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2023年11月17日

実験

実験。久しぶりなので、というより、長期間放置していたせいで広告が表示されるようになっているので、何とかしたくて投稿する。
posted by 物好鬼 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習記録、日記、雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月15日

英語の疑問文・否定文の作り方はなぜ3種類あるのか

文法書で疑問文の項目を見ると
 @BE+S?
 ADO(ES)+S+V?
 B助動詞+S+V?
の順に説かれているが、歴史的には
 @V+S?(BEは残存、他の動詞はほぼ廃用)
 A助動詞+S+V?
 BDO(ES)+S+V?(@の廃用分はここへ)
であり、この方が疑問文の作り方も合理的に説明しやすい。

@では、
 ・肯定平叙文:Sの次にVがある
 ・否定平叙文:Vの直後に not を置く
 ・肯定疑問文:VがSの前に移動する
というルールがある。
Aでは、Sの次にはVではなく助動詞が来るが、同様に操作する。
Bは、助動詞が存在しない文について、DO(ES) を入れることで形式をAに合わせている。

Bについては、(a) 肯定平叙文では今でも DO(ES) は用いず、用いた場合は強調になる、(b) BE の場合は否定平叙文を I don't be ... のようにはしないのに、否定命令文は Don't be ... とする、といった例外がある。
こういった不統一は英語学習者を混乱させる元凶となっている(学習者に責任はない)。

蛇足)
助動詞の成立については、例えば can であれば
・can は本来「〜する方法を知っている」という意味の他動詞だった
・その後ろにある原形動詞はその動作を表す名詞だった(文型は SVO)
・それゆえ否定文や疑問文は上記のような形式になった
と説明できるが、中学生には難しすぎるかもしれない。

蛇足2)
can が本動詞として用いられた最後の例は1875年とのことなので、歴史的に見れば最近のことだ。

蛇足3)
古英語における否定文の作り方については、
 S+V+否定辞
の前に
 S+否定辞+V
の時代があったが、煩雑と考えて説明からは省いた。他にもいくつか簡略化した。他のミスは多謝!

posted by 物好鬼 at 23:28| Comment(0) | 学習記録、日記、雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

4技能、特に「話す」の扱い・アンケート結果

先日、Twitter 上で

【質問】
英語の4技能に関して、あなたの立場はどれに一番近いですか?
いずれでもない場合はリプで。
リツイート歓迎!

※選択肢中の「A」「B」「C」はそれぞれ以下の意味の略記
 A:4技能の授業
 B:大学入試センターなどが実施する4技能入試
 C:外部試験を利用した4技能入試

36% ABCすべてに反対 or 消極的
34% Aには賛成だが、BCには反対 or 消極的
12% ABには賛成だが、Cには反対 or 消極的
18% ABCすべてに賛成

67票・最終結果

というアンケートを試してみた。(選択肢の左にあるのが結果。)

以下はその結果を踏まえての私の追記。

アンケート期間が無事に終了した(といっても24時間だが)。
投票は全67票で、スピーキング試験に反対の人が合計7割となった。
もっとも、これは投票してくれた人数が少ないし、人的な偏り(というのかな)もかなりあるだろうから、あくまでも参考程度でしかない。選択肢の書き方にも満足していない。
この問題に関する私の現時点での基本的な考え方は

「4技能、特に『話す』の位置付け」
http://dokomade.seesaa.net/article/456756115.html

に書いたのでご覧いただきたい。そこに書いた意味での「話す」であれば、授業にはぜひ入れるべきだと私は思っている。(人によって語義が異なることが議論の障害の一つになっている。)
これは数学などの記述式に似ている。数学などが苦手な人の場合、その基礎的な部分をキッチリと記述式で解答できるようにした方がよいはずだ。なのに「苦手だからマークシート方式で」と考えて逃げてしまうと、いつまでたっても基礎力が付かない。同様のことが英語の「書く」「話す」にも言えると思う。
ここで注意すべきなのは、この場合の「書く」「話す」や記述式は実戦的なテスト対策としてよりも基礎の徹底を目的としたものだということだ。つまり、解く対象としては、教科書の例題や練習問題レベルのものが中心となる。英語ならば例文などだろうか。処理には正確さとともにスムーズさも要求される。
では入試でのスピーキングはどうか。これは現在進められているような時期・態勢での実施となると、@大半の外部試験は入試用に設計されていない、A複数の試験を併用すると公平性が保てない、Bさりとて種類を絞ると(急増するであろう)受験者に資源が追いつかない可能性がある、といった懸念がある。
ならば二次試験ならどうか? 東大は技術的な理由(だけ)でできないと主張している。ごく短期間で1万人近い受験生を捌かなくてはならないのだから、私はこの考えを支持する。もしやるとすれば東外大のように少人数からとなるだろうが、東大には6つの科類しかないから、受験生の分け方が難しそうだ。
もっともこの点については「早い時期に実施すれば採点できるはずだ」という考え方もあるし、過去にそんな話も出ていた。しかし、本来ならば高3の冬まで勉強できるはずのところを英語だけは夏や秋までに片付けなくてはならないとなると、英語がかなり得意な受験生でもないかぎり、負担が増えてしまう。
その意味からは、二次試験においてある程度のボリュームとレベルを持った英作文を短時間で解かせるのが、現状としてベストの方法かもしれない。ただしそれだけでは音声面が確認できないから、適当なレベルの文章を初見で音読させるという試験を追加してはどうか。これなら採点時間は比較的短くてすむ。
ここまでが現時点での私の考えだが、短時間で急いで書いたものなので、論理ミスなどもありうると思う(ちなみにこのリプも含め、すべて字数いっぱいで記入している)。なお、このスレで議論するつもりはないので、あくまでも参考程度に。…というわけで、今日も働いた私は風呂って寝る。明日も忙しい。

posted by 物好鬼 at 08:41| Comment(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月08日

4技能、特に「話す」の位置付け

言語を使うときには頭の中にある特殊なルールが使われる。それは「言語規範」と呼ばれ、個々人の内部では言語的な演算処理能力の一部を成している。そしてこの言語規範について反省・抽出・整理したものが、「文法」と呼ばれるものだ。ゆえに、文法と言語規範とは、概念上は明確に区別する必要がある。

上の意味での文法は、どんなに正確無比に理解・記憶していても、それだけではいわゆる宣言的知識の域を出ない。言語的な演算処理能力の一部になっていないからだ。この段階では実際の言語活動においてスムーズに活用することはできないから、この限りにおいては「文法は役立たない」と言えなくもない。

では、本当に文法は役立たないのか? もちろんそうではない。容易に想像できるように、文法と言語規範の間には「学習者が外から学ぶのは文法であるが、習得すべきものは言語規範であり、文法はそのための手段である」という関係がある。ただし、手段としての文法が必須と言えるかどうかは別の問題だ。

たとえば母語の場合、乳幼児の認識能力の関係で文法という手段はほとんど使えない。しかし、彼らは自身の認識能力の成長に合わせて徐々に言語を複雑化しつつ吸収することができるため、文法の助けを借りずにその言語をかなりの程度まで習得できる。もちろん、この場合でも周囲の人との交流は不可欠だ。

また、大人の場合でも、用意周到な方法をとることによって文法なしに学ばせることは可能であるし、既得語(たいていは母語)による文法的知識に振り回されずにすむ側面はメリットにもなりうる。ただし、母語の場合と同様、ある程度高度な段階に達したら、文法的知識の助けを借りることも必要になろう。

さて、仮に文法を手段として用いる場合、そこから先に進む方法、つまり「文法知識の言語規範化」はどのようにしてなされるか? それは具体的な言語使用を通した訓練をとおしてであると言えようが、この中には文法ドリルのようなものも含まれうるし、具体的場面を利用しての実戦的な練習も含まれうる。

そういった訓練においては、演算の正確さはもとより、ある程度のスムーズさも要求される。また、話す場合の音声(発音・アクセントなど)や書く場合の文字についても、その形式が奔放すぎないようにコントロールする必要がある。文字であれば書きながら考える時間も多少はあるが、話すときには難しい。

となると、いわゆる4技能のうち「話す」には特殊な難しさがあり、訓練の負担も大きくなろう。しかし、「話す」ことができるようになれば相応の音声言語表象(いわゆる内的言語)が扱えるようになるし、それは単に「話す」ときだけでなく、「書く」「読む」「聞く」ときにも活用されるべきものだろう。

つまり、「話す」には負担があるものの、あえて力を入れることによって他の3技能にも好影響が及ぶことが期待できる。ならば、訓練における「話す」は文法や語彙や音声なども含めた口頭英作文と捉えるべきだろう。たしかに雑な会話ばかりでは悪い癖が身に付きやすいから、口答英作文は有意義と言える。

もちろん、外国語学習が「話す」の訓練だけで足りるわけでなく、不足分は適宜補う必要がある。文字言語の場合なら、複雑な文構造や高度な語彙、それから(英語の場合は見過ごされがちだが)文字そのものについての補充が必要だ。内容理解の徹底や母語との相互移行の訓練には、和訳や英訳も活用したい。

以上、とりとめもなく書いてきたが、これが4技能化に対する私の現在の考え方だ。ただし、公教育(特に初等中等教育)での扱いには時間や指導者を含めた資源、そして他教科とのバランスという問題があるし、入試には受験機会の平等や採点の公平性などを考慮する必要があるから、そこは機会を改めたい。

最後に。「話す」の位置付けや小学校英語、外部試験利用などについては英語教育界にもさまざまな考え方があるが、残念ながら基本的な概念が陣営間で共有されていない場面が多々あり、それが無意味な摩擦の一因になっているとも感じている。この小文でその障害を少しでも軽減できれば、との思いもある。

(すべて140字)

posted by 物好鬼 at 19:24| Comment(0) | 語学の本質 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月04日

道に迷っている外国人を見掛けたら

町に出たりしたときに、道に迷っているとおぼしき外国人を見掛けることがあると思う。そのようなとき、私はできるだけ声を掛けるようにしている。では、その第一声は何がよいのか? ふと思い立って Facebook に投稿してみたところ、30人くらいからコメントが得られた。

まず、私の質問。
I have a question for native speakers of English.

Q. When I find foreigners who seem to be lost on the street, I usually speak to them in English. Then, what do you think is the best phrase to start with?

ex.) May I help you? / Can I help you? / Do you need any help? / Any problem? / I hope I can help you. / Might I be of any help to you? / Are you lost??? etc.

(Clarify where you are from.)

TIA


以下は皆からのコメント。ただし、氏名はイニシャルのみとし、カッコ内に出身地や性別などを記した。


A.K(カナダ・ノバスコシア州、男)
最初に "Hello." と言うのがよい。その次はおそらく "May I help you?" など。


L.A(米国・フロリダ州、男)
私もそう思う。いつも "Hello." から始める。


K.H(ニュージーランド、男)
"Hello, how can I help you? Are you lost?"


D.H(ニュージーランド、男)
私なら、"Hi, do you need some help?"。


T.H.D(カナダ・ブリティッシュコロンビア州、男)
"Need any help?" か "Are you lost?"。
あなたが挙げている例はすべてよく、とても親切で丁寧。


M.D(ベルギー・ブリュッセル、男、母語はフランス語らしいが8ヵ国語を操る模様)
"Hello, can I be of any assistance?"


C.M(オーストラリア・ニューサウスウェールズ州、男)
私のオススメは "Hi, do you need any help?"。


P.S(カナダ・ブリティッシュコロンビア州、日本在住、男)
"Penny for your thoughts."


D.G(米国・ペンシルヴァニア州、日本在住、男)
"Hi, can I help you (find something)?" や "Do you need help (finding something)?" が文句なく適切だと思う。

"Might I be of any help to you?" はとてもよいが、私の耳にはフォーマルすぎると聞こえる。

自分が迷子であることは認めたくない人が大半だろうから、私ならその点には触れない。状況次第だけど。どう見ても迷っているようにしか思えない状況でならおそらく問題ない。その人たちが急いでいたり精神的に不安定であると思われるときは、単刀直入に "Hi, where are you trying to go?" も有効だと思う。

(※リストのうち最後の2つはジョークのつもりで入れたもの ──大橋)


S.A(オーストラリア・ニューサウスウェールズ州、男)
オーストラリア人はとてもカジュアルなので、1〜2語程度にとどめる。たとえば、"Lost?"(眉を上げたりしながら)や "Need help?"(同前)とか。


K.T(米国・インディアナ州、男)
特に提案はないが、あなたの投稿は他人に奉仕しようとする純正な関わりを示すもの(your posts show a genuine commitment to service to others)だ。いつかお会いしたい。


J.R(米国・マサチューセッツ州、男)
最初の3つ(May I help you? / Can I help you? / Do you need any help?)が現在の用法としては完璧。

相手の人が道に迷っているように見えるのであれば、"You look lost. Can I help you?" と言うのもよい。あるいはときにはシンプルに "You look lost." も効くし、相手から行き方を質問してくると思う。


J.F(英国、女)
"Do you need any help" という言い方が大半の場合をカバーするが、イギリス英語では上のリストにあるすべての表現は問題なし。"Hello" や "Excuse me (sir, madam, miss)" は話し始めの言葉として常によい。


G.S(米国・ペンシルヴァニア州、男)
私なら最初の3つのどれでも。これらが最もよく使われる。


W.D(カナダ、男)
"Do you need any help?"


M.M(米国・カリフォルニア州出身、男)
"I hope I can help you." は形式的すぎて妙な感じがするが、他はすべてよい。


R.W(米国、男、日本在住経験あり)
"Have you eaten today?"


J.H(米国・テキサス州、男)
"Hello." から始めるのがよいと思う。そうすれば、それ以上何も尋ねなくても、相手の方から率直に質問してくるだろう。質問してこなければ "Are you needing help with something?" と続けることで相手の必要としているものがわかる。


E.D(カナダ→米国・ネバダ州、女)
私自身、初めての土地で道に迷ったときにこういう経験をしたことがある。ホテルとかを見つけるのに助けが必要かという質問をしてもらえるといつも感謝する。普通はリストの最初の3つ。道に迷った旅行者を助けようとする人は多い。


I.E(米国、男)
"Hi, need a hand with anything?"


D.L(米国・カリフォルニア州、男)
私なら "Hello, do you need any help?"。


N.M.J(英国、男)
正直なところ、もし私が外国で道に迷っているときに誰かから英語で話しかけられたら、最初の言葉が何であろうと私は嬉しい。
"Do you need any help?" や "Can I help you?" はどちらも非常によい表現。質問する際には "Hello." や "Excuse me." から始めるのかよい。


F.L(スイス→米国・ネバダ州、男)
"Hello, may I help you?" が適切。


D.D(米国・フロリダ州、男)
私なら "Excuse me, are you lost?"。


T.H(米国・カリフォルニア州、日本在住、男)
個人的には "Did you need any help?" が好みに合う。3つ目の例(Do you need any help?)とは少し違うが、より丁寧な言い方。


K.Z(米国、男)
どれでもよいと個人的には思う。私なら "Hey, you need any/some help?"。


J.M(米国・カリフォルニア州、男)
"Are you having difficulty with directions?"
"You appear to be lost."
"Do you need some help?"


G.R(南アフリカ・ヨハネスブルク、男)
"Hi, there... Might I be of any help to you?"


G.R(米国・コネチカット州、男)
"Hi, you lost?" か "Hi, need any help?"。


M.L(米国・フロリダ州、男)
"Excuse me, do you need directions?"


M.F(英国・ロンドン、男)
皆と同様、"Do you need help?" と言う。


ついでなので、「迷っているように見える外国人」の英訳として

 @ foreigners who look lost
 A foreigners who seem to be lost
 B foreigners who seem lost

のうちどれがよいかも尋ねてみた。


D.H(米国・マサチューセッツ州、男)
A(foreigners who seem to be lost)。

K.Z(米国・ニューヨーク州、男)
A(foreigners who seem to be lost)がいちばん適切。
B(foreigners who seem lost)はもっと使われる。
@(foreigners who look lost)がいちばんよくないが、いちばんよく使われる。

J.F(英国、女)
"Seeming to be lost"、"appearing to be lost"、"looking as though they are lost" は同じ状況を表す違う言い方。

posted by 物好鬼 at 17:02| Comment(0) | その他、雑 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月16日

学びの対象と向き合うことの重要性

学校での勉強ではいろいろと面倒臭いものに出会う。英語の文法などはその最たるものだろう。英語で最初に出会うのは人称代名詞や be 動詞の使い方、それから三単現のsといったところか。学んでいる生徒が不満を持っても不思議はないし、それに対して指導者が阿る気持ちも理解はできる。しかし…。

受験生には英語の歴史の話、特に「昔は語尾変化とかが今よりずっと複雑だったんだぞ」という話をするとよいと思う。その際には巨大で複雑な変化表などを見せてあげれば効果抜群だろう。そして「だったら、三単現のsくらいでくじけてちゃダメですね」という前向きな反応をしてもらえればしめたものだ。

また、言葉というのは単にコミュニケーションの道具であるわけでなく、特に母語話者にとっては生まれてからの全認識と表裏一体だと言ってもよいくらいに重いものなのだから、その言語が持っているルールに不満を言うのは失礼なこととも考えられる。となれば、肯定的にとらえるための工夫は大切だろう。

さらに第二外国語などのことも考えておきたい。大学に入学した後に活用変化のある言語と無縁でいつづけることは難しいのだから、少しでも肯定的に見ておくのがよい。英語は活用変化についてはかなり単純化された言語ではあるが、そうであればこそ、三単現などは予行演習としても役立てることができる。

また、これは語学に限ったことではなく、漢字や公式・定理・法則の類、あるいは理科・社会に出てくる用語などについても似たことが言える。不合理な制度を変えるために努力するのはよいのだが、変えられない部分に不満を持ちすぎると学びの足枷にもなりうるのだから、現実と向き合った方が賢明だろう。

では、その次に来るのは何か? 英語を話す能力なら実際に話してみないと始まらないから、「間違ってもよいから英語を口にすべし」というのは正しい。しかし、いつまでも間違ったままでよいはずはない。数学ほど厳格ではなくてもだ。結局、弱点から目を背けずに攻略方法を授けることが次の仕事になる。

蛇足)英語は格変化のほとんどを失って単純化したわけだが、それはその格変化によって表現されていたものが見えにくくなったということでもある。格を示すために現在の英語が採用している方法は主に2つあり、それは文型(格関係のセットを示す)と前置詞だ。三単現のsはシーラカンスのようなものか。

結局のところ、正確な意思疎通のためには、それに見合ったルールが要求されるわけだ。これは身近な機械にも似ている。使い方を正確に知っていればこそそれを自由に使いこなせるからだ。そういえば、エンゲルスは「自由」に関するヘーゲルの考えを「自由とは必然性の洞察である」と要約してみせている。

(いずれも140字)

posted by 物好鬼 at 06:27| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月02日

試験対策に限定されない学びを!

早朝からつらつらと考えたこと。
 
受験生が、目の前にある一番易しい試験(大学受験生ならセンター試験)を基準にして「この試験に出ないからやらない」と考えてしまうのは、「学び」の姿勢としては消極的すぎるのではないか。試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではないはずだからだ。

もちろん、別記したように、試験に出る部分を優先すること自体は間違ってはいないのだが、試験に出ないからやらないという発想には危険な面もある。試験に出ない項目の中にも重要な内容が含まれている可能性がそれなりにあるからだ。例えば、項目間のつながりを理解するのに役立つような内容だ。もちろん、「試験には出なくても実世界では必要」という項目もあるだろう。だから、試験のためにいわゆる「選択と集中」をするにしても、まずは学習対象を少し広めに見渡したうえで実行するべきだろうと思うのだ。
別記:「試験に出ることはしっかり勉強する」はいいが、「試験に出ないことは勉強しない」という考え方には注意が必要だ。項目間のつながりが見えにくくなる可能性があるからだ。宅浪中の私みたいに関係の薄い分野までやる必要はないが、視野を狭めすぎない心掛けは持ってほしい。あとは時間との兼ね合いだ。

それに、これもまた別記したことであるが、何事も少し余分と思えるくらいに学んでおいた方が、視野の広さという面においても、能力の深さという面においても、余裕を持つことが可能になるはずだ。これは人生において大きな武器になりうるものであり、その意味からも学びに対する積極的姿勢は若いときから育んでおきたい。
別記:5時起きに慣れた人には6時起きは簡単だし、数Vの勉強を頑張った人には数Uの大半は簡単だ。同様のことがいろんな分野で言える。もし「日常生活には四則演算で足りる」と考えて四則演算しか学ばなかったら、その人は自分の能力ギリギリで生活することになる。プラスアルファの学びは余裕の源なのだ。

もっとも、受験生本人が消極的態度をとってしまうことにはしかたない部分もある。特にそれが不得意科目である場合にはそうだろう(これは私自身も社会科で経験した)。しかし、人生と「学び」の先輩でもある指導者としては、それに安易に阿(おもね)るべきではないと私は考えている。となれば、指導者は受験生の消極性を打ち消すのに充分な程度の積極性を見せるべし、ということになる。

一方、学習者はさまざまであり、現時点での到達度や将来の目標などに配慮することも必要だ。その意味からは、重要度や難易度などに関する表示が教材の各項目に付されていれば便利なのは間違いない。実際にはそういう表示がない教材も少なくないが、そのような場合には指導者が補足すべきであるし、すればすむことではある。

結局のところ、「学び」に対する私の考えというのは、冒頭にも書いたように、「試験はあくまでも手段であって、試験があるから学ぶというものではない」ということに尽きるのだろうと思う。

 
※蛇足1(長め)
つい先日もとある大学受験生と長時間話す機会があったが、そのとき私が持ち出した話題は、数学基礎論(無限集合論の基礎、特に可付番集合の濃度、対角線論法、連続体仮説)や法解釈(刑法における「原因において自由な行為」の法理など)といったものだった。過去には科学論やビジネスなどさまざまな話をしているし、勉強法に関する話は毎度のことだ(受験生相手だから当然だが)。個別の問題を素材にして解き方や学び方について説明することもある(これは適宜やっている)。
もちろん受験生としてはこれからしばらくは試験対策にしっかり集中すべきであるし、私からは反復学習の際に注意すべきことについても忘れずに指摘しておいた。しかしその一方で、そういう時期であればこそ、当面の試験対策の向こう側に広がっている<知の世界>というものを少しでも知っておいてほしいとも私は思ったのだ。(宅浪時代の私などはそういうことに力を入れすぎたくらいだ。)
幸いその受験生は、私の話をそれなりに興味を持って聞いてくれていたようではあった。もちろん、長期的な効果についてはすぐにはわからないが、それが「知」や「学び」というものに対する私の姿勢なのだということは言えるだろう。今後も試験対策の邪魔にならない範囲で積極的に継続していきたいと考えている。

※蛇足2
とは言うものの、特定の試験で高得点を取ることを趣味にするのは個人の自由であることも指摘しておく必要があると思う。

posted by 物好鬼 at 07:05| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

積極的な学びの重要性

種田輝豊は『20ヵ国語ペラペラ』の中で次のように述べている。
「望まれる、片寄りのしない勉強方法−−これは結局、読解力と作文力の間の実力の差ができるだけ小さくなるような方法で勉強することである。
 読解力の養成は、読み・書き・話・聞きの四つの中でも、もっとも進歩が速い。作文力は、書きと話の母体である。作文力がないのに会話ばかり練習していると、何年たってもブロークンしか話せないのもあたりまえのことである。というのは、作文力こそ、正確な文法的知識に立脚するものだからである。」(p.161)
「作文力を基盤にもたない解釈力は、あぶなっかしい解読力であり、読解力ではありえない」(p.166)

私もそのとおりだと思う。その意味で私は英語の(というより外国語の)4技能化には賛成だ。ただし、大規模な試験の場合には実施可能性如何という問題があるから、拙速を避けて充分な準備をすべきであるとも考えている。犠牲になるのはいつも当事者(特に受験生)だからだ。
(ただし公教育の一部であるからには、実技面にばかり注目するのではなく、文法や語源や発音などについての知的関心という側面も含めて指導されるべきだろうとも思う。また、実技面に関しても文法的な理解がどこまで正確であるかといったことは4技能試験だけでは確認しづらいだろうから、そのような部分については記述式の導入が検討されてもよいはずだ。)
 
ところで、学習と試験の双方において、同様のことが他の科目についても言える。例えば数学で考えてみよう。
数学の試験にもマークシート方式と記述式の双方があるが、記述式の短所は英語のスピーキング・ライティングの場合と同様、採点基準と手間だろう。それゆえに、センター試験がマークシート方式であることは現状では肯定されるべきだと考える。
その一方で、長所についても類似性がある。数学の記述式問題に的確に解答するには正確な知識と理解(そしてある種の熟練)が要求されるからだ。その意味からは、数学が苦手な人ほど記述式対策が有用だとすら言える。もちろん基礎的な部分を中心に、正確な説明ができるように学ぶわけだ。
しかるに現実はというと、数学を苦手としている人ほど記述式よりマークシート方式の試験を望むだろうし、できれば数学が必須でない大学を受けたいと考えるだろう。このようにして数学への丁寧な取り組みから逃げてしまうと、ずっと苦手なままになってしまう可能性が高い。
 
もちろんこれは理科でも社会でも同様だ。音楽や体育や家庭科などが入試にあれば、実技試験について同様のことが言えるだろう。
 
それゆえ、学びに消極的になりすぎないように警戒すべきなのだが、その一方で、中高生に与えられた時間に限りがあることも事実だ。特に授業時間はそうだろう。勉強以外にもやるべきことはたくさんある。だから各人が科目間のバランスを考えて目標を設定する必要があると言える。基礎的な部分は皆が共有すべきだとしても、「全員が高度な英語力を」でもなければ「全員が高度な数学力を」でもない。そこから先は各人の自己責任ということになろう。
 
しかし、このあたりのバランス感覚はなかなか難しいのではないか。能力や熱意や置かれた環境に個人差があるということもあるが、指導者の多くは入試を通り抜けてから長期間を経ている関係で「入試のために多数の科目を学習する」ということの大変さがピンとこないということもある。その意味からは、大人たちもときには模試や入試に参加してみるのがよいのではないかと私は考えている。
(ここで「先ずは隗より始めよ」と入力しようとしたところ、「まず破壊より始めよ」と変換された。たしかに似たようなものかもしれないが、このあたりで終わりにしたい。)

posted by 物好鬼 at 06:46| Comment(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

医学生が弁護士を目指してはいかんのか?

今日は「医学部在学中に司法試験合格の東大生 資格取得への発言に番組でブーイング」という記事を読んで思ったことをツラツラと。

この種の尖った学生は批判されがちだが、批判する側は「自分は僻んでいるだけではないか」と自問することも必要だろう。批判するなら根拠を示すことが大事だ。

まず「いまいち将来像が明確になっていない」だが、これは何ら珍しいことではなく、一概に責められるべきことでもないと思う。私なんか今でも不明確なままだが、そこにはメリットもデメリットもあるというのが実際のところだ。まして若い学生となればなおさらだろう。

次に、この学生さんの「資格を持っておくと、発言に力があるじゃないですか」という発言。妙に反感を持たれてしまったようだが、それ自体としては間違ってはいない。そもそも発言に力を与えることができないのだとしたら何のための資格なのか?という話だ。もちろんここの「資格」というのは、専門性の高いものを想定している。その資格を保有している者の人格というのは(きわめて大事ではあるものの)また別の話だ。

以上の2点からだけでも、感情的な反発が強すぎることが見て取れる。

では、私はこの学生さんの主張に全面的に賛成なのかというと、必ずしもそうではない。こちらも2点指摘しておきたい。

まず、医学部というのはコストがかかるところなのに、国立だと他学部と同様の学費ですむ。そこにはつまり「他人のお金で勉強している」という側面があるわけだ。この点は、この学生さんのやり方に対する批判につながりうる。

また、特に東大理Vは90人という小さな枠だから、「彼のような人物が受かることによって、本来受かるべきだった人材が一人落とされた」ということもクローズアップされやすいだろう。

とは言え、いずれも禁止されていることではないから、「望ましくない」以上のことは言えないだろう。(私立大学の大きめの医学部だったらこのような問題自体がない、とは言えそうだが。)

結論は特にないのだが、この学生さんには「医療問題に強い法曹を目指します」くらいのことは言えるようになってほしいと思う。実際、医師で弁護士という人はこれまでにも存在しているのだ。将来についての見方はいろいろあるのだから、彼の今後に期待したい。

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2017年06月03日

スポーツが好きか嫌いかと言われても…

今日は「スポーツ嫌いダメ?国の目標波紋 『体育の恨み』影響も」という記事。

何事もそうだが、好きである方が取り組む際のストレスは少なくてすむし、上達にも有利だろう。そう考えると、スポーツ嫌いの比率を減らすのは望ましいことと言える。もちろん、すでにスポーツ嫌いになってしまっている子供たちの嗜好を変えるのはなかなか難しいだろうから、子供たちへの教育の仕方を工夫することで今後(←ここ重要)スポーツ嫌いに陥ってしまう子供を減らすという手段をとることによって全体的に(←ここも重要)スポーツ嫌いの比率を下げていく、というのが現実的だろう。

スポーツ庁の「第2期スポーツ基本計画」に関するページをざっと見たところでは、そのための具体的な方法は読み取れなかった。しかし同庁とて、まさか個々の中学生の嗜好を無理矢理変えようとしているわけではあるまい。それが困難であることは、「スポーツ」を「数学」などに置き換えてみれば、いわゆる「脳筋」な人たちにだってわかるはずだからだ。(買いかぶりすぎか?)

もっとも、「スポーツ嫌い」という括り方では議論が大雑把すぎるという点は指摘しておきたい。

私自身はというと、体育のうち器械体操(特にマット運動と跳び箱)と格技(相撲・柔道)は得意かつ「好き」だった(組み体操も得意だったが常に支える側だった)のに対し、水泳・陸上(特に長距離走)・球技(バレーのサーブ以外?)は平均以下だった。そして一番苦手だったのが踏み台昇降(笑)。苦手なもののすべてが明確に「嫌い」だったわけではないが、さりとて「好き」だったとも思えない。

しかし、あえてこのように分野別に見てみると、好き嫌いにもかなりの幅があるとわかるし、得手不得手の原因の大半が(授業外も含めた)積み重ねの多寡によるものだということも実感できる。例えば私が水泳や球技などを苦手としているのは、単に投下労働量が少なすぎたからでしかない(と自らを慰めることができる)わけだ。

こういう認識を持っていれば、新しい分野にチャレンジするときにも、あるいは苦手だった分野に再チャレンジするときにも、背中を押してくれる効果が多少はあるだろう。取り組んでいれば、もともとハッキリと「嫌い」だったものでも(「好き」まで行くのは難しいとしても)「取り組みの邪魔になるほど嫌いではない」という程度には好転する可能性はかなりあるはずだ。ときには「大好き」に豹変する可能性すらなくはない。

ついでだが、記事中にある「体を動かすこと自体が嫌いなわけじゃない。うまい人とやるから嫌いになる。レベル別に完全に分けてくれればいいのに」という意見には一理あると思う一方、一面的なものだとも思う。

というのは、自分よりもうまい人を身近な目標とすることは有益でありうる(私も何度か経験した)し、生徒をレベル別に分けたところで「○年生にもなってあのレベルにいるなんて」と言われたのでは状況はよくならない(ひょっとすると現状より悪くなる)からだ。

となると(少し話が飛んでいるかもしれないが)、
・個人差に対する寛容さ
・上達の可能性についての理解
といったことを文化の一部として根付かせることもまた大事なのではないか、と思われてくる。特に後者に関しては、学習者に「これならちょっと頑張ればうまくなれそうだぞ」と思ってもらえるような指導方法を工夫する必要があるし、それには競技性を強調しすぎないことも要求されるだろう。

※なお、以上のすべては勉強を含めた他の分野についても言えることだ。英語も数学も国語も…もちろん音楽や家庭科も、地図を読むことも人の話を聞くことも、だ。現時点で個別科目の指導をしている人は、苦手科目に再チャレンジすることでも新たな気付きが得られると思う。

(ところで、記事冒頭に "運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%" と書かれているが、他の科目はどうなんだろうか? 政策を打ち出す際に科目間のバランスを考慮することは極めて大切だと思うのだが。)

posted by 物好鬼 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 学習一般について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする