役立たない教科』ランキング」という記事。(タイトルにタイポがある気がするが…。)

記事によると、「学生時代(小中高大)に習った教科で今の仕事にまったく役に立っていないと思うものは?」という質問に対する回答が

 第1位   数学……9.9%
 同率第1位 英語……9.9%
 第3位   理科……9.4%
 第4位   歴史……7.9%
 第5位   家庭科…6.9%

なのだという。(アンケート対象は男だけ。)

私に言わせると、「意外に少ないなあ」といったところ。

これは逆に考えてみればわかりやすい。そもそも、数学も英語も理科も(以下略)ぜーんぶ必要とされるような職場なんて、滅多にないはずだ。
(ちなみに私の職場では、ごくまれに英文メールを書かされるくらい。あとは四則演算。理科の知識は機会があれば使うが、使えなくても仕事自体はできる。)

だから、どの科目についても「そんなの使わないよ」という人はもっと多くいても不思議はない。なのに数学や英語でさえ「まったく役に立っていない」が1割を切っているのなら、何の問題もないのではないか?
(ところでこのアンケート、複数回答は可能だったのかしらん?)

さて、数学的な領域について言うと、私の職場で必要とされるのは四則演算程度だが、だからと言ってそれ以上の勉強が無意味だったとは私は思っていない。

もし「実社会では四則演算以外はほとんど必要ないから」という理由で四則演算しか学ばないとしたら、その人にとってはその「四則演算」が数学的能力の上限ということになってしまう。しかし、「微分積分も行列もできるくらいにやっていればこそ、四則演算は苦にならなくなる」という面があることは否定できないのではないか。問題解決に必要なものは単純な知識だけではないから、本人も気付いてない部分が役に立っていることは大いにありうる。それに、私の周囲を見る限り、数学が苦手な人は四則演算の活用すらあまり上手ではないという印象がある。

これを少し皮肉っぽく言い直すなら、直接的には不要と思われるレベルのことを学んでおくことが実は必要(少なくとも有用)なのだということだ。(これは語学の場合で言うと、話す能力と読む能力との関係に似ている。)

なお、記事の末尾にある

「学生時代に何日も徹夜して覚えたことが、社会で全く意味をなさない……なんて、あの当時は思いもよらなかったですよね。ただ覚えたことはどこかで自分の役に立ち、自分の基礎を作ってくれているはず。そう信じておくしかない!?」

という「まとめ」はあまりにシンプルすぎると思う。学生時代にある程度以上まじめに勉強した人なら、後半の「どこかで自分の役に立ち云々」に関しても具体的なことがいろいろ書けるのではないだろうか。ということは…(笑)。

蛇足)20年近く前のことだが、理工系の大学教授が書いた文章を仕事で扱ったときには、内容の正確さをチェックするために化学命名法や SI 単位系について勉強したことがあった。誰かに頼まれたわけではなく自発的にやったのだが、こういうことがスムーズにできたのは、高校・浪人時代に物理と化学を勉強していたおかげ。

なお、関連記事として、「学校の勉強は役に立たない?」がある。

posted by 物好鬼 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月12日

戯れ言 〜LR対策はスイーツに似て〜

ある団体が町中で健康そうな人ばかり1000人にアンケートをとった。「健康そうな」だから、このブログの主みたいなタイプはほとんどが無視された。

アンケートの内容というのは、その人たちの身長と体重。その団体の担当者は、集めた数値全部を1枚のグラフ用紙にプロットした。すると、身長と体重の間にそれなりの相関関係があることが見えてきた。

そこでこの団体は、「身長がわかればおよその体重がわかりますし、体重がわかればおよその身長がわかります」という能書きとともに、このグラフを公表した。

さて、ここに小柄な男がいる。仮にA君と呼ぶことにする。かねてから背が高くなりたいと思っていたA君は、このグラフを見ながら考えた。

「今のオレは160cmで55kg。だいたい線上に乗っているな。で、このグラフによると、180cmの人は75kgくらいなのか。っつーことは、20kg増やせばいいんだな!」

それからのA君は連日連夜大量のスイーツを食べた。体重は3日に1kgのペースで増えていった。あまりに順調すぎて、体重計に乗るのがこの上なく楽しかった。

そして2ヵ月が経過。体重は20kg増えた。A君は自身に向かって力強く語りかけた。

「よ〜し、よくやったぞ! これで目標の体重だ。じゃあ、身長を測ってみようか」

(測る)

「あれれ、変わってないゾー! あのグラフは嘘なのか? 許せん!」



閑話休題。

TOEIC 公式サイトの「よくある質問 TOEICテストについて」というページには
…TOEICテストの開発にあたったETSでは、TOEICテスト実施にあたって予めListeningとSpeaking、ReadingとWritingとの相関関係について検証し、それぞれが非常に高い相関関係を示すことから、ListeningとReadingのみの試験からSpeakingとWriting能力を含めた英語能力が測定できることを統計的に証明しています。そのため、TOEICテストはListeningとReadingのみで構成されています。
と(今でも)書かれているのだが、そのすぐ後には
しかしながら、英語の利用が職場や日常生活の場でますます拡大していること、それに伴いSpeakingとWritingという能力を直接的に測定したいという要望に応じて、TOEIC(R)スピーキングテスト/ライティングテストがスタートしました。
と書き加えられている。

先のたとえ話から考えると、LRプロパーな対策をする受験生が増えたことが原因でSWとの間の相関が弱くなってしまったのだろうと想像できる。(あくまでも想像だが…。)

さて、ここで種田輝豊『20ヵ国語ペラペラ』(初版1969、改訂版1973)を開いてみる。改訂版のp.161には次のような金言が書かれている。
 望まれる、片寄りのしない勉強方法──これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。
 ヒヤリングには、世間でさわがれているほど力を入れる必要はない。
現在は当時よりも音声機器が発達している関係で「聴解力」が「読解力」に準ずる地位に来ているものの、基本的な考え方はまったく変わらないと言える。何という先見の明だろうか! 以上を端的にまとめるならば(最終的には各人の目標次第だが)、

  スイーツの食べすぎには要注意!

ということになる(違)。

posted by 物好鬼 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする